第45話:逃避行の破たん
スサノの砦を脱してから4日。リヨンの体力は限界に近付いていた。
疲労が濃い隈となって、その目の下に現れている。
「ママ、大丈夫?」
ミラが心配そうに声をかけるが、そのミラとて未だ傷は癒えておらず、満足に動けない状態だ。
小柄なリヨンにとって、ミラのサイズは既に自身と変わらない。それを抱えての飛行は非常な重労働。
加えて、ともに消耗した現在の状態では長時間の移動は不可能。そのために、未だに兵士の捜査網を抜け出せず、昼夜を問わず警戒を強いられる。
人目を忍ぶ夜間の移動や食料の確保が睡眠時間を圧迫し、息を潜めている昼間も警戒のために気の休まることがない。結果としてさらに体力が落ち、移動のスピードは減少する。
負の連鎖の中で、リヨンとミラは急速に消耗していた。
先行きの見通しが明るくないことは百も承知。それでも、リヨンはミラに笑顔を向けた。
「大丈夫よ。これくらい、少し休めば元気になるわ」
しかし、気力だけでは、どうにもできないことはある。破たんはほどなくして訪れた。
夜、闇に紛れるようにして飛び立ったリヨンは常にない身体の重さを感じて戸惑った。それでも、懸命に羽根を動かし飛行を続けたのだが、不意に強烈な眩暈に襲われた。
どうにか墜落することなく着地したが、その時には体は瘧のように震え、冷や汗が噴き出していた。自分でも知らない間に、地面に膝をつき荒い息をついている。
「ママ。ママ!?」
必死に呼びかけるミラの声に何一つ応えることもできず、リヨンの意識は暗転した。
その場に倒れ伏した母の姿に動揺しながらも、ミラは必死に行動した。
言うことを聞かない体を引きずるようにして、荷物から聖樹の杖を引っ張り出す。続いてリヨンの前にひざまずいて呪文を唱える。
何度もつかえ、間違えたが、どうにか詠唱を完了させた。
【聖杖スプラウトを通じて申し上げる。いと静けき緑の精霊よ。我が声に耳を傾け、弱き命に優しき恵みを施したまえ。聖緑の恵みを】
ミラの魔力に呼応して、周囲の木々から生命力がリヨンに流れ込む。土気色の頬に僅かに血の気が通い、呼吸が少し穏やかになった。
反対にミラの呼吸は乱れ、額に玉の汗が浮かぶ。満身創痍の状態で魔法を使ったのだから、当然の結果だ。
瀕死の状態での魔法行使は命に関わる。そうでなければ、とっくに自分自身を治療していた。
ミラは口の中を思い切り噛みしめた。霞む視界と途切れそうになる意識を痛みと血の味で何とかつなぎ止めようとする。
(気を失っては、ダメ。今は、私がママを守らなきゃ。)
必死に自分を鼓舞しながらも、自然と手が腰に伸びた。そこにはロクからの贈り物。石剣フォートレスが差さっている。
「ミラの身を守ってくれるように」
そう言ったロクの声が耳の奥に蘇った。
聖樹の杖とともに、石剣を手にしてリヨンは周囲に意識を向ける。闇に包まれた森のそこここから、今にも追手の兵士がとび出してきそうな感覚に陥る。
さっきまでは、母に守られていた。でも、今はミラが矢面に立っていた。緊張感が否が応にも高まって、ミラの神経を苛んだ。
がさり、と音がした。続けざまに、もう一つ。
風や小動物ではない。なぜなら、仄かに松明の明かりが木々の隙間に見えている。
ミラは母を庇う様にしながら、杖と剣を握る手に力を込めた。
嘔吐を催しそうな緊張と、うるさいほどの心臓の鼓動の中、少女は必死に考える。
今の自分には母を運んで隠れることも、魔法で姿を隠すことも出来はしない。でも、今のところ足音は1つ。
それなら、
緑の魔法。【幻惑乱】
小規模な行使を1度だけ。それなら、消耗しきった今の自分でも出来るかもしれない。
接近したところで、気づかれる前に魔法をかける。不意を突ければ正常な思考を失わせることが出来るはず。と
無論、接近せず通り過ぎてくれることが理想だった。しかし、願いむなしく足音は確実に近づいてくる。
接触が避けられないことを悟ったミラは杖を再度握りなおし、詠唱に入る。
【聖杖スプラウトを通じて申し上げる。いと静けき緑の精霊よ。我が声に耳を傾け、愚者に更なる白痴を与え…】
枝葉の合間から、相手が顔を出した。
老婆だ。手には大きな杖と松明。フード付きのローブを被っているが、どう見ても兵士には見えない。
「…ぁ、」
ミラの詠唱が途切れ、かすかな声が口から洩れた。
獣、あるいは魔物が徘徊する深夜の森で心神喪失の状態に陥らせる。そのことの危険性を理解できないほど、ミラは愚かではなかった。
相手が追手の兵士なら、自分や母を殺そうとしてくる敵なら、それもできただろう。
しかし、目の前にいるのはごく普通の老人だった。それでも、その口から情報が広まれば、待っているのは破滅だ。
それを理解してなお、ミラには出来なかった。
自身と母の破滅を悟った少女の目からは堪えようもなく涙があふれ、その口からは呪文の代わりに嗚咽が漏れた。
彼女もまた、限界だった。
「たすけて、たすけてください。ママを、ママだけは…」
見るからに尋常な状態でない様子の少女と魔物。
そんな光景を目にした場合、目撃者の取る行動にそれほどのパターンは存在しない。すなわち、逃げるか。助けを呼ぶかだ。
しかし、ミラとリヨンを発見した老婆の反応はそのどちらとも異なっていた。
老婆はしばしの間、呆気にとられたように二人を凝視した後。
ミラに対して皺だらけの顔に笑みを浮かべた。。
「大丈夫、大丈夫だよ。アンタも、そっちのハルピュイアも決して傷つけたりしやしない。」
言いながら、老婆は手にした杖を構えた。琥珀の大粒がはめ込まれているそれは、一見して魔法具と知れた。
相手が魔法使いであると知り、僅かに警戒するミラ。
老婆はとりなすような身振りでやんわりとそれを制した。不思議と説得力のある仕草だった。
【(緑神平癒祈願)かけまくもかしこきククノチのおおまえに、たふれふすをあはれとみそなはし、とくなほしいやさむ。こひのみまつらくを、きこしめして、めぐみさきはえたまへ。かしこみかしこみもうす。】
長い詠唱に合わせて、杖がゆっくりと動かされる。はめ込まれた琥珀の放つ燐光が、虚空に魔法陣を描き出す。
唱えられた呪文は初めて耳にするものだったが、その意味するところをミラはすぐに理解することになった。
自身の【聖緑の恵みを】と同種、しかし、より多くの癒しの力が流れ込んできたからだ。
弱った体が活力を取り戻していく。
老婆はリヨンにも同じ呪文を唱えると、ミラに向き直った。
「まあ、こんなもんだろう。一度にやりすぎるとかえって毒だからね。まだ、辛いかもしれないが、人頭鳥を家に運ぶから手を貸しておくれ。」
しわがれた柔らかい口調でそう言う老婆に対し、ミラがなんとかお礼を口にする。老婆は大したことじゃないとばかりに微笑した。
………。
ミラたちが倒れていた場所からほんの数分。ポッカリと森が切り拓かれ、小さな畑と10軒ほどの小屋が建つ集落。その隅に建つ1軒が彼女の棲み処だった。
老婆はローエンと名乗った。
「すまないね。茶か、スープでもあればいいんだが、あいにくどちらも切らしていてね。」
うずたかく積まれた藁に布を被せただけの即席の寝床にリヨンを寝かせた後、ローエンは白湯の入ったカップをミラに差し出した。
灯りは油の皿に火芯を点しただけの粗末なランプが1つだけだが、互いの表情くらいは窺える。
病人と老人でなんとかリヨンを運び、ひと塊になって入り口をくぐった時は息を切らしていたローエンだが、今は落ち着いた様子で白湯をすすっていた。
「ありがとう、ございます。」
リヨンの傍らに腰を下ろしていたミラは、礼を言ってカップを受け取った。
目の前の女性は少なくとも敵ではないようだったが、本当に信用できるかどうかはまだ分からなかった。
警戒しながら白湯を口に運び、ランプの明かりで改めて老婆の姿を眺める。
ローエンは、まるで古い毛玉のような老人だった。
もとより小柄であったであろう身体は、腰が曲がったことでより小さくひしゃげ。長い白髪は不可思議な形にまとめられている。
皺だらけの顔のなか、ぼさぼさの眉毛に隠れて、小さな目が水底で磨かれた小石のように光沢を放っていた。
その老婆の耳。頭の上で白髪と同じ色の毛に覆われ、自分の重さに耐えかねてペタリと寝ている三角形の耳。
それに気が付いたとき、ミラは思わず声を上げそうになった。
(獣人だ。初めて見た!!)
ミラの表情を読んだのか。大きな琥珀のはまった杖をついた老婆は、皺の間から声を出した。
しわがれているが、活力のある声。
「お嬢ちゃん。獣人を見るのは初めてかい。」
「はい、初めてです。」
ミラが素直に答えると、老婆は好ましい物を見たとでもいうように、ゆっくりと肯いた。
「私も、お前さんほどに見事な赤毛は初めて見たよ。魔物を母と呼ぶ娘もね。」
自分とリヨンとの関係をどう説明したものか。ミラが思いつくより先に、老婆が口を開いた。
「訳ありなのは分かっているよ。でも、まあ話は明日聞かせてもらおうかね。今日はもう遅いから。」
ミラはオズオズと、肯いた。
しばらくしてカップが空になると、ローエンは自分の物と合わせてそれをザッと片付けた。
「さあ、寝るとしよう。」
ローエンがランプの火を落とすと室内は暗闇に沈んだ。
老婆が簡素な寝台に横になる。その音を聞きながら、ミラはリヨンにそっと寄り添った。目は開いたままだ。
悪い人ではないとは思うが、相手の思惑は分からない。だから、何があってもいいように、眠らずにリヨンを守る。
ミラはそう考えていた。
考えていたのだが、野宿の連続と負傷によって激しく疲労した体は主人の思惑とは裏腹にアッと言う間に眠りの淵へと転がり落ちて行った。
………。
ミラが目を覚ましたとき、日は既に高く昇っていた。開け放たれた窓からは侵入した光が、部屋中を明るくしている。
自分が深く眠っていたことに気が付いた少女は思わず勢いよく体を起こし、そのせいで傷口に走った痛みに小さく悲鳴を漏らした。
小屋の中にローエンの姿はない。隣で未だ目を覚まさずにいるリヨン。その安らかな寝息に安堵しながらも、ミラは小屋の外の様子に注意を向けた。
畑では人が働き、井戸端で女たちが洗濯をしていた。ミラたちが集落に来たことはまだ広まっていないのか。いつも通りの朝に見える。
ローエンが帰ってきたのはそれからほどなくの事だった。静かに戸をあけて小屋に入って来る。手には食料らしき袋と、薬草と思われる乾いた葉を持っていた。
身を起こしていたミラに目を止めると、笑みを浮かべる。
「おはよう。よく眠れたみたいでなによりだ。」
不寝の番をするつもりだったとは言えず、ミラはわずかに赤くなった。
「お、おはようございます。」
「ちょっと待ってておくれ。今、朝食にするから」
そう言うとローエンはかまどに火を入れ、料理をはじめた。といっても、それほど手をかけるつもりはないらしい。かなり大雑把で大胆な手際だ。
しかし、手つき自体は手慣れており、年季を感じさせる。
やがて、出来上がったのは雑穀の粥と薬湯らしき緑色の液体だった。
「全部は無理だろうが、まあ、お食べ。」
大盛りの粥と、カップにはいた薬湯を手渡しながらローエンが言う。
ミラは礼を言って受け取ると、恐る恐るスプーンを口へと運ぶ。
おいしい、と思った。
舌が、というよりも体が食事を求めていたのだろう。薄めの塩味の中のほのかな甘み、そして雑穀の風味がことさらにおいしく感じられた。さじが次々と粥の入った深皿に伸びる。
ローエンはミラの食事風景をまぶしそうに見ていたが、頃合いを見計らって声をかけた。
「昨日は、何故あんなところで行き倒れていたんだい?それにお前さん、このハルピュイアのことを“ママ”って呼んでただろう。どういう関係なんだい。」
何と答えるべきか、あるいは答えないべきか、ミラは迷った。迷っているミラの沈黙をどう捉えたのか。ローエンは苦笑いした。
「なにか、厄介な事情があるんだろうってことは分かっているよ。でも、話しておくれ。決して悪いようにはしないから」
それでも、踏ん切りがつかないミラに対してローエンはさらに言葉をかける。
「この村はね。迫害された獣人に逃亡奴隷、それに前科者。スネに傷を持った奴らが肩寄せ合って作った村なのさ。みんながみんな良い奴じゃないけど、厄介な事情はお互い様さ。」
そこで一旦言葉をきると、僅かにミラの方へと身を乗り出す。
「本来なら、私たちは他人を詮索したりしない。自分も詮索されたくないからね。でも、お前さんたちの事情は中でも一等危険なニオイがする。どんな事情でも追い出したりはしないよ。でも、巻き込まれる恐れがあるなら、備える意味でも聞いておきたいんだよ。」
言うべきことは言ったとでもいう様に、ローエンは口を閉じた。そうして、視線をまっすぐにミラへと向ける。
ミラの言葉を待つように。
悩んだ末、ミラは話すことにした。「設定の話」も「本当の話」も。それから、砦で何があったか。
感情的で、拙い説明。特に砦のくだりでは自分でも整理がついていないことが多すぎる。
時折、涙でにじむ説明を、ローエンは急かすこともなく静かに聞き終えた。
老婆はそのまま、考え込んでいるようだった。左手が口元に当てられ眉間にはかすかに皺が寄っている。
が、それも長い時間ではない。しばらくするとミラに向き直り、口を開いた。
「話してくれて、ありがとう。事情は分かったよ。さっき言った通り、追い出すなんてしないから好きなだけいてくれてかまわない。その代わり、という訳ではないけれど。動けるようになったら、私の仕事を手伝っておくれ。」
「分かりました。ありがとうございます。」
ミラがそう応じると、ローエンは顔を一層しわだらけにして微笑んだ。




