第18話 戦場を聴く者
リディア隊が旧通信節跡へ向かい、ガイウス隊が側面経路を保っていた頃。
エリス・プロクシスXは、灰の街を見下ろしていた。
崩落した観測塔跡。
半分だけ残った高層構造物の上に、三つの影がある。
エリス。
ヴェロニカ。
ブロンテ。
足場は悪い。床面は傾き、補強材は焼け、風が吹くたびに細かな灰が舞った。通常の狙撃位置としては、不安定すぎる。
前線の突入路でもない。
側面防衛線でもない。
そのさらに外側。
アラミタマが損傷個体を回収し、群れを組み直す場所。
エリスはそこを見ていた。
正確には、見えてはいなかった。
遮蔽物が多すぎる。熱源は乱反射し、通信妨害は濃く、戦術端末の識別枠は何度も不確定を返す。
通常のプロクシスなら、そこで索敵を切る。
戦闘圏外。
有効照準外。
射撃成立条件、不足。
端末はそう処理している。
それでも、エリスは銃口を下ろさなかった。
「エリス、左側の射線は潰れてる」
ヴェロニカが瓦礫の端から戻ってきた。
装甲には白い粉塵が薄く積もっている。左肩の外装が削れているが、動作に支障はない。
「右なら開けられる。ただし、二十秒以上は保たない」
「すみません。左が必要です」
エリスは小さく言った。
ヴェロニカは首を横に振る。
「謝らなくていい。必要なら開ける」
「ですが、左は接近個体の経路に近いです」
「近いから、ブロンテが止める」
ブロンテは答えなかった。
代わりに、観測塔の下層へ降りる階段跡に立つ。防護装甲を展開し、短距離迎撃用の武装を起動した。
その背中で十分だった。
エリスは銃身をわずかに左へずらした。
スコープの向こうには、灰と瓦礫しかない。
しかし、その下で音が鳴っていた。
六脚が地面を打つ音。
損傷個体を抱えようとする回収個体が、通常より一拍遅れて脚を置く音。
青い単眼が通信を返すたび、ノイズの奥で細く震える音。
それは、耳で聞く音だけではない。
エーテル反応の遅延。
瓦礫に反射する微弱な振動。
戦場の奥で、何かが拾われる前に動く気配。
エリスには、それらが重なって聞こえた。
「まだ見えない」
ヴェロニカが言った。
「はい。私にも、見えてはいません」
「でも、いるんだね」
「……います」
「なら、場所を言って」
エリスは呼吸を整えた。
謝罪が先に出そうになる。
自分の見えないもののために、ヴェロニカは射線を開け、ブロンテは危険域に立つ。
遠くを拾えば拾うほど、近くの誰かが自分を守るために危険へ寄る。
それでも、銃口を下ろすことはできない。
この距離で、回収の動きそのものを読める者は他にいなかった。
「左奥。崩れた支柱の下。青い単眼が二つ、重なっています」
「二つ?」
「一つは損傷個体。もう一つが回収個体です。脚音がずれています」
「了解。左を開ける」
ヴェロニカが走った。
観測塔の残骸から、半壊した梁へ飛び移る。武装が短く火を噴き、射線上の細い障害物を切り落とした。
瓦礫が崩れる。
灰が舞う。
その向こうに、一瞬だけ青い光が滲んだ。
見えた、とは言えない。
だが、撃てる。
「接近個体、三」
ブロンテの声が入る。
彼女は階段跡から一歩前へ出た。
下層で、六脚の爪が金属片を踏む音がした。
「ブロンテ、近すぎます」
「近いから止められる」
「ですが」
「エリスは奥を見て」
それ以上、言葉はなかった。
ブロンテの防護装甲に、最初の接触音が響く。
重い。
アラミタマの六脚は、壁面を這うように上がってくる。球状コアを揺らさず、青い単眼だけをこちらへ向けていた。
ブロンテが迎撃する。
近接排除。
足場を守る。
エリスが狙撃姿勢を崩さないために。
ヴェロニカが射線を開き、ブロンテが近接を止める。
二人は、エリスが奥を見るための時間を作っている。
だから、外せない。
そう思った瞬間、照準がわずかに震えた。
エリスはその震えを抑えた。
感情は、照準に混ざる。
申し訳なさも、恐れも、全部が銃口を鈍らせる。
消しきれないなら、そこに置いたまま撃つ。
「ヴェロニカ、射線、あと三度右です」
『三度ね』
ヴェロニカが身体を反転させ、別の梁を撃ち抜く。
崩落。
灰の幕が割れた。
遠くで、青い単眼が二つ重なる。
損傷個体に近づく六脚。
その右側面で、外装がわずかに開き始めていた。
回収アームが出る。
掴む。
持ち上げる。
群れの中へ戻す。
その動きが成立する前に、止める。
エリスは、外装の隙間へ照準を置いた。
端末は、まだ識別を確定しない。
不確定。
距離過大。
遮蔽干渉。
射撃非推奨。
警告は正しい。
通常のプロクシスなら、撃たない。
エリスは引き金に指をかけた。
「回収個体、捕捉」
『撃てる?』
ヴェロニカが聞く。
「撃ちます」
銃声。
音は一拍遅れて戻ってきた。
遠距離用の弾体が、灰の幕を貫く。
直線ではない。わずかに沈み、崩れた梁の縁をかすめ、回収アームの基部へ吸い込まれる。
火花が散った。
回収個体は倒れない。
青い単眼も消えない。
だが、損傷個体を抱え込もうとしていた腕だけが、力を失った。
搬送姿勢が崩れ、六脚の動きが一拍遅れる。
その一拍で、回収は失敗した。
『命中』
ヴェロニカが言った。
「まだです。別の個体が、回収を引き継ぎます」
『見えた。追う』
ヴェロニカが二射目を重ねた。
エリスが止めた腕ではなく、その周囲へ滑り込んでくる六脚の前脚を撃つ。
脚部が砕け、回収経路が乱れた。
損傷個体は持ち上がらない。
青い単眼がいくつも明滅し、群れの動きがわずかに散る。
ブロンテの側で、金属が割れる音がした。
「接近個体、一基停止。二基目、上がる」
「ブロンテ、下がってください」
「まだ下がれない」
「あなたの装甲負荷が」
「エリス」
ブロンテの声は低かった。
「奥を見ろ」
エリスは唇を閉じた。
謝る時間があるなら、撃て。
言われていない言葉が、聞こえた気がした。
彼女は照準を戻す。
回収動作の失敗により、アラミタマ群の再配置が乱れ始めていた。
青い単眼の明滅周期がずれる。
後方の中継個体が、別の個体へ指示を回そうとしている。
そこを乱さなければ、群れは別の経路を組み直す。
「中継個体。瓦礫下、右奥。単眼の明滅が早い個体です」
『見えないね』
ヴェロニカが言う。
「はい」
『でも、いる』
「います」
『なら、開ける』
ヴェロニカは迷わなかった。
彼女は見えていない敵のために、射線を作る。
それが無謀ではなく、役割だと理解している。
エリスが見つける。
ヴェロニカが通す。
ブロンテが守る。
その三つで、エリス隊は一つの隊になる。
エリス一人では、遠くを見すぎる。
ヴェロニカ一人では、見えない敵へ届かない。
ブロンテ一人では、奥の再配置を止められない。
だから、三人で戦う。
エリスは、自分の異常性を名前で呼べなかった。
索敵範囲。
照準補正。
射撃成立距離。
訓練記録なら、どの項目にも数値がある。
けれど、数値は彼女の感覚を説明しきれない。
遠くにいる個体が分かるのではない。
遠くで、戦場の音が欠ける。
そこだけ反響が遅れる。
そこだけノイズが薄く、青い単眼の瞬きが、他より少しだけ早い。
だから、いる。
そう言うしかなかった。
「エリス、無理なら言って」
ヴェロニカの声が近い。
無理です、と言えば、二人は位置を変える。
ブロンテは危険域から下がり、ヴェロニカは射線を閉じる。
それは安全な判断だった。
だが、その間に回収個体は損傷個体を運び去る。
側面で細った火線が、もう一度太くなる。
「無理では、ありません」
エリスは言った。
強がりではない。
無理という言葉に届く前に、撃つべき場所が聞こえてしまうだけだった。
「少し、時間をください」
「どれくらい」
「八秒」
「ブロンテ」
「六秒なら確実。八秒は、少し痛い」
「痛いで済む?」
「済ませる」
短いやり取りだった。
エリスは唇を噛まなかった。
噛めば、照準がぶれる。
代わりに、胸の奥で小さく謝った。
次弾を装填する。
照準器の中で、灰の粒子が流れる。
その奥に、ほんのわずかな青があった。
見えたのではない。
音が、そこに集まっている。
「撃ちます」
銃声。
弾体は、青い単眼そのものではなく、その下で開閉を繰り返す小さな外縁部を撃ち抜いた。
中継個体の明滅が乱れる。
消えたのではない。
だが、群れへ返す信号が一拍ずれた。
同時に、戦場全体のノイズが一瞬だけ薄くなる。
前方戦域で、鋭い反応が走った。
詳細は分からない。
ただ、何かが断たれた。
側面戦域では、火線が細くなっている。
直接通信ではない。
ただ、エリスの撃った個体が乱れたことで、群れの再配置が遅れた。
その遅れが、別の戦域で一拍を作る。
一拍。
戦場では、それだけで誰かが帰れることがある。
「回収行動、停止」
ヴェロニカが言った。
ブロンテが最後の接近個体を壁面から落とす。
観測塔跡に、短い沈黙が戻った。
エリスは銃口を下ろさなかった。
灰の街は静かになっている。
青い単眼も、見える範囲では減った。
それでも。
「……音が、消えません」
エリスは言った。
「まだ敵がいる?」
ヴェロニカが振り返る。
「いいえ。敵では、ないと思います」
ブロンテが近くへ戻ってくる。装甲の表面には傷が増えていた。
「位置は」
「分かりません」
「危険か」
「分かりません」
エリスは、それしか言えなかった。
見えていない。
撃てない。
戦術端末にも出ない。
だが、灰の奥で何かが鳴っている。
アラミタマの脚音ではない。
砲口展開でも、回収アームでもない。
もっと深い場所。
戦場の下。
あるいは、戦場そのものの記憶の奥。
そう言いかけて、エリスは口を閉じた。
言葉にすると、違うものになる。
「エリス」
ヴェロニカが声をかける。
「帰還経路、まだ開いてる。今は戻るよ」
「はい」
エリスは銃を下ろした。
足場を離れる直前、もう一度だけ灰の街を見る。
青い単眼は、沈黙していた。
なのに、その奥で何かが、まだこちらを見ている気がした。
お読みいただきありがとうございます。
今回はエリス隊の回でした。
エリスは単なる狙撃手ではなく、通常のプロクシスでは拾えない距離の違和感を捉え、ルシアとブロンテがその能力を戦術として成立させる、という形で描いています。
リディア隊が「断つ」隊なら、エリス隊は「戻させない」隊です。
アラミタマという群れの不気味さも、少しずつ見えてきた回になりました。
次回は、第63次作戦の結果と、三つの隊の意味を整理する回になります。
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