祖父の遺品から出てきた八ミリフィルムに映っていたのは、隣に住む無愛想な映画監督の『初恋の人』だった件〜六十年越しの届かなかった恋文が、私たちを引き合わせました〜
祖父の四十九日を終えた、蒸し暑い土曜日のことだった。
「……なにこれ」
押し入れの奥から引っ張り出したのは、埃まみれの木箱。中には古びた八ミリ映写機と、カビ臭いフィルム缶が三つ。
私——藤野凛、二十九歳。彼氏なし。趣味なし。取り柄なし。
休日の予定といえば、こうして実家の遺品整理を手伝うくらいしかない、正真正銘の地味なOLである。
中堅メーカーの事務職。化粧は薄め。髪はいつも一つ結び。服は無難なベージュかグレー。
元彼には「お前といても退屈」と振られた。
うん、まあ、そういう人生だ。
「お母さん、これ知ってる?」
「さあ……お父さんの若い頃のものじゃない? 動くかしらね」
母は興味なさそうに台所へ戻っていった。
(まあ、映らないだろうな)
そう思いながらも、なんとなく気になってカーテンを閉める。
見よう見まねで映写機にフィルムをセットし、壁に向けてスイッチを入れた。
カタカタカタ……。
古い機械が軋みながら回り始める。
白い壁に、四角い光が揺れた。
「——っ」
息を、呑んだ。
映っていたのは、夏の縁側。
風に揺れる風鈴。麦茶のグラス。
そして——麦わら帽子を押さえながら笑う、若い女性。
(……誰、この人)
色褪せた映像の中で、その人は眩しそうに目を細めている。
カメラに向かって何か言っている。音声はない。
でも、その唇の動きは、たぶん——
『だめよ、恥ずかしいわ』
頬を染めて、困ったように、でも幸せそうに笑っている。
古い映画のヒロインみたいに、美しい人だった。
セピア色に褪せた映像なのに、その笑顔だけが鮮やかに輝いて見える。
(……待って。この縁側、うちの)
そこで気づく。
この家だ。この縁側は、私が子供の頃から知っている祖父母の家の縁側。
風鈴がぶら下がっている柱の位置。庭に見える柿の木。間違いない。
ということは。
「……おばあちゃん?」
信じられなかった。
私の知っている祖母は、腰の曲がった穏やかなおばあちゃんで。
白髪を綺麗に結って、いつも静かに微笑んでいて。
——こんなに綺麗だったなんて、知らなかった。
映像の中の祖母は、二十歳くらいだろうか。
涼やかな目元。笑うと現れるえくぼ。風になびく黒髪。
まるで、昭和の銀幕スターみたいだ。
呆然と画面を見つめていたその時。
ドンドンドンッ!
「っ!?」
突然、窓を叩く音。
心臓が跳ね上がって振り返ると——隣家の窓から、男がこちらを凝視していた。
黒いTシャツ。無精髭。切れ長の目。
近所で「挨拶もしない無愛想な変人」と噂の、最近越してきた隣人だ。
(え、怖っ……なに、不法侵入!?)
いや、不法侵入ではない。自分の家の窓から覗いているだけだ。
でも、その目つきが尋常じゃない。
窓越しに、男が口を開く。
「その映像」
低い声。
鬼気迫る、という表現がぴったりの表情で。
「——その女性は、誰ですか」
男の目は、壁に映る祖母の姿を射抜いていた。
まるで、幽霊でも見たかのような顔で。
いや、違う。
その目は——恋する人の目だった。
◇ ◇ ◇
「は、はい?」
意味がわからなかった。
隣の変人が、うちの壁に映った映像を見て、鬼の形相で問い詰めてくる。
完全にホラーである。
「あの、警察呼びますよ?」
「待ってくれ」
男は慌てたように手を振った。
「すまない、驚かせた。俺は怪しい者じゃない」
「十分怪しいです」
「……それはそうだ」
男は一度目を閉じ、深呼吸した。
そして、真っ直ぐにこちらを見る。
「瀬尾蒼真。映像作家をしている。頼むから話を聞いてほしい」
せお、そうま。
(……あれ? どこかで聞いたような)
「えっと……もしかして、映画監督の?」
「知っているのか」
「会社の後輩が言ってました。『海を編む人』の監督、この辺に住んでるらしいって」
確か、二年前に小さな映画祭で話題になった作品だ。
後輩の楓ちゃんが「エモすぎて泣いた」と騒いでいた記憶がある。
静かな漁村を舞台にした、老漁師の最後の航海を描いた短編映画。
評論家からの評価も高く、新進気鋭の監督として注目されていたはずだ。
「それで……その監督さんが、なんでうちの映像を?」
蒼真と名乗った男は、一瞬だけ苦しそうに眉を寄せた。
「——俺が映像を始めたきっかけが、あのフィルムなんだ」
「え?」
「子供の頃、祖父の家で観た。古い八ミリフィルム。夏の縁側で笑う、名前も知らない女性の映像」
男の声が、微かに震えている。
「何度も観た。何十回も。あの映像の中の人に、ずっと会いたかった」
壁に映る祖母を見つめる横顔は、まるで——
(……恋する人みたいだ)
いや、実際にそうなのかもしれない。
名前も知らない、会ったこともない、映像の中の女性に恋をした。
それが、この人が映像の世界を志したきっかけ。
「あなたの祖母、なのか」
「……たぶん、そう、です」
映写機が止まり、壁の光が消える。
蒼真さんは大きく息を吐いた。
そして、真剣な目で私を見た。
「頼みがある」
「は、はい」
「あなたの祖母を主人公にした映画を撮りたい」
……は?
「そして——」
蒼真さんは一歩、こちらに近づいた。
窓枠に手をかけ、身を乗り出すようにして。
「あなたに出演してほしい」
「——はあっ!?」
思わず声が裏返った。
「む、無理です無理無理! 私なんて地味だし、演技なんてしたことないし、そもそも祖母みたいに綺麗じゃないし——」
「あなたは気づいていない」
遮るように、低い声が落ちてきた。
「フィルムの中の彼女と、同じ目をしている」
——え。
「俺には、わかる」
蒼真さんの目は、真剣だった。
冗談を言っている顔じゃない。
切れ長の目が、真っ直ぐに私を捉えている。
「頼む。俺に——あなたを撮らせてほしい」
カーテンの隙間から、夕陽が差し込んでいた。
埃っぽい部屋で、心臓がうるさい。
(……なにこれ、なにこの状況)
二十九年間、地味に生きてきた私の日常が、音を立てて軋み始めた瞬間だった。
◇ ◇ ◇
結局、私は流されるまま、協力することになった。
だって、あの目で頼まれたら断れない。
映像の中の祖母に何十年も恋をしてきた人の、切実な眼差し。
映画に出るかどうかは別として、とりあえず祖母のことを調べる手伝いくらいなら——と、私は思ったのだ。
それから数日後。
「これ、祖母の日記です」
「……開けていいか」
「はい」
祖父の書斎から見つかった古い革表紙のノート。
蒼真さんは、まるで宝物に触れるように慎重にページをめくった。
黄ばんだ紙に、丁寧な筆跡で綴られた文字。
『七月十五日 晴れ。誠一郎さんが、また縁側で映画の話をしてくれた。フランス映画は難しいけれど、誠一郎さんの声で聞くと、なんでも素敵に聞こえる』
「……誠一郎」
蒼真さんの声が、固まった。
「どうかしましたか?」
「……俺の祖父の名前だ」
「え?」
「瀬尾誠一郎。俺の祖父だ」
偶然にしては、出来すぎている。
私の祖母と、蒼真さんの祖父。
同じ時代を生きた二人が、どこかで繋がっていた?
「調べさせてくれ。この日記、全部読ませてほしい」
「わ、わかりました」
蒼真さんの目が、子供のように輝いていた。
普段の無愛想な顔からは想像もつかないくらい、真剣で、必死で。
——ああ、この人は本当に、あの映像に恋をしていたんだ。
そう思うと、なんだか切なくなった。
それから、奇妙な日々が始まった。
仕事終わりに蒼真さんの家に寄り、一緒に祖母の日記を読む。
休日には、日記に出てくる場所を巡る。
蒼真さんの家は、隣なのに全く違う空気が流れていた。
壁一面に並ぶ映画のポスター。古いカメラのコレクション。本棚にはぎっしりと映画関連の書籍。
そして、部屋の中央にある編集用のモニターとパソコン。
でも、その機材には薄く埃が積もっていた。
「ここが、二人が初めて映画を観た映画館の跡地か」
「今はコインパーキングですけどね」
日記に書かれていた「日比谷座」という映画館。
昭和二十年代、戦後の混乱期に若者たちの憩いの場だったらしい。
「……当時の写真、残ってないかな」
「図書館の郷土資料にあるかも」
「行こう」
「え、今からですか?」
「善は急げだ」
(この人、本当にマイペースだな……)
無愛想で怖いと思っていた蒼真さんは、好きなものの話になると目を輝かせる人だった。
図書館では、郷土資料コーナーに二時間も籠もった。
古い映画館の写真を見つけた時なんて、子供みたいに「あった!」と声を上げていた。
司書さんに注意されて、慌てて口を押さえる姿は、ちょっとだけ可愛かった。
——いや、なに考えてるんだ私。
「なに笑ってる」
「いえ、なんでも」
「……変な奴」
「それはこっちのセリフです」
こういう時、蒼真さんは少しだけ口角を上げる。
たぶん、笑っているつもりなのだ。不器用すぎるけど。
図書館からの帰り道。
夕暮れの商店街を並んで歩きながら、私は聞いた。
「あの、蒼真さん」
「ん」
「ずっと気になってたんですけど」
「なんだ」
「……祖母と、あなたのお祖父さんって、どういう関係だったんですか」
蒼真さんの手が、止まった。
夕陽に照らされた横顔が、少しだけ陰った。
「……まだ、わからない」
「でも」
「ただ——祖父は、死ぬまであのフィルムを観ていた」
商店街の雑踏が、遠くに聞こえる。
「叶わなかった恋を、何度も何度も」
その横顔は、どこか寂しそうで。
私は、なぜか胸が苦しくなった。
◇ ◇ ◇
「凛さん凛さん凛さん!」
月曜日の昼休み。
後輩の三島楓が、目を輝かせて私のデスクに突撃してきた。
「な、なに、楓ちゃん」
「聞きましたよ! 例の映画監督と仲良くなったって!」
「え、なんで知って……」
「ご近所ネットワーク舐めないでください。うちのお母さん、凛さんのお母さんと仲良しなんで」
お母さん、情報漏洩が過ぎる。
「あの瀬尾監督ですよ!? 『海を編む人』の! 私、あの映画三回観て三回泣きました!」
「そ、そうなんだ」
「どんな人ですか!? やっぱりクールでミステリアスな感じ!?」
「えーと……無愛想で、口下手で、好きなことになると周りが見えなくなるタイプ、かな」
「ギャップ萌え!!」
楓ちゃんが両手を握りしめて叫んだ。
「それ絶対、凛さんのこと気に入ってますよね」
「いやいや、そんなわけ」
「だって、毎日凛さんの家に来てるんでしょ?」
「それは祖母の資料を調べてるだけで」
「じゃあなんで凛さんに映画出てほしいって言ったんですか」
「それは……祖母に似てるから」
「それだけじゃないと思いますけどねー」
楓ちゃんがにやにやしている。
「凛さん、自己評価バグってるから気づいてないだけですよ」
「なにが」
「凛さん、普通に綺麗ですからね? 古い映画のヒロインみたいな品のある美人ですからね?」
「……楓ちゃん、目大丈夫?」
「ほら、また始まった。凛さんのそういうとこ、私は好きですけど、もうちょっと自分を認めてあげてください」
楓ちゃんは、いつもこうだ。
華やかな見た目とは裏腹に、人の良いところを見つけて褒めるのが上手い。
私には、もったいないくらいいい後輩だと思う。
「とにかく! 凛さんに春が来そうな予感がするので、私は応援してます!」
「春じゃなくて夏なんだけど、季節的には」
「そういう話じゃないです!」
楓ちゃんが笑いながら自分のデスクに戻っていった。
——春、か。
二十九年間、そんなものとは無縁だったんだけど。
◇ ◇ ◇
決定的な発見があったのは、祖母の古い桐箪笥の奥からだった。
あれから二週間。
私と蒼真さんは、祖母の遺品を片っ端から調べていた。
「……手紙?」
黄ばんだ封筒。
宛名は「瀬尾誠一郎様」。
でも——切手が貼られていない。
「これ……出されてない手紙だ」
蒼真さんが、息を呑む気配がした。
「開けていいか」
「……はい」
震える指で、封を開ける。
中から出てきたのは、便箋三枚に綴られた、祖母の手紙だった。
『誠一郎さんへ。
お元気ですか。私は元気です——嘘です。元気ではありません。
あなたがいない毎日は、映画のない映画館のようです。
いつか戦争が終わったら、またあの縁側で、一緒に映画を観たいです。
あなたがカメラを回して、私がお茶を淹れて。
そんな当たり前の日々が、どれほど尊かったか。今になってわかります。
どうか、生きていてください。
必ず帰ってきてください。
私は、ずっと待っています。
——芙美子より』
「……っ」
視界が滲んだ。
「祖母は……ずっと待ってたんだ」
「ああ」
「でも、届かなかった」
「……ああ」
蒼真さんの声も、震えていた。
「祖父は——復員した時、芙美子さんが別の人と結婚したと聞いたらしい。だから会いに行かなかった」
「そんな……」
「すれ違いだ。戦争で、何もかもがめちゃくちゃになって——二人は、もう会えなかった」
祖母は、祖父と結婚して、私の母を産んで、穏やかに生きた。
蒼真さんの祖父も、別の女性と結婚して、家庭を持った。
でも、本当は——
「六十年だ」
蒼真さんが、絞り出すように言った。
「六十年、祖父はあのフィルムを観続けた。叶わなかった恋を、抱えたまま」
私は、堪えきれずに泣いた。
会いたかっただろう。
伝えたかっただろう。
でも、もう遅い。二人とも、もういない。
「……凛さん」
「はい」
「泣くな」
不器用な声。
「……泣くなよ」
大きな手が、私の頭にそっと触れた。
ぎこちない、不慣れな手つき。
でも、その温もりが——妙に、心に沁みた。
その夜、私は——初めて蒼真さんの「優しさ」を知った。
◇ ◇ ◇
祖父母の恋を知ってから、私は映画への出演を正式に承諾した。
祖母の想いを、形にしたいと思った。
届かなかった恋文を、映画という形で届けたいと思った。
撮影は、週末を中心に進められた。
場所は、祖父母の家。あの縁側。
蒼真さんは、二年ぶりにカメラを手に取った。
「……緊張する」
「俺もだ」
カメラを構える蒼真さんの手が、微かに震えていた。
師匠の死をきっかけにカメラを持てなくなったと聞いた。
二年間、一本も作品を撮れなかったと。
でも今、彼はカメラを構えている。
私を——撮るために。
「凛さん」
「はい」
「そこで、笑ってくれ」
「笑う……ですか」
「ああ。芙美子さんみたいに」
祖母みたいに。
あの、八ミリフィルムの中で微笑んでいた、若き日の祖母みたいに。
——私に、できるだろうか。
「考えすぎるな。ただ、笑えばいい」
蒼真さんの声が、静かに響いた。
「俺が、一番いい瞬間を撮る」
その言葉に、不思議と肩の力が抜けた。
縁側に座って、庭を眺める。
風鈴が鳴る。風が吹く。
六十年前、祖母もここで同じ景色を見ていたのだろうか。
誠一郎さんのカメラに撮られながら、恥ずかしそうに笑っていたのだろうか。
——おばあちゃん。
私、あなたの気持ち、少しわかる気がする。
好きな人にカメラを向けられるのは、照れくさいけど、嬉しい。
……あれ。
好きな人?
「——いい顔だ」
蒼真さんの声で、我に返った。
「今の表情、最高だった」
「え、あ、すみません、ぼーっとしてて」
「いや、それでいい。自然体が一番いい」
蒼真さんが、珍しく口角を上げている。
その顔を見て、私の心臓がどくんと跳ねた。
——やばい。
これ、やばいやつだ。
◇ ◇ ◇
撮影が進むにつれて、私の中で何かが軋み始めていた。
「凛さん、今日のシーン、最高だった」
「……そうですか」
「ああ。芙美子さんが憑依してるみたいだった」
——芙美子さん。
(そうだよね)
私じゃなくて、祖母を見てるんだ。
当たり前だ。
蒼真さんは、ずっと祖母に恋をしていたんだから。
八ミリフィルムの中の、名前も知らない女性に。
何十年も、ずっと。
私はその代わり。
祖母に似ているから、選ばれただけ。
「ちょっと疲れました。今日は帰ります」
「……凛さん?」
「おやすみなさい」
逃げるように、蒼真さんの家を出た。
外は、雨だった。
傘も持たずに飛び出したから、すぐにびしょ濡れになる。
(バカみたい)
何を期待していたんだろう。
地味で取り柄のない私が、映画監督に見初められるなんて。
私は「祖母の代わり」なのだ。
最初から、そうだった。
わかっていたはずなのに。
いつの間にか、期待していた。
蒼真さんが、私自身を見てくれていると。
——バカだ、私。
元彼にも言われたじゃないか。
「お前といても退屈」って。
私なんかに、誰かを惹きつける魅力なんてない。
「凛さん!」
後ろから、声。
振り返ると、蒼真さんが走ってきていた。傘も差さずに。
「なんで逃げる」
「逃げてません」
「逃げてるだろう」
「……別に」
「凛さん」
「——私は祖母じゃない!」
気づいたら、叫んでいた。
雨の中、声が震える。
「私は芙美子さんみたいに綺麗じゃないし、あなたが恋した人じゃない! 祖母の代わりに撮られて、都合よく利用されてるだけでしょ!?」
蒼真さんは、黙っていた。
雨に打たれながら、じっと私を見ている。
「私なんか見てない……最初から、ずっと、祖母しか見てない……っ」
涙と雨が混ざって、もう何が何だかわからない。
唇を噛んで、必死に嗚咽を堪える。
「……最初はそうだった」
蒼真さんの声が、静かに落ちてきた。
「最初は、芙美子さんの面影を追っていた。否定しない」
心臓が、痛い。
やっぱり、そうだったんだ。
「でも——」
蒼真さんが、一歩近づく。
「今は違う」
雨に濡れた髪から、雫が落ちる。
「俺が撮りたいのは、過去の芙美子さんじゃない」
大きな手が、私の頬に触れた。
冷たい雨の中、その手だけが温かい。
「今を生きる、あなただ」
——え。
「いつからか、わからない。でも、俺は——」
蒼真さんの耳が、真っ赤だった。
雨に濡れているのに、耳だけが赤い。
「あなたが、早口でまくし立てるところが好きだ」
「は」
「自分を卑下するくせに、芯が強いところが好きだ」
「え、ちょ」
「泣きそうになると唇を噛む癖も、照れると耳が赤くなるところも——全部、あなただから好きなんだ」
頭が真っ白になった。
好き。
好きって、言った?
この人が? 私に?
「……蒼真さん」
「だから逃げるな」
額をこつん、と合わせられる。
近い。近すぎる。
雨の音しか聞こえない。
いや、聞こえる。
蒼真さんの心臓の音が。
——速い。私と同じくらい。
「俺のカメラは、もうあなたしか映せない」
真っ直ぐな言葉が、心に突き刺さった。
この人は、嘘がつけない。
不器用で、口下手で、でも——真っ直ぐだ。
「……ずるい」
「なにが」
「そんなこと言われたら……断れないじゃないですか」
「断る気だったのか」
「……ちょっとは」
「じゃあ、断るな」
強引だ。本当に強引だ。
でも、嫌じゃない。
全然、嫌じゃない。
雨の音だけが、静かに響いていた。
◇ ◇ ◇
撮影も大詰めに差し掛かった頃。
最悪の男が現れた。
「久しぶり、凛」
会社の前で待ち伏せていたのは、元彼の中川拓也だった。
「……なんの用?」
「冷たいな。昔の彼氏にその態度?」
「昔の彼氏に用はないんだけど」
拓也は、相変わらず爽やかな笑顔を浮かべていた。
広告代理店勤務。スマートなスーツ。整った顔立ち。
付き合っていた頃は、この笑顔にときめいていた自分が信じられない。
「聞いたよ。映画に出るんだって?」
「……誰から」
「SNSで話題になってる。『海を編む人』の瀬尾監督の新作に、素人の女が出るって」
素人の女。
その言い方に、ぞわりとする。
「凛、考え直した方がいいよ」
「は?」
「お前に映画なんて無理だろ。また恥かくぞ」
——また?
「お前といても退屈」
かつて拓也に言われた言葉が、フラッシュバックする。
あの時の私なら、きっと傷ついて黙っていただろう。
でも、今は違う。
「それより、俺と復縁しない?」
「……は?」
「やっぱ凛が一番落ち着くっていうかさ。お前、俺の良さわかってくれるし」
(なに言ってるの、この人)
本気で意味がわからない。
自分から振っておいて、今さら復縁?
蒼真さんが話題の監督だから、嫉妬してるだけでしょ。
「——断る」
「え?」
「私、もう拓也に興味ないから」
拓也の顔が、一瞬で歪んだ。
「……調子乗んなよ」
「乗ってない。事実を言っただけ」
「映画監督と付き合ってるからって——」
「彼女に何か用か」
低い声が、背後から響いた。
振り返ると、蒼真さんが立っていた。
無表情。でも、目だけが鋭い。
獲物を狙う獣みたいな、静かな威圧感。
「あ、あんた誰?」
「瀬尾蒼真。凛の——」
一瞬の間。
「——恋人だ」
「っ!?」
私より先に、拓也が驚いていた。
いや、私も驚いてる。
恋人って、いつの間に!?
あの雨の夜から、確かに関係は変わったけど、正式に付き合ってるわけでは——
「こ、恋人? こいつと?」
「悪いか」
「いや、だって、こんな地味な——」
「彼女の魅力がわからないお前が、どうかしてる」
蒼真さんが、一歩前に出た。
拓也との間に、壁のように立ちはだかる。
「彼女は地味なんかじゃない。古い映画のヒロインみたいに品があって、笑うとえくぼが出て、誰よりも誠実で——」
「ちょ、蒼真さん、もういいから」
「よくない。言わせろ」
蒼真さんは、真っ直ぐに拓也を見据えた。
「彼女を『退屈』と言ったお前の目は節穴だ。俺は一生かけても、彼女を撮り尽くせないと思っている」
——え。
一生かけても、撮り尽くせない。
それって。
「帰れ。二度と彼女に近づくな」
静かな、でも有無を言わせない声。
拓也が、たじろいだ。
何か言いたそうにしていたが、蒼真さんの威圧感に押されて、結局何も言えずに去っていった。
情けない背中が、どんどん小さくなる。
(……なんであんな人と付き合ってたんだろう)
今になって思う。
私は、自分を大事にしてくれない人を選んでいた。
自分に自信がなかったから、私を「格下」として見てくれる人の方が楽だったのかもしれない。
でも、もうそんな恋愛はしたくない。
「……蒼真さん」
「なんだ」
「恋人って」
「事実だろう」
「いや、まだ正式には——」
「じゃあ今する。付き合ってくれ」
「え、ここで!?」
「ここ以外でどこでする」
「いやもっとこう、雰囲気とか——」
「俺にそういうのを求めるな。壊滅的に下手なのは知ってるだろう」
蒼真さんの耳は、また真っ赤だった。
本当に、告白が下手すぎる。
でも、その不器用さが——なんだか、愛おしい。
「……はい」
「は?」
「付き合います」
蒼真さんが、目を丸くした。
そして——初めて見る、満面の笑顔。
不器用で、ぎこちなくて、でも、眩しいくらいの笑顔。
「……そうか」
「はい」
「よかった」
不器用に笑う蒼真さんを見て、私も笑った。
会社の前で、めちゃくちゃ目立っているけど、もうどうでもいい。
——ああ、これが恋か。
二十九年間、知らなかった感情が、胸の中で暴れている。
◇ ◇ ◇
小さな映画祭の日が来た。
『八月のフィルム』——祖母と祖父、そして私の物語を綴った短編映画。
会場は、古い名画座。
レトロな赤いシートが並ぶ、昔ながらの映画館だ。
席数は百もないけれど、満席だった。
「緊張する」
「俺もだ」
蒼真さんが、隣で囁いた。
いつもは無表情なのに、今日は少しだけ固い顔をしている。
二年ぶりの新作。
彼にとっても、大きな意味のある作品なのだ。
照明が落ちる。
スクリーンに、光が灯る。
最初に映ったのは、あの八ミリフィルムの映像。
夏の縁側で、麦わら帽子を押さえて笑う若き日の祖母。
色褪せたセピア色の中で、祖母は眩しそうに目を細めている。
そして、画面が切り替わる。
——現代の縁側。同じ構図。
麦わら帽子を押さえて、照れくさそうに笑う、私。
『恥ずかしいですってば』
『もう少しだけ。——そう、その笑顔』
映像の中の私が、カメラに向かって困ったように笑う。
それは、六十年前の祖母と、同じ表情だった。
スクリーンには、過去と現在が交互に映し出される。
祖母と誠一郎さんの、叶わなかった恋。
私と蒼真さんの、始まったばかりの恋。
届かなかった恋文の朗読。
涙を流しながら手紙を読む私の姿。
そして、縁側で笑い合う二人の映像——過去と現在が、重なり合う。
六十年の時を超えて、二つの物語が交錯する。
会場から、すすり泣きの声が聞こえた。
最後のシーン。
縁側で、私が古い手紙を読んでいる。
カメラがゆっくりとズームアウトすると、隣には蒼真さんの姿。
二人で、夕陽を眺めている。
そして、ナレーション。
『届かなかった想いは、時を超えて、届くべき人のもとへ届く。
形を変えて。人を変えて。
六十年越しの恋文は、今、新しい物語を紡ぎ始める——』
画面が暗転。
エンドロールが流れ始めると、会場から拍手が起きた。
最初は小さく、やがて大きく。
割れんばかりの拍手が、会場を包む。
隣を見ると、蒼真さんが私の手を握っていた。
強く、でも優しく。
「……ありがとう」
「何が」
「俺の映画に、出てくれて」
「私の方こそ。おばあちゃんのこと、たくさん知れた」
祖母は、穏やかなだけの人じゃなかった。
情熱的に恋をして、届かない想いを抱えて、それでも前を向いて生きた人だった。
その血が、私にも流れている。
——おばあちゃん、私、恋をしたよ。
あなたみたいに、真っ直ぐに。
拍手の中、蒼真さんが立ち上がった。
私の手を引いて、スクリーンの前へ。
「凛さん」
「は、はい」
「一つ、いいか」
会場が、静かになった。
蒼真さんが、私の前に膝をついた。
「……え、ちょっと、蒼真さん?」
「これからは、あなたとの時間を撮らせてほしい」
ポケットから、小さな箱を取り出す。
中には、シンプルなシルバーのリング。
「——結婚してくれ」
会場がどよめいた。
「え、ここで!? みんな見てるのに!?」
「見ててもらった方が、逃げられないだろう」
「そういう問題じゃ——」
「返事は」
真剣な目。でも耳は真っ赤。
ああ、もう。
この人は、本当に不器用で、真っ直ぐで、どうしようもなく——
「……はい」
涙が溢れた。
「はい。私も、あなたと一緒にいたいです」
蒼真さんが、立ち上がって私を抱きしめた。
会場から、割れんばかりの拍手と歓声。
どこかで「キャー!」という黄色い悲鳴も聞こえる。楓ちゃんの声だ、たぶん。
スクリーンには、まだエンドロールが流れている。
祖母と誠一郎さんの名前が、クレジットされていた。
『藤野芙美子 瀬尾誠一郎 ——二人の恋に捧ぐ』
「おばあちゃん」
心の中で呟く。
「見ててね。私、幸せになるから」
色褪せた八ミリフィルムが繋いだ、六十年越しの恋のリレー。
祖母が遺した映像の中で——私たちの、新しい物語が始まる。
◇ ◇ ◇
——エピローグ。
「凛さん、そっち持って」
「はいはい」
結婚式から一年後の夏。
私たちは、祖父母の家——今は私たちの家——の縁側で、八ミリカメラを構えていた。
もちろん、カメラを回すのは蒼真さん。
最近、彼は古い八ミリカメラを修理して、また動くようにした。
「ほら、笑って」
「だから恥ずかしいって言ってるのに」
「芙美子さんも同じこと言ってた」
「……そうだろうね」
六十年前、祖母も同じ場所で、同じことを言っていたのだろう。
私は祖母じゃない。
でも、祖母の血を引いている。
祖母が恋した人の孫と、恋をしている。
不思議な縁だと思う。
「凛さん」
「なに」
「……好きだ」
「急に何」
「言いたくなった」
「……私も、好き」
蒼真さんの耳が赤くなる。一年経っても変わらない。
告白が下手なのも、照れるとすぐ耳が赤くなるのも、相変わらずだ。
「あ、そうだ。楓ちゃんから連絡きてた。拓也さん、左遷されたって」
「因果応報だな」
「うん」
なんでも、社内の経費不正が発覚して、地方の支社に飛ばされたらしい。
正直、もうどうでもいい。
今の私には、撮りたいものを撮れるようになった映画監督の夫と、風の通る縁側と、麦茶のグラスがある。
祖母が夢見て、叶えられなかった「当たり前の幸せ」が、ここにある。
「凛さん」
「ん?」
「これから何十年も、あなたを撮り続ける」
「……何十年も同じ顔撮って飽きない?」
「飽きるわけないだろう」
当然だという顔で言われて、耳が熱くなる。
「俺のフィルムには、もうあなたしか映らない」
夏の風が、風鈴を揺らした。
チリン、と涼やかな音が響く。
六十年前と同じ音。
六十年前と同じ縁側。
でも、ここにいるのは私たちだ。
——おばあちゃん、誠一郎さん。
あなたたちの恋は、ちゃんと届いたよ。
形を変えて、時を超えて。
私たちが、受け取りました。
カタカタと、八ミリカメラが回る音がする。
新しいフィルムに、新しい物語が刻まれていく。
色褪せることのない、私たちの恋の記録。
そして——いつか、この家に子供が生まれたら。
このフィルムを見せてあげたいと思う。
あなたのひいおばあちゃんとひいおじいちゃんは、こんな恋をしていたんだよ、って。
六十年越しの恋文が繋いだ、私たちの物語を。
「——凛さん」
「なに?」
「やっぱり、最高に綺麗だ」
「……もう、恥ずかしいってば」
でも、嬉しい。
素直に、そう思える自分がいる。
私は地味で、取り柄がなくて、退屈な女だと思っていた。
でも、この人は「一生かけても撮り尽くせない」と言ってくれる。
私の全部を、愛してくれる。
——ああ、幸せだな。
縁側で、夫と並んで座る。
風鈴が鳴る。蝉が鳴く。麦茶のグラスに汗が浮かぶ。
なんてことない、夏の一日。
でも、この「当たり前」が、どれほど尊いか。
祖母は、それを知っていた。
だから、あの手紙に書いたのだ。
『そんな当たり前の日々が、どれほど尊かったか。今になってわかります』
——おばあちゃん。
私、やっと、わかった気がするよ。
カタカタと、フィルムが回り続ける。
私たちの物語を、刻み続ける。
色褪せても、壊れても、きっと残る。
六十年後の誰かに届くように。
今度こそ、届きますように。
——〈完〉——




