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祖父の遺品から出てきた八ミリフィルムに映っていたのは、隣に住む無愛想な映画監督の『初恋の人』だった件〜六十年越しの届かなかった恋文が、私たちを引き合わせました〜

作者: uta
掲載日:2026/05/03

祖父の四十九日を終えた、蒸し暑い土曜日のことだった。


「……なにこれ」


 押し入れの奥から引っ張り出したのは、埃まみれの木箱。中には古びた八ミリ映写機と、カビ臭いフィルム缶が三つ。


 私——藤野凛、二十九歳。彼氏なし。趣味なし。取り柄なし。


 休日の予定といえば、こうして実家の遺品整理を手伝うくらいしかない、正真正銘の地味なOLである。


 中堅メーカーの事務職。化粧は薄め。髪はいつも一つ結び。服は無難なベージュかグレー。


 元彼には「お前といても退屈」と振られた。


 うん、まあ、そういう人生だ。


「お母さん、これ知ってる?」


「さあ……お父さんの若い頃のものじゃない? 動くかしらね」


 母は興味なさそうに台所へ戻っていった。


(まあ、映らないだろうな)


 そう思いながらも、なんとなく気になってカーテンを閉める。


 見よう見まねで映写機にフィルムをセットし、壁に向けてスイッチを入れた。


 カタカタカタ……。


 古い機械が軋みながら回り始める。


 白い壁に、四角い光が揺れた。


「——っ」


 息を、呑んだ。


 映っていたのは、夏の縁側。


 風に揺れる風鈴。麦茶のグラス。


 そして——麦わら帽子を押さえながら笑う、若い女性。


(……誰、この人)


 色褪せた映像の中で、その人は眩しそうに目を細めている。


 カメラに向かって何か言っている。音声はない。


 でも、その唇の動きは、たぶん——


『だめよ、恥ずかしいわ』


 頬を染めて、困ったように、でも幸せそうに笑っている。


 古い映画のヒロインみたいに、美しい人だった。


 セピア色に褪せた映像なのに、その笑顔だけが鮮やかに輝いて見える。


(……待って。この縁側、うちの)


 そこで気づく。


 この家だ。この縁側は、私が子供の頃から知っている祖父母の家の縁側。


 風鈴がぶら下がっている柱の位置。庭に見える柿の木。間違いない。


 ということは。


「……おばあちゃん?」


 信じられなかった。


 私の知っている祖母は、腰の曲がった穏やかなおばあちゃんで。


 白髪を綺麗に結って、いつも静かに微笑んでいて。


 ——こんなに綺麗だったなんて、知らなかった。


 映像の中の祖母は、二十歳くらいだろうか。


 涼やかな目元。笑うと現れるえくぼ。風になびく黒髪。


 まるで、昭和の銀幕スターみたいだ。


 呆然と画面を見つめていたその時。


 ドンドンドンッ!


「っ!?」


 突然、窓を叩く音。


 心臓が跳ね上がって振り返ると——隣家の窓から、男がこちらを凝視していた。


 黒いTシャツ。無精髭。切れ長の目。


 近所で「挨拶もしない無愛想な変人」と噂の、最近越してきた隣人だ。


(え、怖っ……なに、不法侵入!?)


 いや、不法侵入ではない。自分の家の窓から覗いているだけだ。


 でも、その目つきが尋常じゃない。


 窓越しに、男が口を開く。


「その映像」


 低い声。


 鬼気迫る、という表現がぴったりの表情で。


「——その女性は、誰ですか」


 男の目は、壁に映る祖母の姿を射抜いていた。


 まるで、幽霊でも見たかのような顔で。


 いや、違う。


 その目は——恋する人の目だった。



       ◇ ◇ ◇



「は、はい?」


 意味がわからなかった。


 隣の変人が、うちの壁に映った映像を見て、鬼の形相で問い詰めてくる。


 完全にホラーである。


「あの、警察呼びますよ?」


「待ってくれ」


 男は慌てたように手を振った。


「すまない、驚かせた。俺は怪しい者じゃない」


「十分怪しいです」


「……それはそうだ」


 男は一度目を閉じ、深呼吸した。


 そして、真っ直ぐにこちらを見る。


「瀬尾蒼真。映像作家をしている。頼むから話を聞いてほしい」


 せお、そうま。


(……あれ? どこかで聞いたような)


「えっと……もしかして、映画監督の?」


「知っているのか」


「会社の後輩が言ってました。『海を編む人』の監督、この辺に住んでるらしいって」


 確か、二年前に小さな映画祭で話題になった作品だ。


 後輩の楓ちゃんが「エモすぎて泣いた」と騒いでいた記憶がある。


 静かな漁村を舞台にした、老漁師の最後の航海を描いた短編映画。


 評論家からの評価も高く、新進気鋭の監督として注目されていたはずだ。


「それで……その監督さんが、なんでうちの映像を?」


 蒼真と名乗った男は、一瞬だけ苦しそうに眉を寄せた。


「——俺が映像を始めたきっかけが、あのフィルムなんだ」


「え?」


「子供の頃、祖父の家で観た。古い八ミリフィルム。夏の縁側で笑う、名前も知らない女性の映像」


 男の声が、微かに震えている。


「何度も観た。何十回も。あの映像の中の人に、ずっと会いたかった」


 壁に映る祖母を見つめる横顔は、まるで——


(……恋する人みたいだ)


 いや、実際にそうなのかもしれない。


 名前も知らない、会ったこともない、映像の中の女性に恋をした。


 それが、この人が映像の世界を志したきっかけ。


「あなたの祖母、なのか」


「……たぶん、そう、です」


 映写機が止まり、壁の光が消える。


 蒼真さんは大きく息を吐いた。


 そして、真剣な目で私を見た。


「頼みがある」


「は、はい」


「あなたの祖母を主人公にした映画を撮りたい」


 ……は?


「そして——」


 蒼真さんは一歩、こちらに近づいた。


 窓枠に手をかけ、身を乗り出すようにして。


「あなたに出演してほしい」


「——はあっ!?」


 思わず声が裏返った。


「む、無理です無理無理! 私なんて地味だし、演技なんてしたことないし、そもそも祖母みたいに綺麗じゃないし——」


「あなたは気づいていない」


 遮るように、低い声が落ちてきた。


「フィルムの中の彼女と、同じ目をしている」


 ——え。


「俺には、わかる」


 蒼真さんの目は、真剣だった。


 冗談を言っている顔じゃない。


 切れ長の目が、真っ直ぐに私を捉えている。


「頼む。俺に——あなたを撮らせてほしい」


 カーテンの隙間から、夕陽が差し込んでいた。


 埃っぽい部屋で、心臓がうるさい。


(……なにこれ、なにこの状況)


 二十九年間、地味に生きてきた私の日常が、音を立てて軋み始めた瞬間だった。



       ◇ ◇ ◇



 結局、私は流されるまま、協力することになった。


 だって、あの目で頼まれたら断れない。


 映像の中の祖母に何十年も恋をしてきた人の、切実な眼差し。


 映画に出るかどうかは別として、とりあえず祖母のことを調べる手伝いくらいなら——と、私は思ったのだ。


 それから数日後。


「これ、祖母の日記です」


「……開けていいか」


「はい」


 祖父の書斎から見つかった古い革表紙のノート。


 蒼真さんは、まるで宝物に触れるように慎重にページをめくった。


 黄ばんだ紙に、丁寧な筆跡で綴られた文字。


『七月十五日 晴れ。誠一郎さんが、また縁側で映画の話をしてくれた。フランス映画は難しいけれど、誠一郎さんの声で聞くと、なんでも素敵に聞こえる』


「……誠一郎」


 蒼真さんの声が、固まった。


「どうかしましたか?」


「……俺の祖父の名前だ」


「え?」


「瀬尾誠一郎。俺の祖父だ」


 偶然にしては、出来すぎている。


 私の祖母と、蒼真さんの祖父。


 同じ時代を生きた二人が、どこかで繋がっていた?


「調べさせてくれ。この日記、全部読ませてほしい」


「わ、わかりました」


 蒼真さんの目が、子供のように輝いていた。


 普段の無愛想な顔からは想像もつかないくらい、真剣で、必死で。


 ——ああ、この人は本当に、あの映像に恋をしていたんだ。


 そう思うと、なんだか切なくなった。


 それから、奇妙な日々が始まった。


 仕事終わりに蒼真さんの家に寄り、一緒に祖母の日記を読む。


 休日には、日記に出てくる場所を巡る。


 蒼真さんの家は、隣なのに全く違う空気が流れていた。


 壁一面に並ぶ映画のポスター。古いカメラのコレクション。本棚にはぎっしりと映画関連の書籍。


 そして、部屋の中央にある編集用のモニターとパソコン。


 でも、その機材には薄く埃が積もっていた。


「ここが、二人が初めて映画を観た映画館の跡地か」


「今はコインパーキングですけどね」


 日記に書かれていた「日比谷座」という映画館。


 昭和二十年代、戦後の混乱期に若者たちの憩いの場だったらしい。


「……当時の写真、残ってないかな」


「図書館の郷土資料にあるかも」


「行こう」


「え、今からですか?」


「善は急げだ」


(この人、本当にマイペースだな……)


 無愛想で怖いと思っていた蒼真さんは、好きなものの話になると目を輝かせる人だった。


 図書館では、郷土資料コーナーに二時間も籠もった。


 古い映画館の写真を見つけた時なんて、子供みたいに「あった!」と声を上げていた。


 司書さんに注意されて、慌てて口を押さえる姿は、ちょっとだけ可愛かった。


 ——いや、なに考えてるんだ私。


「なに笑ってる」


「いえ、なんでも」


「……変な奴」


「それはこっちのセリフです」


 こういう時、蒼真さんは少しだけ口角を上げる。


 たぶん、笑っているつもりなのだ。不器用すぎるけど。


 図書館からの帰り道。


 夕暮れの商店街を並んで歩きながら、私は聞いた。


「あの、蒼真さん」


「ん」


「ずっと気になってたんですけど」


「なんだ」


「……祖母と、あなたのお祖父さんって、どういう関係だったんですか」


 蒼真さんの手が、止まった。


 夕陽に照らされた横顔が、少しだけ陰った。


「……まだ、わからない」


「でも」


「ただ——祖父は、死ぬまであのフィルムを観ていた」


 商店街の雑踏が、遠くに聞こえる。


「叶わなかった恋を、何度も何度も」


 その横顔は、どこか寂しそうで。


 私は、なぜか胸が苦しくなった。



       ◇ ◇ ◇



「凛さん凛さん凛さん!」


 月曜日の昼休み。


 後輩の三島楓が、目を輝かせて私のデスクに突撃してきた。


「な、なに、楓ちゃん」


「聞きましたよ! 例の映画監督と仲良くなったって!」


「え、なんで知って……」


「ご近所ネットワーク舐めないでください。うちのお母さん、凛さんのお母さんと仲良しなんで」


 お母さん、情報漏洩が過ぎる。


「あの瀬尾監督ですよ!? 『海を編む人』の! 私、あの映画三回観て三回泣きました!」


「そ、そうなんだ」


「どんな人ですか!? やっぱりクールでミステリアスな感じ!?」


「えーと……無愛想で、口下手で、好きなことになると周りが見えなくなるタイプ、かな」


「ギャップ萌え!!」


 楓ちゃんが両手を握りしめて叫んだ。


「それ絶対、凛さんのこと気に入ってますよね」


「いやいや、そんなわけ」


「だって、毎日凛さんの家に来てるんでしょ?」


「それは祖母の資料を調べてるだけで」


「じゃあなんで凛さんに映画出てほしいって言ったんですか」


「それは……祖母に似てるから」


「それだけじゃないと思いますけどねー」


 楓ちゃんがにやにやしている。


「凛さん、自己評価バグってるから気づいてないだけですよ」


「なにが」


「凛さん、普通に綺麗ですからね? 古い映画のヒロインみたいな品のある美人ですからね?」


「……楓ちゃん、目大丈夫?」


「ほら、また始まった。凛さんのそういうとこ、私は好きですけど、もうちょっと自分を認めてあげてください」


 楓ちゃんは、いつもこうだ。


 華やかな見た目とは裏腹に、人の良いところを見つけて褒めるのが上手い。


 私には、もったいないくらいいい後輩だと思う。


「とにかく! 凛さんに春が来そうな予感がするので、私は応援してます!」


「春じゃなくて夏なんだけど、季節的には」


「そういう話じゃないです!」


 楓ちゃんが笑いながら自分のデスクに戻っていった。


 ——春、か。


 二十九年間、そんなものとは無縁だったんだけど。



       ◇ ◇ ◇



 決定的な発見があったのは、祖母の古い桐箪笥の奥からだった。


 あれから二週間。


 私と蒼真さんは、祖母の遺品を片っ端から調べていた。


「……手紙?」


 黄ばんだ封筒。


 宛名は「瀬尾誠一郎様」。


 でも——切手が貼られていない。


「これ……出されてない手紙だ」


 蒼真さんが、息を呑む気配がした。


「開けていいか」


「……はい」


 震える指で、封を開ける。


 中から出てきたのは、便箋三枚に綴られた、祖母の手紙だった。


『誠一郎さんへ。


 お元気ですか。私は元気です——嘘です。元気ではありません。


 あなたがいない毎日は、映画のない映画館のようです。


 いつか戦争が終わったら、またあの縁側で、一緒に映画を観たいです。


 あなたがカメラを回して、私がお茶を淹れて。


 そんな当たり前の日々が、どれほど尊かったか。今になってわかります。


 どうか、生きていてください。


 必ず帰ってきてください。


 私は、ずっと待っています。


                ——芙美子より』


「……っ」


 視界が滲んだ。


「祖母は……ずっと待ってたんだ」


「ああ」


「でも、届かなかった」


「……ああ」


 蒼真さんの声も、震えていた。


「祖父は——復員した時、芙美子さんが別の人と結婚したと聞いたらしい。だから会いに行かなかった」


「そんな……」


「すれ違いだ。戦争で、何もかもがめちゃくちゃになって——二人は、もう会えなかった」


 祖母は、祖父と結婚して、私の母を産んで、穏やかに生きた。


 蒼真さんの祖父も、別の女性と結婚して、家庭を持った。


 でも、本当は——


「六十年だ」


 蒼真さんが、絞り出すように言った。


「六十年、祖父はあのフィルムを観続けた。叶わなかった恋を、抱えたまま」


 私は、堪えきれずに泣いた。


 会いたかっただろう。


 伝えたかっただろう。


 でも、もう遅い。二人とも、もういない。


「……凛さん」


「はい」


「泣くな」


 不器用な声。


「……泣くなよ」


 大きな手が、私の頭にそっと触れた。


 ぎこちない、不慣れな手つき。


 でも、その温もりが——妙に、心に沁みた。


 その夜、私は——初めて蒼真さんの「優しさ」を知った。



       ◇ ◇ ◇



 祖父母の恋を知ってから、私は映画への出演を正式に承諾した。


 祖母の想いを、形にしたいと思った。


 届かなかった恋文を、映画という形で届けたいと思った。


 撮影は、週末を中心に進められた。


 場所は、祖父母の家。あの縁側。


 蒼真さんは、二年ぶりにカメラを手に取った。


「……緊張する」


「俺もだ」


 カメラを構える蒼真さんの手が、微かに震えていた。


 師匠の死をきっかけにカメラを持てなくなったと聞いた。


 二年間、一本も作品を撮れなかったと。


 でも今、彼はカメラを構えている。


 私を——撮るために。


「凛さん」


「はい」


「そこで、笑ってくれ」


「笑う……ですか」


「ああ。芙美子さんみたいに」


 祖母みたいに。


 あの、八ミリフィルムの中で微笑んでいた、若き日の祖母みたいに。


 ——私に、できるだろうか。


「考えすぎるな。ただ、笑えばいい」


 蒼真さんの声が、静かに響いた。


「俺が、一番いい瞬間を撮る」


 その言葉に、不思議と肩の力が抜けた。


 縁側に座って、庭を眺める。


 風鈴が鳴る。風が吹く。


 六十年前、祖母もここで同じ景色を見ていたのだろうか。


 誠一郎さんのカメラに撮られながら、恥ずかしそうに笑っていたのだろうか。


 ——おばあちゃん。


 私、あなたの気持ち、少しわかる気がする。


 好きな人にカメラを向けられるのは、照れくさいけど、嬉しい。


 ……あれ。


 好きな人?


「——いい顔だ」


 蒼真さんの声で、我に返った。


「今の表情、最高だった」


「え、あ、すみません、ぼーっとしてて」


「いや、それでいい。自然体が一番いい」


 蒼真さんが、珍しく口角を上げている。


 その顔を見て、私の心臓がどくんと跳ねた。


 ——やばい。


 これ、やばいやつだ。



       ◇ ◇ ◇



 撮影が進むにつれて、私の中で何かが軋み始めていた。


「凛さん、今日のシーン、最高だった」


「……そうですか」


「ああ。芙美子さんが憑依してるみたいだった」


 ——芙美子さん。


(そうだよね)


 私じゃなくて、祖母を見てるんだ。


 当たり前だ。


 蒼真さんは、ずっと祖母に恋をしていたんだから。


 八ミリフィルムの中の、名前も知らない女性に。


 何十年も、ずっと。


 私はその代わり。


 祖母に似ているから、選ばれただけ。


「ちょっと疲れました。今日は帰ります」


「……凛さん?」


「おやすみなさい」


 逃げるように、蒼真さんの家を出た。


 外は、雨だった。


 傘も持たずに飛び出したから、すぐにびしょ濡れになる。


(バカみたい)


 何を期待していたんだろう。


 地味で取り柄のない私が、映画監督に見初められるなんて。


 私は「祖母の代わり」なのだ。


 最初から、そうだった。


 わかっていたはずなのに。


 いつの間にか、期待していた。


 蒼真さんが、私自身を見てくれていると。


 ——バカだ、私。


 元彼にも言われたじゃないか。


 「お前といても退屈」って。


 私なんかに、誰かを惹きつける魅力なんてない。


「凛さん!」


 後ろから、声。


 振り返ると、蒼真さんが走ってきていた。傘も差さずに。


「なんで逃げる」


「逃げてません」


「逃げてるだろう」


「……別に」


「凛さん」


「——私は祖母じゃない!」


 気づいたら、叫んでいた。


 雨の中、声が震える。


「私は芙美子さんみたいに綺麗じゃないし、あなたが恋した人じゃない! 祖母の代わりに撮られて、都合よく利用されてるだけでしょ!?」


 蒼真さんは、黙っていた。


 雨に打たれながら、じっと私を見ている。


「私なんか見てない……最初から、ずっと、祖母しか見てない……っ」


 涙と雨が混ざって、もう何が何だかわからない。


 唇を噛んで、必死に嗚咽を堪える。


「……最初はそうだった」


 蒼真さんの声が、静かに落ちてきた。


「最初は、芙美子さんの面影を追っていた。否定しない」


 心臓が、痛い。


 やっぱり、そうだったんだ。


「でも——」


 蒼真さんが、一歩近づく。


「今は違う」


 雨に濡れた髪から、雫が落ちる。


「俺が撮りたいのは、過去の芙美子さんじゃない」


 大きな手が、私の頬に触れた。


 冷たい雨の中、その手だけが温かい。


「今を生きる、あなただ」


 ——え。


「いつからか、わからない。でも、俺は——」


 蒼真さんの耳が、真っ赤だった。


 雨に濡れているのに、耳だけが赤い。


「あなたが、早口でまくし立てるところが好きだ」


「は」


「自分を卑下するくせに、芯が強いところが好きだ」


「え、ちょ」


「泣きそうになると唇を噛む癖も、照れると耳が赤くなるところも——全部、あなただから好きなんだ」


 頭が真っ白になった。


 好き。


 好きって、言った?


 この人が? 私に?


「……蒼真さん」


「だから逃げるな」


 額をこつん、と合わせられる。


 近い。近すぎる。


 雨の音しか聞こえない。


 いや、聞こえる。


 蒼真さんの心臓の音が。


 ——速い。私と同じくらい。


「俺のカメラは、もうあなたしか映せない」


 真っ直ぐな言葉が、心に突き刺さった。


 この人は、嘘がつけない。


 不器用で、口下手で、でも——真っ直ぐだ。


「……ずるい」


「なにが」


「そんなこと言われたら……断れないじゃないですか」


「断る気だったのか」


「……ちょっとは」


「じゃあ、断るな」


 強引だ。本当に強引だ。


 でも、嫌じゃない。


 全然、嫌じゃない。


 雨の音だけが、静かに響いていた。



       ◇ ◇ ◇



 撮影も大詰めに差し掛かった頃。


 最悪の男が現れた。


「久しぶり、凛」


 会社の前で待ち伏せていたのは、元彼の中川拓也だった。


「……なんの用?」


「冷たいな。昔の彼氏にその態度?」


「昔の彼氏に用はないんだけど」


 拓也は、相変わらず爽やかな笑顔を浮かべていた。


 広告代理店勤務。スマートなスーツ。整った顔立ち。


 付き合っていた頃は、この笑顔にときめいていた自分が信じられない。


「聞いたよ。映画に出るんだって?」


「……誰から」


「SNSで話題になってる。『海を編む人』の瀬尾監督の新作に、素人の女が出るって」


 素人の女。


 その言い方に、ぞわりとする。


「凛、考え直した方がいいよ」


「は?」


「お前に映画なんて無理だろ。また恥かくぞ」


 ——また?


 「お前といても退屈」


 かつて拓也に言われた言葉が、フラッシュバックする。


 あの時の私なら、きっと傷ついて黙っていただろう。


 でも、今は違う。


「それより、俺と復縁しない?」


「……は?」


「やっぱ凛が一番落ち着くっていうかさ。お前、俺の良さわかってくれるし」


(なに言ってるの、この人)


 本気で意味がわからない。


 自分から振っておいて、今さら復縁?


 蒼真さんが話題の監督だから、嫉妬してるだけでしょ。


「——断る」


「え?」


「私、もう拓也に興味ないから」


 拓也の顔が、一瞬で歪んだ。


「……調子乗んなよ」


「乗ってない。事実を言っただけ」


「映画監督と付き合ってるからって——」


「彼女に何か用か」


 低い声が、背後から響いた。


 振り返ると、蒼真さんが立っていた。


 無表情。でも、目だけが鋭い。


 獲物を狙う獣みたいな、静かな威圧感。


「あ、あんた誰?」


「瀬尾蒼真。凛の——」


 一瞬の間。


「——恋人だ」


「っ!?」


 私より先に、拓也が驚いていた。


 いや、私も驚いてる。


 恋人って、いつの間に!?


 あの雨の夜から、確かに関係は変わったけど、正式に付き合ってるわけでは——


「こ、恋人? こいつと?」


「悪いか」


「いや、だって、こんな地味な——」


「彼女の魅力がわからないお前が、どうかしてる」


 蒼真さんが、一歩前に出た。


 拓也との間に、壁のように立ちはだかる。


「彼女は地味なんかじゃない。古い映画のヒロインみたいに品があって、笑うとえくぼが出て、誰よりも誠実で——」


「ちょ、蒼真さん、もういいから」


「よくない。言わせろ」


 蒼真さんは、真っ直ぐに拓也を見据えた。


「彼女を『退屈』と言ったお前の目は節穴だ。俺は一生かけても、彼女を撮り尽くせないと思っている」


 ——え。


 一生かけても、撮り尽くせない。


 それって。


「帰れ。二度と彼女に近づくな」


 静かな、でも有無を言わせない声。


 拓也が、たじろいだ。


 何か言いたそうにしていたが、蒼真さんの威圧感に押されて、結局何も言えずに去っていった。


 情けない背中が、どんどん小さくなる。


(……なんであんな人と付き合ってたんだろう)


 今になって思う。


 私は、自分を大事にしてくれない人を選んでいた。


 自分に自信がなかったから、私を「格下」として見てくれる人の方が楽だったのかもしれない。


 でも、もうそんな恋愛はしたくない。


「……蒼真さん」


「なんだ」


「恋人って」


「事実だろう」


「いや、まだ正式には——」


「じゃあ今する。付き合ってくれ」


「え、ここで!?」


「ここ以外でどこでする」


「いやもっとこう、雰囲気とか——」


「俺にそういうのを求めるな。壊滅的に下手なのは知ってるだろう」


 蒼真さんの耳は、また真っ赤だった。


 本当に、告白が下手すぎる。


 でも、その不器用さが——なんだか、愛おしい。


「……はい」


「は?」


「付き合います」


 蒼真さんが、目を丸くした。


 そして——初めて見る、満面の笑顔。


 不器用で、ぎこちなくて、でも、眩しいくらいの笑顔。


「……そうか」


「はい」


「よかった」


 不器用に笑う蒼真さんを見て、私も笑った。


 会社の前で、めちゃくちゃ目立っているけど、もうどうでもいい。


 ——ああ、これが恋か。


 二十九年間、知らなかった感情が、胸の中で暴れている。



       ◇ ◇ ◇



 小さな映画祭の日が来た。


 『八月のフィルム』——祖母と祖父、そして私の物語を綴った短編映画。


 会場は、古い名画座。


 レトロな赤いシートが並ぶ、昔ながらの映画館だ。


 席数は百もないけれど、満席だった。


「緊張する」


「俺もだ」


 蒼真さんが、隣で囁いた。


 いつもは無表情なのに、今日は少しだけ固い顔をしている。


 二年ぶりの新作。


 彼にとっても、大きな意味のある作品なのだ。


 照明が落ちる。


 スクリーンに、光が灯る。


 最初に映ったのは、あの八ミリフィルムの映像。


 夏の縁側で、麦わら帽子を押さえて笑う若き日の祖母。


 色褪せたセピア色の中で、祖母は眩しそうに目を細めている。


 そして、画面が切り替わる。


 ——現代の縁側。同じ構図。


 麦わら帽子を押さえて、照れくさそうに笑う、私。


『恥ずかしいですってば』


『もう少しだけ。——そう、その笑顔』


 映像の中の私が、カメラに向かって困ったように笑う。


 それは、六十年前の祖母と、同じ表情だった。


 スクリーンには、過去と現在が交互に映し出される。


 祖母と誠一郎さんの、叶わなかった恋。


 私と蒼真さんの、始まったばかりの恋。


 届かなかった恋文の朗読。


 涙を流しながら手紙を読む私の姿。


 そして、縁側で笑い合う二人の映像——過去と現在が、重なり合う。


 六十年の時を超えて、二つの物語が交錯する。


 会場から、すすり泣きの声が聞こえた。


 最後のシーン。


 縁側で、私が古い手紙を読んでいる。


 カメラがゆっくりとズームアウトすると、隣には蒼真さんの姿。


 二人で、夕陽を眺めている。


 そして、ナレーション。


『届かなかった想いは、時を超えて、届くべき人のもとへ届く。


 形を変えて。人を変えて。


 六十年越しの恋文は、今、新しい物語を紡ぎ始める——』


 画面が暗転。


 エンドロールが流れ始めると、会場から拍手が起きた。


 最初は小さく、やがて大きく。


 割れんばかりの拍手が、会場を包む。


 隣を見ると、蒼真さんが私の手を握っていた。


 強く、でも優しく。


「……ありがとう」


「何が」


「俺の映画に、出てくれて」


「私の方こそ。おばあちゃんのこと、たくさん知れた」


 祖母は、穏やかなだけの人じゃなかった。


 情熱的に恋をして、届かない想いを抱えて、それでも前を向いて生きた人だった。


 その血が、私にも流れている。


 ——おばあちゃん、私、恋をしたよ。


 あなたみたいに、真っ直ぐに。


 拍手の中、蒼真さんが立ち上がった。


 私の手を引いて、スクリーンの前へ。


「凛さん」


「は、はい」


「一つ、いいか」


 会場が、静かになった。


 蒼真さんが、私の前に膝をついた。


「……え、ちょっと、蒼真さん?」


「これからは、あなたとの時間を撮らせてほしい」


 ポケットから、小さな箱を取り出す。


 中には、シンプルなシルバーのリング。


「——結婚してくれ」


 会場がどよめいた。


「え、ここで!? みんな見てるのに!?」


「見ててもらった方が、逃げられないだろう」


「そういう問題じゃ——」


「返事は」


 真剣な目。でも耳は真っ赤。


 ああ、もう。


 この人は、本当に不器用で、真っ直ぐで、どうしようもなく——


「……はい」


 涙が溢れた。


「はい。私も、あなたと一緒にいたいです」


 蒼真さんが、立ち上がって私を抱きしめた。


 会場から、割れんばかりの拍手と歓声。


 どこかで「キャー!」という黄色い悲鳴も聞こえる。楓ちゃんの声だ、たぶん。


 スクリーンには、まだエンドロールが流れている。


 祖母と誠一郎さんの名前が、クレジットされていた。


『藤野芙美子 瀬尾誠一郎 ——二人の恋に捧ぐ』


「おばあちゃん」


 心の中で呟く。


「見ててね。私、幸せになるから」


 色褪せた八ミリフィルムが繋いだ、六十年越しの恋のリレー。


 祖母が遺した映像の中で——私たちの、新しい物語が始まる。



       ◇ ◇ ◇



 ——エピローグ。


「凛さん、そっち持って」


「はいはい」


 結婚式から一年後の夏。


 私たちは、祖父母の家——今は私たちの家——の縁側で、八ミリカメラを構えていた。


 もちろん、カメラを回すのは蒼真さん。


 最近、彼は古い八ミリカメラを修理して、また動くようにした。


「ほら、笑って」


「だから恥ずかしいって言ってるのに」


「芙美子さんも同じこと言ってた」


「……そうだろうね」


 六十年前、祖母も同じ場所で、同じことを言っていたのだろう。


 私は祖母じゃない。


 でも、祖母の血を引いている。


 祖母が恋した人の孫と、恋をしている。


 不思議な縁だと思う。


「凛さん」


「なに」


「……好きだ」


「急に何」


「言いたくなった」


「……私も、好き」


 蒼真さんの耳が赤くなる。一年経っても変わらない。


 告白が下手なのも、照れるとすぐ耳が赤くなるのも、相変わらずだ。


「あ、そうだ。楓ちゃんから連絡きてた。拓也さん、左遷されたって」


「因果応報だな」


「うん」


 なんでも、社内の経費不正が発覚して、地方の支社に飛ばされたらしい。


 正直、もうどうでもいい。


 今の私には、撮りたいものを撮れるようになった映画監督の夫と、風の通る縁側と、麦茶のグラスがある。


 祖母が夢見て、叶えられなかった「当たり前の幸せ」が、ここにある。


「凛さん」


「ん?」


「これから何十年も、あなたを撮り続ける」


「……何十年も同じ顔撮って飽きない?」


「飽きるわけないだろう」


 当然だという顔で言われて、耳が熱くなる。


「俺のフィルムには、もうあなたしか映らない」


 夏の風が、風鈴を揺らした。


 チリン、と涼やかな音が響く。


 六十年前と同じ音。


 六十年前と同じ縁側。


 でも、ここにいるのは私たちだ。


 ——おばあちゃん、誠一郎さん。


 あなたたちの恋は、ちゃんと届いたよ。


 形を変えて、時を超えて。


 私たちが、受け取りました。


 カタカタと、八ミリカメラが回る音がする。


 新しいフィルムに、新しい物語が刻まれていく。


 色褪せることのない、私たちの恋の記録。


 そして——いつか、この家に子供が生まれたら。


 このフィルムを見せてあげたいと思う。


 あなたのひいおばあちゃんとひいおじいちゃんは、こんな恋をしていたんだよ、って。


 六十年越しの恋文が繋いだ、私たちの物語を。


「——凛さん」


「なに?」


「やっぱり、最高に綺麗だ」


「……もう、恥ずかしいってば」


 でも、嬉しい。


 素直に、そう思える自分がいる。


 私は地味で、取り柄がなくて、退屈な女だと思っていた。


 でも、この人は「一生かけても撮り尽くせない」と言ってくれる。


 私の全部を、愛してくれる。


 ——ああ、幸せだな。


 縁側で、夫と並んで座る。


 風鈴が鳴る。蝉が鳴く。麦茶のグラスに汗が浮かぶ。


 なんてことない、夏の一日。


 でも、この「当たり前」が、どれほど尊いか。


 祖母は、それを知っていた。


 だから、あの手紙に書いたのだ。


『そんな当たり前の日々が、どれほど尊かったか。今になってわかります』


 ——おばあちゃん。


 私、やっと、わかった気がするよ。


 カタカタと、フィルムが回り続ける。


 私たちの物語を、刻み続ける。


 色褪せても、壊れても、きっと残る。


 六十年後の誰かに届くように。


 今度こそ、届きますように。



       ——〈完〉——

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