第十八話 焼きチーズ
今日は昼から大嫌いな坂本教授のクソつまらない講義だったので、なんだかバイトに入る前にすでにぐったりと疲れていた。
「向井くん、目が死んでるよ。なんか賄いでも食べる?」
「いえ……お腹空いてないので、モンスターだけもらっていいですか……?」
僕は大将に断って、ドリンク用の小さな冷蔵庫からエナジードリンクを取り出して開ける。
プシュっと小気味いい音がして、甘い匂いが鼻に届く。
そうこうしていると本日最初のお客さんが来店した。
若干怪しくなってきている前頭葉に、長い髭、左右に広がった口髭は板垣退助を連想させた。
その白人のおじさんはイスに腰を下ろすとウィスキーを注文した。
「スコッチウィスキーはあるかね?」
「大変申し訳ございません。当店は現在スコッチウィスキーは取り扱いしておりません」
答えながら仮にもイングリッシュパブを名乗ってるくせにスコッチウィスキーも置いていないのはダメだろう、と思った。
いくら実態が居酒屋だったとしても。
「ではウィスキーはないのか」
「いえ、日本のウィスキーであれば、何種類かご用意はございます」
「おお、ではシングルモルトウィスキーはあるかね?」
僕はお酒が並べられている棚を見回した。この人お酒にうるさそうだしなぁ。
「では少々値段は張りますが、山崎の12年ものはいかがでしょうか」
ウチでは滅多に出ない高いお酒だ。値段を訊かれたので答えると、そのくらいは許容範囲だったのか、ストレートで頼む、とご注文いただいた。
グラスに琥珀色の液体を注ぐ。うやうやしくグラスを渡すと、男性は香りを嗅いでゆっくりと口に含んだ。
「おお、コレは美味しいな。日本にもこんなに美味い酒があるのか」
そしてしみじみとグラスを見つめた。
「僕もこんなに高い酒を飲めるようになったか。僕は子供の頃とにかく貧しくてね。父が借金を作った挙句払えなくて破産するほどだった。しかも返済ができない者たちが入れられる、債務者監獄というところにまで入れられたんだ。その監獄は家族も共に生活する事を許されていた。一種の救済の意味もあったんだろうね。だけど僕は父が収監されるより前から靴墨工場に出稼ぎに出されていて、父や母と一緒に生活する事は許されなかった。あの頃僕はまだ十二歳だったというのに……。貧しかった十二歳の少年も今やこんなにいい酒が飲めるほど稼げるようになったよ。その後も法律事務所の事務員やら新聞記者やらいろいろやったがね」
特別裕福という訳ではないが、少なくともお金に困った経験のない僕には想像もつかなかった。
「さて、何か食べようかな」
「はい。どういったものがお好きですか?」
すると男性は伸びた顎髭を触りながら考え込んだ。
「そうだな。酒と一緒に食すならローストビーフや牡蠣なんかが好きだな」
「うーん、今はどっちもないですね。牡蠣は時期になれば新鮮なものが入るんですが……」
「そうだ、チーズはあるかね?チーズも大好きだ」
僕はそれを聞いて、一つ思いついたメニューがあった。
「では焼きチーズはいかがですか?」
「焼きチーズ?」
「チーズをフライパンで炙ってパリパリに仕上げたものです。スナック感覚でサクサク食べられますよ」
「そいつは美味そうだ。ではそれを」
大将にオーダーを通す。すぐにチーズが焼ける香ばしい匂いが漂ってくる。
「お待たせ致しました」
差し出すと、早速手で掴んで口に運ぶ。チーズが折れるカサっという音が聞こえる。
「美味いなぁ。酒にもピッタリだ」
男性は喜んで、チーズをちびちび齧り、グラスのウィスキーをちびちび時間をかけて飲んでいった。
お金がある、と言った割には追加注文もせず、それだけで終わりだった。
三つ子の魂百までとはよく言ったものの、子供の頃嫌というほど貧乏を味わうと、お金が出来てもあまり贅沢はできなくなるのかもな、なんて少し失礼な事を思った。




