第一話 マグロの刺身
住宅地にある古い居酒屋「縁」
僕はその色褪せた紺色の暖簾をくぐって中に入る。
「おはようございます」
「あ、おはよう向井くん」
大将がカウンター越しにのんびり応える。便宜上大将とは呼んではいるが、まだギリギリ30代の相田さんはメガネをかけた柔和な顔に何事にもおおからというか大雑把というか、そんな人柄で、チャキチャキ職人気質というイメージの大将という言葉にはおよそ似合わない人だった。
大学に入りバイトを探していた時に募集していたこの店が、あまりにヒマそうだったので働く事にした。入ってみても実際にヒマだったし大将のまかないは美味いし、気楽ですごく良いバイト先だった。
「今日は向井くんにとても重要なお話があります」
急に大将が真面目な顔をしてそんな事を言うもんだから、僕はちょっと身構える。
「な、なんですか?」
「ご存知の通り、ウチは今経営難に陥っています」
そんなハッキリと……。はっ、まさかクビになるのか?
「今までは常連さんに支えられてなんとかやってきましたが、常連さんはおじいちゃんおばあちゃんばかりだったので、亡くなったり施設に入ったりして一人また一人と減っていきました。」
僕も気にはなっていた。バイトを始めた頃にはほぼ毎日来ていた話の面白いおばあちゃんもいつもカウンターの奥に座っていた夫婦も最近はめっきり見ない。
「そこで!起死回生を図るため、ウチはロンドンのパブ風にオシャレに改装する事にしました!」
「……いや、絶対内装の問題じゃないでしょ」
「つきましては来週から一ヶ月改装のため、お店はお休みとします!」
「ええ! じゃ僕のバイト代は……」
「申し訳ないけど、ひと月分保証してあげる資金はウチには無い! というわけで辞めるというなら止める事はできないんだけど……」
「何言ってるんですか、また苦労してバイト先探すなんて絶対したくないです。それにこんなヒマで給料貰えるバイトなんてそうそうありませんから辞めません!」
「……うん、向井くん。オブラートに包むって事覚えようか。じゃひと月後、また戻ってきてくれるんだね」
「はい、よろしくお願いします」
こうしてお店は改装期間に入っていった。
一ヶ月間、たまにお店の前を通ってはいたが、布に覆われていて、どのような変貌を遂げていたかはわからなかった。
リニューアルオープン当日、控えめな数の花輪が飾られたお店に出勤した僕はため息をついた。
入り口は以前のいかにも居酒屋といったガラスの引き戸から、真鍮の取っ手のついたオシャレな緑色のドアに変わっていた。が、僕が絶句したのはそのドアの前に「PUB Victoria」と書かれた暖簾が下がっていた事だった。
もう本当にあの人は……。
僕は慣れた感覚で暖簾をくぐり中に入った。
店内も綺麗に改装されていた。
カウンターは濃い茶色の木製で、赤いベルベットの丸椅子が並べられている。今まで畳敷きのお座敷になっていた場所は同じく焦茶の四角いテーブルが三台並べられ、こちらも赤い丸椅子が囲っている。ところどころに吊るされた照明は暖色の柔らかい光で照らしている。気になるのはカウンターの向こう側にどう見ても「縁」時代からあった焼き鳥用の焼き台があるように見えるのだが……。
「あ、向井くん、久しぶりだね。おはよう。どう?すごいオシャレになったと思わない?ロンドンにあるシャーロックホームズパブっていうお店を参考にしたんだ」
「いや、一見オシャレですけど、なんでそのオシャレなパブに暖簾かかってるんですか。なんか焼き台もあるし……」
「だってなんか暖簾とか焼き台とか無いと落ち着かないんだもん」
「ちょっと、ちゃんと設定守ってくださいよ」
かくして、「焼き鳥縁」改め「パブヴィクトリア」はリニューアルオープンを果たしたのだった。
ところが…
「今日からは忙しくて大変かもよ」とか予測していた大将の言葉とは裏腹に、店はリニューアル前と変わらずヒマなままだった。
「ほらぁ、だから内装の問題じゃないって言ったじゃないですか……」
「あれぇ?」
そんな状況は一週間経っても変わらず、僕的にはヒマなのは楽でいいが、改装費の事もあるし、このままではマジで潰れてしまうんじゃないかと心配になってきた。
そこで僕は仕方なく、自分のインスタでお店の宣伝をしてやる事にした。自慢じゃないが、僕は一般人にしてはこの顔のおかげで四万人というまあまあ多いフォロワーがついていた。あまりプライベートがわかるような事は載せたくないが、背に腹は変えられない。
とはいえ、インフルエンサーというほどそんな活動をしているわけではないので、どれほど効果があるかはわからなかった。
そう思っていたのだが、投稿から三日目にはインバネスコートを着た数名が店にやってきた。連中は店内をバシャバシャと写真を撮り、パブには似つかわない居酒屋丸出しのメニューも写真を撮りまくっていた。僕はちゃんとパブっぽいメニューに変えるべきだと助言したけど、大将は『作り方わかんないし』と何もメニューの変更はされなかった。
確かに大将の料理はどれも美味しいが、イギリスのパブ風店内で焼き鳥って事無いと思うのだが。
まあ、何かその手の界隈で話題になったのか、やはりホームズっぽいコスプレ? をした客がたびたび来るようになった。しまいにゃなんだかオールドファッションに身を包んだ白人たちがポロッポロッと来店するようになった。
最初は海外向けの旅行雑誌にでも取り上げられたのか? と思っていたが、来店する白人は全員流暢な日本語を話し、当然のように日本円で会計を済ませて行くのだった。
「なんか不思議ですよね。急に英国紳士みたいなお客さんが増えて、でもみんな日本語上手だし」
「なんでもいいんじゃない?来てくれるなら。みんなちゃんとお金払ってくれるし」
「そりゃそうなんですけど……」
上手くは言えなかったが、僕は何か違和感を感じていた。
特に共通点らしい共通点があるわけではないから、何に違和感を感じているのかがわからなかったけれど。
そんな風に悩んでいるとドアが開き、また一人白人男性が入店してきた。
白髪に白い口髭、顎髭を蓄えたがっしりとした体格の老紳士で、コートの胸にはいくつかの勲章のようなものと白い星の描かれた旗の形をしたピンバッジが付いていた。
「お一人様ですか?」
と尋ねると、柔らかな表情でにっこりと笑い、『一人です』と答えたので、カウンター席に案内した。横を通り過ぎる時、ほんのりと海の匂いがした気がした。
老紳士はメニューに目を落とし、大将の手書きの絵を指差して、これはなんですか?と尋ねた。
「ああ、マグロの刺身ですよ。ウチは鮮度のいい赤身を仕入れていますから、とても美味しいですよ」
説明しながらなぜパブに刺身なのかと思ったが、全ては大将のいい加減さのなせる技だ。
老紳士の注文を大将に伝えると、冷蔵庫から冊を取り出し切り始める。その間に僕はジョッキにビールを注いで持って行く。
相変わらず黒ずみもない綺麗な赤の刺身で、本当に美味しそうだ。ウチのマグロは居酒屋で出てくるレベルじゃなくて、いっぱしの寿司屋で出てくるレベルだと思う。……いや、今はパブだったか。
刺身と小皿を紳士の前に出すと、紳士は目を丸くしてマグロを見つめた。
「これは……生ですか?」
「はい、生ですよ。こちらの醤油を付けてお召し上がりください」
すると老紳士は器用に箸を使い、マグロを一切れ口に入れた。
そしてゆっくりと目を閉じた後、ジョッキからビールを飲んだ。
「いやぁ、長いこと海で仕事をしていますが、生の魚がこんなに美味しいなんて初めて知りました」
そう言いながら刺身を食べ、食べては飲み、よほど気に入ったのかおかわりをして食べ飲みしていた。
「ご馳走様でした。今日はたまたま出張でこちらに来たんですが、家の近くにお店があったら通ってましたよ」
と言い残して帰っていった。
僕はあんなに流暢な日本語を話し、箸も上手に使っていたのに刺身を知らないなんて事あり得るんだろうか……と考えていた。
気がつくと時計は十二時を回り、僕は後片付けをしてお店を後にした。
最近は少しだけ客が増えて、前ほどヒマではなくなった。今日もちゃんと客はいた。それだけで十分だった。




