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昔語り

その夜、阿部隆明は明里あかりを末広町にある「阿部商店」という牛鍋屋ぎゅうなべやに呼び出した。


軒下には『牛鍋』と太く書かれた提灯ちょうちんがぶら下がり、その横には『開化之味かいかのあじ』という看板が誇らしげに掲げられている。

店の入口の土間には、役人の脱ぎ捨てた革靴と、工夫の泥がついた草履ぞうりが並び、身分の境目が曖昧あいまいになりつつあることを示していた。


店先では牛の煮え立つ匂いが霧に混じり、開化を急ぐ街の欲望を象徴するような熱気が漏れ出していた。

ガラリと戸を開ければ、炭火の熱と酔客すいきゃくの怒鳴り声が押し寄せ、庁舎のひんやりとした静寂が嘘のように遠のく。


「今日はおまえのおごりだからな」

先に来ていた阿部は明里あかりを見て、にやりと笑った。

阿部隆明と中沢明里なかざわあかりは旧知の間柄で、本来、歳の離れた兄妹のように気安い関係だった。


「まずは説明してもらおうか?今日のありゃ、一体どういうつもりだ?」

明里あかりは阿部の前に腰を下ろしながら謝った。

「ごめんなさい。あの男の顔を見たらついカッとなって」

「穏やかじゃねえな。おまえらしくもない」

阿部隆明はボヤきながら、肉を口に放り込む。


「以前、大森町の待合茶屋まちあいぢゃやで働いてたことは話したでしょ?」

「ははは。お前がしつこい客を平手打ちして女給じょきゅうをクビになったってアレか?」

「まさか、あの男が黒田だったなんて…」

「おいまてよ。その客が、黒田長官だってのか?」

「ええ。でも今日、あいつは私に気づきもしなかった」

もっとも、それは明里あかりの方も同じだった。

あの時初めて、夜の泥酔した客とは別の顔、北海道を牛耳ぎゅうじる権力者としての黒田を見た気がした。

「あいつは酒豪しゅごうで有名だからな。夜の盛り場であったことなんて朝には全部忘れてら」

「若いころの武勇伝をひけらかすしか能のない、ただのスケベ親父だと思ってたのに」

阿部は真面目な顔をして忠告した。

「いいか。奴らは、もう草莽そうもうの志士じゃない――権力者だ。役所でうまくやっていきたきゃ、逆らわないこった」


二人の間に沈黙が落ちた。

「ま、食えよ。お前のおごりだけど」


阿部は歳の近い白井とも多少親しかったはずだ。

明里は唐突に切り出した。

「ねえ。聞きたいことがあるの」

「都合のいいヤツだな。役所の中じゃ、恩人の俺にいつも知らん顔のくせに」

「幕軍の残党が、あまり親しくするのは好ましくないんでしょ?」

「まあな」

阿部は渋々同意した。

「だから、ここだけの話」

明里あかりは阿部のさかずきに酒を注ぎながら上目遣うわめづかいで探りを入れた。

「おっと、例のボヤの件なら緘口令かんこうれいを敷かれたから、しゃべれないぜ?」

「…しゃべれば、黒田長官には何か都合の悪いことでもあるの?」

阿部の笑みが、一瞬凍りついた。

「さあな!女中が首を突っ込む話じゃない」


明里あかりは黙って、ふところからあの紙片を取り出した。

白井が残した、わずかな痕跡こんせき。帳簿の燃えカス。

阿部はそれを見て、顔色を変えた。


そして、明里に向き直り、声を落とす。

「…これはあくまでうわさだ。本当にここだけの話しだと思って聞けよ?」

「ええ。約束する」

官有物かんゆうぶつの払い下げが、どうも臭い。落札するのは、きまって同じ連中だ」

「つまり、薩摩閥さつまばつの会社ね?」

阿部は質問には答えず、ただ、唇を濡らしただけの杯を置いた。

「正直、あの夜、あの時間に、白井鷹之進が都合よくトチ狂ったなんて、誰も本気で信じちゃいねえよ。それじゃあまりに出来過ぎだろ?…つまり、そういうこった」

阿部は、そこで言葉を切った。

明里あかりは挑みかかるような眼で阿部をにらみつけた。

「要するに、白井さんを狂人にしておけば、皆が安泰あんたい…そういうことね?」


阿部は歯を食いしばり、取り皿を叩きつけるようにぜんの上に置いた。

「ああ!胸クソ悪いのは俺だって同じさ!けどな、俺も今じゃ宮仕みやづかえの身なんだよ!いい加減、大人になれ!おかみに逆らったところで勝ち目がないのは、お前も身に染みて知ってるだろ?!」

明里あかりはその勢いに圧されて項垂うなだれた。

「ごめんなさい。別にあなたを責めてるわけじゃないの」


「ちっ!んなこたあ、わかってるよ!」

阿部はそれ以上追及せず、冷めた盃を飲み干した。

当時の政府内では、薩長土肥さっちょうどひの出身者が重要ポストを独占し、旧幕軍出身者はどれほど有能であっても、白井や阿部のように現場の事務を支える軍属ぐんぞく止まりが一般的だった。

そのいびつな構造の中で、彼らは過去を隠し、あるいは過去を担保に差し出して、薄氷はくひょうを踏むような気持で日々を過ごしているのだ。


明里あかりは、身を乗り出すようにしてもう一つだけ尋ねた。

「けど、なぜだと思う?」

阿部は残った酒を飲みほして、ゲップをした。

「は?」

明里あかり露骨ろこつに眉をひそめて、逃げ場を塞ぐように阿部へ答えを迫った。

「だから。白井さんはそこまでして黒田に義理立てする必要があるの?だって、あなたもさっき言ったじゃない。彼は、戊辰戦争ぼしんせんそうかたきよ?」

「あ、そういうこと?ちがうちがう。黒田は、奴が最も嫌う種類の俗物ぞくぶつさ。白井は大久保を崇拝すうはいしていたんだ」

「それだって同じことでしょ。大久保は薩摩閥さつまばつの頭なんだから」

「白井のなかではそうじゃないんだよ」


明里は、天を仰いで嘆息した。

「いったい…白井鷹之進というのは、どういう人だったの?」

阿部は少し頭を整理するように押し黙った。

「…あいつは数字にしか興味がなくて、人付き合いもいい方じゃなかった。だが、俺とは年も近かったし、似たような経歴みち辿たどってきたせいか、妙に馬が合ってな……。

普段は自分のことを一切話したがらない男なんだが、ある時、珍しく酔って口数が多くなったことがある…」


そう前置きして、阿部は白井との思い出を話し始めた。


「たしか、あれは大雪の日、函館港にある古西商店って酒屋だ。

店先で、俺たちは船員たちに混じって「もっきり」を交わしていた。

白井鷹之進は、ますを三つ空けたあたりで、急に機嫌が良くなってな。

『こんな雪の日は、津軽を思い出します』なんて言い始めた。

やつが自分の故郷の話をするなんて、珍しいこともあるもんだと、俺は黙って聴いてた。

すると白井は、なみなみと注がれたますを手に昔語りを始めたんだ」



明治二年初秋。

新選組を抜けた白井鷹之進は、そのころ、弘前藩ひろさきはん帰参きさんを許されていたという。

御一新ごいっしん後、皮肉なことに、そこへ新選組を預かっていた斗南藩となみはん(旧会津藩士たちが移住させられた土地)が合流して、青森県として再編された。

そこは敗軍の将と、寄るない士族たちが吹き溜まる、寒々しい原野だった。


廃藩置県はいはんちけんの後、急速な近代化政策を進めたはいいが、当時の青森県令・菱田権八ひしだ ごんぱちの無策ぶりはひどいもんでね。

彼は出世のために、政府の方針を先取りして、現場もろくに知らず士族のろくを削り、反発した者は『ぞく』として弾圧した」

白井の言葉が、辛辣しんらつな色を増す。

「私は吐き気がしましたよ。法があっても、それをどう使うかは、“上”の胸先三寸むなさきさんずんだ」

そこで何かに想いを馳せるような目をして、白井は一口、酒を含んだ。

「だが、対する士族側も似たような有様ありさまでね。

ただただ失った特権を返せとわめくだけの保守派と、文明開化に浮かれる派閥に分かれ、憎しみ合って四分五裂しぶんごれつだ。

あの騒動で青森には、手の付けられない厄介な土地という烙印らくいんが押されてしまった」


白井は空になった杯を見つめ、苦い記憶を飲み込むように続けた。

「…すっかり絶望していた時に聞かされたのが、大久保卿の『東北開発構想』だったんです。

その矜持きょうじは、『為政清明いせいせいめい』、彼の政治には私心がなかった」


白井は少し身を乗り出し、阿部の顔をのぞき込んだ。

「…あなたも、十和田とわだの『三本木原』を知ってるでしょう?

会津で新選組の面倒を見ていた広沢富次郎って男が、私たちのような食い詰めた士族を引き連れて開拓に入ったんです。

それは過酷を極めたものだが、大久保が内務卿として進めた『士族授産しぞくじゅさん』と『殖産興業しょくさんこうぎょう』、

二つの歯車が、この最果さいはての地で見事にみ合った成果だった」

白井の瞳が熱を帯びた。

「三本木の広大な牧場に風が吹き抜けるのを見たとき、私は確信したんです。 大久保卿の指し示す『ことわり』の先にしか、この国の明日はないと」


「あんた、ずいぶん大久保に心酔してるようだが、会ったことあるのか?」

「ええ、一度だけ。お会いしたといえるかどうか分かりませんが…明治九年にみかどが東北に行幸ぎょうこうされたときのことです。青森の物産見分会ぶっさんけんぶんかいで、私は事務方じむかたとしてその場に立ち会っていました」

「それで何がわかるって言うんだ?」

「あのとき、広沢が洋式農法を説いても、大久保卿が興味を示したのは、結果、すなわち収穫量だけだった。

…しかし、私にはむしろそれが救いに思えました。

彼は我々にこう説いたんです。

大凡おおよそ、国の強弱は人民の貧富にり、人民の富貴は物産の多寡たかかかわる』と。

あれは精神論じゃなく、算盤そろばんはじける男の言葉だ。

つまり私は大久保利通のことわりに、ひざまずいたんですよ」

「俺ぁ、自分の変節にずっと後ろめたさがあってな。あんたみたいに理屈で割り切れりゃいいんだが、いまだに生き延びた言い訳が思いつかん」

白井は、苦笑いした。

すっかり酔いが回って耳まで赤くなっている。

「阿部さんは、リトマス試験紙というのをご存知ですか?水溶液の酸性とアルカリ性を判別する紙なんですがね。私にとっては広沢という人物がまさにそれで、彼のおかげで旧幕府首脳と大久保、両者の思想や先見性の違いがより鮮明に見えたんだと思う」

「そんなもんかね」

阿部は首をひねった。



話し終えた阿部は、明里の反応を伺った。

「な?分かったような、分からないような。けど、奴なりに納得してたんだよ」

明里あかりは黙ったまま、なにか思索しさくにふけっている。


阿部は人差し指の先で、明里のひたいつついた。

「おまえさあ、いつまでも土方の墓守はかもりみたいなことやってないで東京に帰れば?」

明里は我に返ったような顔で阿部をじっと見つめ、肉を一切れ、口に入れた。

「あら。私がいなくなっても寂しくないの?」

「けっ!抜かしやがれ」


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