小火
明治十一年五月十三日。
夜半を過ぎた函館は、海から這い上がってきた深い霧――ガスにすっかり呑み込まれていた。
津軽海峡の潮の匂いを孕んだ白い霧が、元町の坂をゆっくりと覆い、異国風の煉瓦造りの建物の輪郭を曖昧に溶かしていく。
開拓使函館支庁舎もまた、その中に沈んでいた。
石畳に立つガス灯が、濡れた地面をぼんやりと照らし、光はすぐ霧に吸われていく。
遠くで、ロシア領事館の鐘が一度だけ低く鳴った。
時を告げるというより、この街がまだ眠っていないことを、かすかに主張する音だった。
中沢明里は、庁舎の裏口で手を止めた。
庁舎の廊下は、夜になると不思議なほど音を吸い込む。
靴底が石床に触れても、昼間のような反響はない。
霧が建物の中まで入り込んでいるかのように、すべてが湿り、鈍っていた。
めずらしく、官吏たちの残業が続いた夜だった。
夜食の椀や皿を洗い終え、台所の火を落とし、ようやく帰れると思ったところである。
当時の女性にしては背が高く、着物の上からでも分かるほど肢体の線がすっとしていた。
旧士族の娘という身分は、役所の女中としては少しだけ異質だったが、明里はそれを表に出さない。
感情を顔に出さない癖は、いつの頃からか身についていた。
――静かすぎる。
夜の庁舎は、いつもなら紙の擦れる音や、誰かの咳払いがどこかに残っている。
しかし今夜は、それすらなかった。
視線の先、会計課のさらに奥。
金庫室のある方角だ。
本来なら、重い鉄扉が閉じ、夜警以外は近づくことすら許されない金庫室。
その扉の縁から、わずかにオレンジ色の光が滲み出ていた。
それは、霧に反射して揺れていた。まるで生き物の呼吸のように、明滅している。
同時に、鼻を刺す匂いがあった。
潮でも油でもない。
紙が大量に燃える、独特の酸っぱさ。
さらに、墨とインクが焦げる、重い匂いが混じっている。
火事――。
明里は、扉に手をかけた。
叫び声も、足音も、庁舎のどこからも聞こえない。まるで、この異変だけが、世界から切り離されているようだった。
ぎい、と低い音を立てて、扉が開く。
瞬間、熱が頬を撫でた。
床一面に、炎が広がっている。
束になった紙幣が無秩序に燃えているのに、不思議と火は壁に移ろうとしない。
まるで、ここだけが焚き火の炉であるかのようだった。
そして、その中心に。
白井鷹之進が、座り込んでいた。
四十を過ぎた会計官。
普段は柔らかな物腰で、女中にも気さくに声をかける中年男性だ。
「おお、明里ちゃん。仕事はきつくないかい」
昼間、そう言って笑った顔が、一瞬、明里の脳裏をよぎる。
だが、今の白井は違った。
彼は、束ねられた紙幣を一枚ずつ手に取り、炎へと差し入れていた。
太政官札。
そして、最近になって支給が始まったばかりの、ゲルマン紙幣。
それは、金ではなく紙でできた“国家の信用”そのものだった。
白井は、慌てる様子もなく、急ぐ様子もなく、まるで儀式でも行うかのように、丁寧に燃やしていく。
火の粉が袖に飛び、髪をかすめても、眉一つ動かさない。
明里は声をあげなかった。
駆け寄りもしなかった。
ただ、冷静にその光景を凝視していた。
彼の動きは、あまりにも規則正しい。
一枚。
また一枚。
その間隔は、算盤を弾くときの呼吸と同じだった。
帳簿を締めるとき。
最終行の数字を足し、欄外に小さく「〆(しめ)」と書き込む、その直前の、あの沈黙。
白井は、あの顔をしていた。
そのとき、白井がふと顔を上げた。
明里と、目が合った瞬間、彼の口元が緩んだ。
それは、錯乱した人間の笑みではなかった。
算盤を弾き終え、最後の桁を確かめ、「不一致なし」と確認したときの――あまりに静かで、澄み切った表情だった。
「やあ、明里ちゃん」
炎の中から、白井は穏やかに言った。
「危ないから、下がっていなさい」
「……なにを、されてるんですか」
明里は、つとめて冷静な声で尋ねた。
白井は、次の紙幣を火にくべながら、少しだけ考えるような間を置いた。
「……これはね、清算だよ」
その言葉が、意味を結ぶ前に。
廊下の奥で、軍靴が石床を打つ音がした。
複数の、規則正しくためらいのない足取り。
「――火事だ!」
誰かの叫び声が、霧を切り裂くように響いた。
次の瞬間、廊下の向こうで金属が擦れる乾いた音が鳴り、サーベルの柄が鞘から半ば抜かれる気配が伝わってくる。
「開けろ! 警察だ!」
外から、怒号が雪崩れ込んできた。
昨年設置されたばかりの函館警察署の邏卒たちが、サーベルを鳴らして突入してくる。白井は、振り返りもしなかった。
邏卒の一人が息を呑む。
「……紙幣?」
火にくべられているのは、太政官札。
そして、――新政府が導入を進めていたゲルマン紙幣。
白井は、紙の端が完全に黒く縮れ、数字が判別できなくなるまで、じっと見届ける。
その視線は、数字の行方を追う会計官の目だった。
「白井鷹之進!」
指揮役らしき邏卒が一歩踏み出す。
「開拓使会計官。公金焼却の現行犯だ。抵抗すれば斬る!」
白井は、ゆっくりと顔を上げた。
その目は、狂気の色を帯びていない。
怒りも、恐怖も、ない。
ただ――確認を終えた者の静けさだけがあった。
最後の一片が、音もなく灰へと崩れる。
白井はそれを見届けると、膝の上に置いていた手を離し、静かに前へ差し出した。
「……終わりました」
その声は驚くほど穏やかで、かえって邏卒たちを戸惑わせた。
捕縄が両腕の自由を奪うその間も、白井は一度も振り返らなかった。
明里は、壁際でただその一部始終を見つめていた。
白井が連れて行かれる。
霧の中へ。
何も語らず、何も託さないまま。
後に残った金庫室には、焼け焦げた紙片の山と、不気味なほど整然と並ぶ――空になった棚だけがあった。
――空白。
火は、すでに鎮まりかけている。
天井の煤が、静かに舞い落ちるなか、
金庫室に残るのは、ところどころに赤い光の残る灰の山と、鼻の奥にまとわりつく焦げ臭さだけだ。
騒ぎを聞きつけた官吏たちが、廊下を右往左往している。
あちこちで怒号が飛んでいた。
被害状況の確認、責任の所在を問う声、互いの名前。
――だが、もう遅い。
白井鷹之進は連れて行かれた。
霧の中へ。
なにか、重要な仕事を終えたような、静かな表情で。
明里は、誰にも気づかれぬよう、金庫室の隅に膝をついた。
床に散らばる灰は、どれも同じ色をしている。
紙幣も、帳簿も、価値も、意味も――等しく燃え尽きたあとでは見分けがつかない。
彼女はその中に、ほんの小さな燃え残りを見つけた。
指先で、灰をかき分け、そっと摘まみ上げると、
それをは、まだ形を保った紙片だった。
角がわずかに残り、繊維が焦げて黒く縮れている。
――いくつかの数字と、端に見えるのは罫線だろうか。
だが、それが紙幣ではないことだけは、はっきりと分かった。
紙の質が違う。
明里は周囲を見回す。
誰も彼女を見ていない。
誰も、こんな小さな灰の違いに関心を払っていない。
彼女は、その紙片を指で折り、袖の内に滑り込ませた。
その瞬間、胸の奥で、何かが小さく音を立てた。
歯車が噛み合う前の、嫌な予感。
――これは、終わりじゃない。
庁舎の外では、霧がいっそう濃くなっていた。
津軽海峡から押し寄せる白い靄が、街灯の光を飲み込み、函館の街を輪郭ごと消していく。
日付は、明治十一年五月十四日へ。
後にして思えば、このときすでに時限爆弾は秒読みを始めていたのだ。




