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稽古開始と刺客

翌日。千博は久しぶりに訓練場へ足を運んだ。ボア仙人も一緒だ。今日から『魔拳』の指導をしてくれるらしい。

「あれ?!チヒロか?!」

「え?あ、本当だ!」

「おお!復帰できたのか!」

訓練場に着くなりたくさんの兵士が周りに集まって声をかけてくる。同じ班の人だけでなく、他の班の人も声をかけてくれた。

「えーと、はい。お陰さまで帰ってこれました。またよろしくお願いします。」

千博は彼らに向かって挨拶をした。

「ああ、もちろんだ!」

「全く、心配かけさせやがって。」

みんなの様子を見て千博は自然と顔がにやけた。まさかこんなにみんなが自分の事を気づかってくれているとは思ってもみなかったのだ。千博はお礼が言いたくなって、笑顔でありがとうと

「みんな、ありがと……「チヒローーー!!」」

言えなかった。もう後一文字というところで邪魔が入ったからだ。

「うあっ?!み、ミーツェ?!」

「「「?!?!」」」

集まっていた人ごみの中から駆け出してきて突然千博に抱きついてきたのはミーツェだった。その出来事に千博本人だけでなく周りの兵士達も驚く。

「よかったぁ!チヒロも暫く訓練を休んでるって聞いて心配だった!」

「ああ、俺も今日から訓練場に来れるようになったんだ……ていうか!離れてくれ、ミーツェ!そんなにくっつくなって!」

千博が胴に手を回すミーツェに離れるよう言うと、ミーツェは不安そうな顔でシュンとした。

「……ごめん……怒った?」

「いや、怒ってないけど……」

「ほんと?よかった!」

そう言ってまた千博に抱きつくミーツェ。今度は右腕に抱きついた。

「あ、お、おい……」

そして右腕に押し付けられる柔らかい感触。これはまずい。何とかしないと俺の理性が……

「た、頼むから離れてくれ……。恥ずかしいって……」

「えー、もう。しょうがないなぁ。」

千博が弱々しく頼むとようやく離れてくれた。……それにしても、今だに信じられない。ミーツェが俺の事を好きだなんて。確かに今の態度とかからしたら好意を持ってるのはわかるけど……

「え…………?」

「な、何で?何があったんだ?」

「ミーツェ、チヒロの事嫌いだったんじゃ……」

ほら、周りの奴らもびっくりしてる。みんな状況が飲み込めてない。当然だ。まだ俺だって飲み込めていない。それだけミーツェの態度は変わっているんだ。

「……チヒロ。ワシの事完全に忘れとるじゃろ。」

「え?」

と、後ろから声がかけられた。

「あ、すみません。すっかり忘れてました。」

「忘れた……?ワシ、師匠なのに……」

ボア仙人はがっくりと肩を落とした。そうだった。再会を嬉しく思ってる場合じゃない。早く訓練を始めないと。

「おーい、お前ら。その辺にしとけよ?訓練始めるぞ!」

グッさんの声が向こうの方から聞こえてきた。時計を見ると、もう訓練が始まる時間だ。

「チヒロ、一緒に行こ?」

「あ、すまん。俺、みんなとの訓練には参加できないんだ。」

腕を引っ張ってくるミーツェにそう言うと、ミーツェは不安気な顔になった。

「え……もしかして、どこか悪いの?」

「いや、そうじゃなくてさ。いろいろあって、この人に稽古をつけてもらう事になったんだ。」

そう言ってボア仙人を紹介した。

「ほぉ、この子もまたなかなか……」

ボア仙人は品定めするような目でミーツェを眺める。

「ねぇ、チヒロ。こんな変態ほっといて早く向こうに行こ?絶対に危ないよ、この人。」

「ああ、それは俺も同感だ。」

「?! ちょっ、チヒロ!嘘じゃ、嘘じゃから戻ってこい!」

ミーツェの言葉に賛同してその場を離れようとするとボア仙人は必死で止めに来た。まあ、そろそろ本気で頑張らないとな。

「ごめんミーツェ。この事はグッさんからも了承を得てるからさ。またあとでな。」

「……ふーん。」

「そんなに怒らないでくれよ。」

明らかに不機嫌になっているミーツェ。しかし、ボア仙人との稽古は自分も望んだ事だ。千博がやんわりと断るとミーツェも手を離した。

「じゃあさ、お昼は一緒に食べよーね!きっとみんなも居るしさ!」

「ああ。楽しみにしてるよ。」

「ふふっ、私も!じゃーねー!」

手を振りながら笑顔でミーツェは走っていった。……なんか凄く可愛いな。そう思い、恐らく顔がにやけたのだろう。

「チヒロは良いのう。堂々とイチャイチャできる相手がおって。羨ましいわい。」

「な、別にそう言うわけじゃないですって。ほら、俺たちも早く始めましょう!」

ジト目で見てくるボア仙人から目を逸らし、稽古へとうつる千博だった。





「ふむ。それじゃあ始めるぞぃ。まずは……そうじゃなぁ。」

訓練場の少し端の方に移動した千博達。流石に2人だけで訓練場のどまんなかにいるわけにはいかなかった。

「……まあ、まずは修業の目的を知っておいてもらおうかの。」

「目的って、『魔拳』を使えるようになることじゃないんですか?」

「そうなんじゃが、『魔拳』というのがそもそもなんなのか分からんじゃろ?」

確かに。多分、あの時のボア仙人が水面を蹴った動きが『魔拳』だと思うけどその仕組みは分からない。何をしたのか、それを知らなければいけないということか。

「まあとにかく、最終的にはこういう事が出来るようになってくれれば良いかの。」

「こういう事?」

そう言うとボア仙人は右の掌を千博の方に向けた。そして

「ほっ!」

「ぐあっ?!」

ボア仙人が掛け声を出すとほぼ同時に千博の体が2、3メートル後方へと飛んだ。

「痛っ……な、なんですか今の?」

いきなりの事で受身も取れず、頭を少し打ってしまった。頭をさすりながら立ち上がり、ボア仙人に尋ねる。

「魔力の操作を極めた結果じゃ。これこそ魔力の拳。つまり、『魔拳』というわけじゃ。」

魔力の拳?という事は、今のは魔力って事か?でも一体何をしたんだ?ボア仙人は俺の体に触れずに攻撃をした。なら、魔力を飛ばしたのか?

「チヒロよ、お主、魔力の使い方についてどれくらい知っとる?」

「え、魔力の使い方……」

ボア仙人に尋ねられて、千博は思い出す。この世界に来て近衛隊に入り、初めの訓練でグッさんが言っていた事を。

「えっと……魔力を目に見えるようにする《可視化》、魔力を物質に宿らせてその強度や効果を上げる《留化》……。それに、魔力を火、水、土、風の四大元素に変える《変換》ですかね。《変換》はまだできないしやった事もないですけど。あ、でも魔力で身体能力を上げる事はできます。」

「ふむ、そうじゃな。《可視化》《留化》《変換》の3つはよく知られておるな。お主が使えるという《強化》は魔力量がお主くらいないと実戦では使えんからあまり認知度はないのう。……それにしても、《強化》ができるのか。それなら話は早いかもしれんの。」

ボア仙人は一人で頷いているが、正直なんで話が早くなるのか不明だ。『魔拳』と《強化》は繋がるのか?

「『魔拳』は《強化》の上位魔法じゃ。《強化》の仕方が分かっていれば『魔拳』も使えるようなる。どういう事かというとじゃな……」

そう言うとボア仙人はゆっくりとしゃがむ。千博はボア仙人がまた何かするのだと感じ取って動きに目を凝らした。すると、ボア仙人はその場で跳躍した。……いや、跳躍なんてものじゃない。その距離は10メートル程、いや、それ以上もあるだろうか。そしてボア仙人はほとんど音もなくその場へ着地した。

「す、すごい……」

「どうじゃ。これが『魔拳』じゃ。身体能力の強化でも今の様な事はできるが、見ての通り『魔拳』だと全く疲れん。これが『魔拳』の良いところじゃな。」

『魔拳』その正体はまだよく分からないが、千博はボア仙人の動きを観察して気づいたことがあった。それはボア仙人が地面を蹴る直前。ボア仙人の足元が一瞬だけ微かに光っていた。そして恐らく、あれこそ『魔拳』の正体のヒントだと思った。

「『魔拳』って言うのは《強化》とは違って発動は一瞬、だから魔力のコストも低い……って事ですか?」

身体能力の《強化》は魔力を《強化》したい部位に集めて、ある程度それを維持していなければいけない。だから維持する時間が短い分、『魔拳』は魔力の消費が少ない、と千博は予想したのだ。

「……ほぅ、今のでそこまで掴むか!お主、なかなか素質があるのう。じゃが、正確に言うと少し違うかの。」

ボア仙人に褒められる。嬉しいが、でもまだはっきりとした正体が分からない。

「正しく言うと、『魔拳』とはそれすなわち魔力の《可視化》に本質があるのじゃ!」

「……えっ??」

聞き間違いでなければ、今確かにボア仙人は魔力の《可視化》って言った様な……。

「驚いとるのう。まあ無理もない。《可視化》は誰もが一番初めに学ぶ、魔力の使い方の基礎の様なものじゃからな。じゃが、何事も基礎を極める事こそ熟練された業への道なのじゃ。それに気づいたワシは、こうして『魔拳』を編み出したのじゃよ。」

「……確かに、一理ありますけど……それならますます頑張ればすぐ誰にでもできそうじゃないですか?」

なんだか急に『魔拳』がそんなにすごいものと思えなくなってきた。本当に《可視化》であんな芸当ができるのか?

「ほぉ、言ったの?なら、今日はワシからは何も言わん。ワシがやった事、再現してみるんじゃな。」

「……?!え、ちょっと、それは……」

「なんじゃ、誰にでも出来るんじゃろ?頑張れば出来るんじゃろ?」

「うっ……」

ボア仙人は機嫌を悪くしたのか、少し意地悪に言ってくる。その場に座り込んでしまった。

「ほら、ワシここで見てるから。やってみ?」

座り込んだかと思えば、その場に肘をついて寝っ転がった。これは完全にふてくされてる。……確かに、人が頑張って編み出したものを誰にでも出来るなんて言ったのはよくなかったな。千博は反省した。

「すみませんでした、師匠!俺が間違ってました。是非、『魔拳』の使い方を教えて下さい。」

千博がそう謝ると、ボア仙人の耳がぴくりと動く。

「……師匠?」

どうやら師匠って呼ばれたのが嬉しいみたいだ。よし、いける。

「お願いしますよ、師匠。」

「なんじゃ〜、仕方ないのう。」

機嫌なおるの早いな。少し呆れる千博だったが、それならそれでありがたい。

「それじゃ、早速お願いします。師匠がやった事、どうやればできますか?」

「ふむ、それはじゃな……」

そのあと、ボア仙人の話を聞いて千博は言われた通りに実践してみた。練習すること3時間。結論から言うと、全く出来なかった。

「はぁ…はぁ……くそっ、全然できない……」

『魔拳』の原理は単純なものだった。体内から瞬間的に《可視化》した魔力を放出する。魔力とは本来触れることのできない不安定な力だが、《可視化》することで安定させ、触れる事ができるようになる。という事は、《可視化》した魔力は物質に物理的に干渉する事が可能となるのだ。『魔拳』はそれを利用したものだった。先ほどのボア仙人のジャンプは足から瞬間的に《可視化》させた魔力を圧縮して放出する事で、ジャンプの高さを上げたものだったのだ。そして、魔力を体の一部に集めたり、圧縮して放出する際の操作の仕方が《強化》と似ているそうだ。

「……ほぉっ、ほぉ。まあ、初めから出来る奴などおらんよ。あせる事はない。……さて、そろそろ昼じゃし、一旦やめて飯にしよう。食堂があるのじゃろう?連れて行ってくれ。」

「……はぁ、そうですね。」

千博はあまりの手ごたえのなさにやる気をかなりそがれつつあったのでボア仙人の言う通りに食堂へと向った。ていうか、多分この両手の腕輪のせいでかなり魔力の操作が難しくなってるんだと思うけど……まあいいか。ちょっと気分転換もした方が良いと思う。

「えーと、あ、いたいた。ボアさん、あっち行きましょう。」

食堂に入り、周りを見て探すと、いつも通り席を開けてみんなが座っていた。みんなは既にテーブルの上に自分の分の料理を取り終えている。ラッセルやフェリス、ミーツェは待っていてくれていたみたいだが、グッさんは既に食べ始めているようだ。

「おう、チヒロ!久しぶりだな……って、その爺さんは誰だ?」

近づくとラッセルがまず声をかけてきた。ラッセルの顔を見るのもほんとに久しぶりな気がする。

「この人は今俺に稽古をつけてくれてる人で、ボア仙人って言うんだ。」

「へー、仙人か……なんかかっこいいなー!」

「む、お主気に入ったぞ!弟子にしてやってもいいぞい。」

何だろう。ボア仙人は褒められるのにすごい弱いみたいだな。ていうか、ラッセルにはボア仙人がかっこよく見えるのだろうか……。

「あ、いや……ありがてぇけど、俺今訓練で忙しいからよ。暇ができたら弟子にしてくれ。」

ラッセルは後ろを振り向きながら言った。その目線の先にいるのはフェリス。そっか、ラッセルもフェリスの班で頑張ってんだな。

「む?お主は……」

「……っ?!」

ラッセルの視線の先を追ったボア仙人がフェリスを見て何かに気づき、フェリスの肩がびくんと揺れる。あ、そうか。2人はもう面識あるんだっけ。ボア仙人は何やらニヤニヤしながらフェリスに近づいていき、フェリスはその動きに合わせるように視線をボア仙人から外していった。

「お嬢ちゃん、久しぶりじゃのう。元気じゃったか?」

「う、うるさい!寄るな破廉恥め!」

フェリスは立ち上がってレイピアに手をかける。酷くボア仙人を警戒しているようだ。……何があったんだよ、一体。

「まあまあ、フェリス。そんなに怖がらなくっても大丈夫だって。」

「ミーツェ、そうは言ってもだな……」

あー、なんか予想できた。たぶんフェリスもステラと同じ事をされたんだな。

「……ボアさん、いい加減捕まりますよ?」

「ほぉっ、ほぉ。ワシが捕まるわけないじゃろう?」

何を言ってるんだ、と言いたいところだが、本当に誰も捕まえられそうもないのが一番怖い。曲がりにも弟子であるんだから師匠の評判が悪くなるのは嫌だな。

「ほら、もうフェリスをからかうのはやめてお昼にしましょう。ステラがボアさんの分も弁当を作ってくれましたよ。」

「む、何、本当か?!それは楽しみじゃ。」

千博はとりあえず弁当を渡して気をそらした。弁当を受け取ったボア仙人は空いていた席につく。しかしその行為にまた問題があった。

「あ……!」

「え……!?」

今、この場で空いている席は2つだった。一つはグスタフとラッセルの隣の席。そしてもう一つはフェリスとミーツェの間の席。当然、ボア仙人が選んだのは後者であり、それが主にフェリスとミーツェの表情を変えた。

「爺さん、あんた空気読んでやれよ……」

ラッセルがボア仙人に対してぼそりと指摘をした。流れでラッセルの隣に座る事になった千博も苦笑いする。

「むぅ、美味いのう。やっぱり人の作ってくれた飯が一番じゃのう!」

が、ボア仙人は既にステラの作ったサンドイッチを夢中で頬張っていた。ほんとに自由だな、この人は。

「チヒロよ、出来ればこれからもワシの分を……」

「用意して欲しいなら、あんまり人の嫌がる事はしちゃいけませんよ?でないと、ステラには頼みません。」

「ぬぅ……仕方ないのう。分かったわい。」

なんか小さい子に説教している気分だ。普通年の差から考えたら若者に説教するべき人のはずなのに。しかし、不思議と憎めない所があるのも事実だ。なんか、初めてのタイプだな。

「……まあ、とにかく本人もこういった事だしさ。隣だけど許してあげてくれないか?フェリス、ミーツェ。」

千博はボア仙人を嫌がっている様に見えたので、2人をなだめた。根は悪い人じゃないし、みんなには仲良くやってほしいしな。

「ち、違っ……そういうわけでは……はぁ。」

「むぅ……やっぱり鈍感なんだから……」

しかし何故か2人の反応は千博に呆れている様なものだった。

「……?」

「はぁ……チヒロ、お前もかよ……。こりゃ班長もミーツェさんも大変ですね……」

「全く……うちの娘も苦労者だ。」

困ってラッセルの方を見たがラッセルとグッさんも呆れている様だった。2人でやれやれと首を振っていた。……よく分からないが、2人ともあまりボア仙人を嫌がっている様ではないので千博は安心した。

「……あ、もう時間があんまりないじゃん!早く食べなきゃ!」

「本当だ、急ごう。」

時計を見ると、もうすぐ昼の休憩も終わりそうだった。千博達は急いで各々の昼食を取り始めたのだった。






「はぁ〜〜〜、疲れた〜〜」

訓練が終わり、自宅までの道のりで何回この言葉がこぼれたことか。いつもは体の方がヘトヘトになるのだが、今日は精神の方が削られた。魔力の操作がこれ程までに神経を使うものだとは思わなかった。結局、あの後も『魔拳』を使うことはできなかったし、それどころか魔力の《可視化》自体が危うかった。久しぶりというのもあるのかもしれないが、9割がたはこの腕輪のせいだ。体を流れる魔力の流れが凄く細くなってる感じがする。その為か、頑張ってパチンコ玉くらいの魔力しか《可視化》できなかった。それも勢いよく放出などできなかった。

「初日は散々だったな。まぁ、気長に頑張るしかないのか?」

しかし、そうは思ってももし前みたいに他国から攻撃を受けたら困るんじゃないか?その時までに戦える状態にしておかないと。……そのときはまずこの腕輪を外してもらおう。

「ただいま〜」

そんな事を考えながら千博は玄関の扉を開く。今日はもう早く寝よう。ボア仙人との稽古は他のみんなの訓練とは別だったから帰宅はいつもより2時間ほど早い。「これ以上やっても今日は疲れるだけ」との事でボア仙人が早めに帰らせてくれたのだ。しかし、頭を使うと予想以上に疲れる。千博は家に入るととりあえず食堂の方に向かった。多分そこにいるだろう。今日はまだ時間が早いからステラの夕食を準備する匂いもしていないから確信はないが。

「ステラ、ただいま……って、あれ?ここじゃないのか。」

食堂に入るが、ステラの姿は見えなかった。となると、自室だろうか。でも、俺が帰ってきたら気づきそうだけどな。ひょっとしたら買い物に行ってるのかもしれない。

「まあ、いっか。先に風呂に入ろう。まずは沸かさないとな。」

この屋敷は大きいが、作りはどちらかというと古い。風呂の沸かし方もなかなか原始的なのだ。この作業はステラに任せるのも申し訳ないので、千博が担当する数少ない家事の一つだった。

「よし、やるか。」

疲れているがこれは仕事だ。千博は風呂を沸かしに風呂場の外へと向かおうと振り返る。と、

「っ?!」

そこには黒づくめのローブの様な服を着た見知らぬ人物が立っていた。しかし、驚いたのはそれだけが理由ではない。その人物は小さなナイフを持っており、それで突然千博を突いてきたからだ。千博は咄嗟に後ろに飛んでそれを避けた。

「……?!だ、誰だ!!」

黒づくめの人物に問いかける。しかし返事は返ってこず、再び相手は突いてきた。千博は後退しながらそれを躱した。2撃目が避けられると、黒衣の人物は一度動きを止めた。それに合わせて千博も間合いをはかる。

「……ちっ、なんなんだ、お前!何のつもりだ!!」

相手が自分を殺しにきているのは明確だ。しかし、殺される様な恨みを買った覚えはない。相手の素性が掴めない。

「……恨みはない……でも、貴方を殺す……そういう命令。」

「はぁ?命令?」

相手はようやく口を開いた。声色からすると女性だ。武器は短剣。それを逆手に握り直して構えている。動きは早いが、洗練されている雰囲気ではなかった。命令、というと彼女は誰かに俺を殺す様頼まれた殺し屋、もしくは暗殺者という事か。命令を出したのが誰かは知らないが、こんなところで死ぬのはごめんだ。千博は迫ってくる黒衣の女の突きを躱し、その手を手刀で叩いて短剣を弾く。そのまま落ちた剣を足で後ろへと蹴った。千博の手慣れた様子に一瞬、女はたじろぎ、数歩飛んで距離をとった。千博は今まで対人戦の訓練ばかりしていた。しかもその相手は近衛隊の班長だ。これで対人戦になれない方がおかしい。

「諦めろ、もうここまでだ。」

武器を失った女に千博は警告する。さて、なんとか捕まえて治安維持隊に引き渡せばいいか。千博はじりじりと距離を詰めていこうと足を進めた。治安維持隊に引き渡す前に、誰に頼まれたかとかも聞かなければいけない。それにしても一体誰がこんな殺し屋みたいなのを使ってきたんだ?目の前の女は動かない。近づいてみるとそんなに身長は高くなく、まだ少女の様に見えた。

「なぁ、教えてくれ。あんたは誰に雇われ……」

近づき少女に尋ねた瞬間だった。千博は何が起こったか認識した時、既に部屋の壁際へと吹き飛ばされていた。

「……な、んだ……?今の……」

わき腹に残る重い衝撃に千博は顔を苦痛に歪めた。別に警戒していなかった訳ではなかった。しかし、相手が少女だと思って少し気が抜けていたのかもしれない。ただ、それでも油断とかに関係なく少女の蹴りは速すぎて辛うじて目視できただけだった。

「……ぐっ……く、そ……」

立ち上がろうとするが上手く腹筋に力が入らない。魔力の操作が上手くできない今は、体を《強化》することもできず、そのままダメージを受けてしまった。完璧にわき腹に蹴りが入った様だ。千博はなんとか壁に体重を預けながら立ち上がった。

「……?!」

そして少女の方を確認すると、四つん這いになって猫の様な低い姿勢に構えていた。千博は直感的に壁を手で押して横へ倒れる。すると、

「……」

ズドン、と鈍い音を立てて少女の蹴りが千博がいた辺りの壁をへこませた。少女は相変わらず無言のままで千博の方を向くと歩いて近づいた。

ーーな、なんだよあの威力?!グッさんと互角ぐらいじゃないのか?!あんなのまともにくらったら……くそっ、なんでこんな時に魔力が使えないんだよ!まずい、このままじゃ……!ーー

千博は忌々しい腕輪を睨んだ。これさえなければ、魔力さえ使えれば《強化》でこの怪力少女とも闘えるだろう。しかし、今は魔力が使えない。いや、使えないことはないが、この少女の怪力と張り合えるだけの《強化》が行えないだろう。圧倒的にこちらの不利だ。そうこう思っているうちに、少女は片手で千博の胸ぐらをつかんだ。

「……ぐっ!」

抵抗しようと両手で少女の手を掴むが全く動かない。万力のような力で掴まれている。歯が立たない。

ーーくそっ、何か手はないのか?!やばい、このままだと本当に……ーー

殺される。千博は必死に打開策を考えるが魔力の使えない今、できることは限られる。

ーーそうだ、短剣!さっき蹴ったやつが確か近くに……ーー

一筋の希望を感じ千博は近くを見てみたが、短剣は千博の近くではなく、どちらかというと少女のすぐ後ろに落ちていた。これでは取りに行くことはできない。千博は絶望した。そして、少女のもう片方の手が千博の首にゆっくりと伸びる。おそらくこの手は簡単に千博の首をへし折るだろう。

ーーくそっ、まじかよ……こんなところで……。けど、ステラが家に居なかったのはラッキーだったか。ステラをこんな目に合わせるわけにはいかないしな……ーー

「……命令、執行……」

少女が小さな声でそう呟く。そして、苦笑いして千博はいよいよ死を覚悟した。しかし、千博の息が止められることはなかった。

「……?」

こつん、と少女の背中に何かが当たる。少女が振り返りその当たった物を見ると、なんでもない、ただのジャガイモだった。少女にとっては痛くもかゆくもない攻撃だったが、その攻撃を加えてきた相手を見て少女は珍しく顔色を変えた。

「ち、チヒロさんから離れてっ!!」

その相手を少女の背中越しに見て、声を聞いて、千博も目を見開いた。

「ステラ!?」

そこにいたのはステラだった。その震える手にはジャガイモを握って振りかぶっている。足元には買い物に行ってきたのか、バスケットが落ちて中身が少し散らばっていた。突然のことに呆気にとられた千博だったがすぐに正気に戻って叫んだ。

「逃げろ、ステラ!!駄目だ、そいつから早く逃げるんだ!!」

まずい。このままじゃステラの命まで危険に晒される。それだけは駄目だ。絶対に。

「い、いやです!私、チヒロさんを守ります!!」

しかし、そんな思いとは裏腹にステラはその場を動こうとはしなかった。千博は焦る。

「ば、馬鹿!!やめろ!いいから早く逃げるんだ!」

「いやです!チヒロさんを助けるまで、逃げません!!」

ステラはそう言うと再びジャガイモを投げた。しかし、今度は少女には当たらずに壁に当たる。

「……」

そして、少女の標的が変わった。少女はステラに向かって歩き始める。

「……くそっ!!ふざけんなぁっ!!」

千博はそれを見て少女を止めようと力を振り絞って少女の足を掴んだ。しかし、一瞬足を止めたがすぐに振り払われる。少女はそのまま足がすくんでしまったのか、その場を動けないステラに近づいていく。そして手を振りあげた。

「……?!やめろぉっ!!」

千博叫ぶが少女は気にも留めない。ゆっくりと、目を閉じて震えるステラへと手を振り下ろした。そして……

「……?」

ステラが目を開くと、特に何かされた様子はなかった。痛みは無い。ただ、何もされていないわけではなく、頭のを触られている。

「……な、なんだ?」

少女はステラの犬耳を触っていた。引っ張ったり、じっくりと観察したりしている。

「え?……あ」

ステラも困惑している様だ。千博の方を見て助けを求めている。千博はよろよろと立ち上がったしかし、2人の方へ行きたいが下手に動けばステラが危ないかもしれない。

「……本物……」

と、小さな声で呟いたかと思えばステラの耳を触りまくっていた少女は再び驚いた様子で犬耳から手を離した。

「は、はい……本物、です……」

戸惑いながらステラも答えた。少女は今度は千博とステラを交互に眺めた。……なんだ?あの子から殺気が感じられなくなった。何を考えているんだ?

「貴方、人間……?」

すると次は千博に尋ねてくる。しかも、聞くまでも無いような質問だ。

「あ、ああ。そうだけど……」

千博が答えるが、特に反応はなかった。……何がしたいんだ、こいつは。

「……おかしい……なんで……」

少女は終いには首を傾げて一人で考え込み始めた。もう全く脅威は感じない。千博は少女が何かを思考している間に息を整えた。この場から逃げたいが、今の千博では彼女に太刀打ちする事はでき無い。しかも、ここにはステラもいる。少女の速さとあの怪力は十分に思い知っているので迂闊に動くのは危険だ。ステラが逃げる間俺が時間を稼ぐのも難しそうだ。となるとここは命乞いというか、見逃してくれる様に交渉をした方が良さそうだ。幸い今なら話も通じそうだし。

「ねぇ、犬のメイドさん……」

「は、はい。」

少女に呼ばれてステラが返事をする。けど、犬のメイドって……もうちょっと言い方があるだろう。

「どうして……なんでその人間を助けるの?」

どういう意味だ?なんでそんな事にこだわるんだ、この娘。……ひょっとして、この質問とこの娘が急に攻撃してこなくなったのは何か関係があるのか?

「そんなの、チヒロさんが私の大切な方だからに決まってます!!」

質問に対して、ステラは少女を強く見ながら答えた。その勢いに少女も一瞬たじろいだ。……でも、その気持ちは嬉しいけど俺はステラに助かってもらわなければ困る。そう決意したんだ。ステラを、大切な人達を守るって。だから千博はすぐにそれに反応した。

「駄目だ!おい、あんた!お前の目的は俺だろ?俺を殺しに来たんだろう?なら、ステラは関係無い!見逃してやってくれ!」

交渉するつもりだったが、それはもうよかった。ステラさえ助かってくれれば。こいつが俺を、俺だけを狙ってここに来たのなら、これでステラは助かるかもしれない。千博の言葉を聞くと、少女は振り返って千博を一瞥した後、再びステラの方を向いて言った。

「……そう。私はあの人を殺すために来た。……貴女は関係無い……だから、逃げても……」

「っ!い、いやです!!」

無駄な犠牲を出すのは嫌なのか、少女もステラに逃げても良いと言う。しかし、ステラは即座に断ってしまった。まずい。もしここであの娘を怒らせでもしたら台無しだ。逃げられるものも逃げられなくなる。

「……ぅう、なんで……?」

ところが少女は怒るどころかステラに断られてひどく困っている。何故かはわからないがこの娘はステラには優しい様だ。先程までは物静かで感情が表れにくかったのに今はおろおろしているのが見てわかる。

「……どういう事?……なんで人間を……」

少女は独り言の様に小さな声で呟いて悩んでいる。そして、千博はそのつぶやきの中の人間という言葉にピンときた。普通同じ人間なら人のことを人間なんて言わない。となると、この娘は人間ではないのかもしれない。フードと黒衣で隠されて姿は見えないが、あの怪力と素早さから考えると……

「ひょっとしてお前、亜人なのか……?」

千博が尋ねると、少女の目つきが再び鋭くなり此方に向いた。しまった!失言だったか?!

「い、いや、悪気はないんだ!気に障ったのなら謝るよ。ごめん!」

急いで頭を下げる。怒らせたらまずいとか思っときながら俺が怒らせてしまった。くそ、まずいぞ!

「……??」

しかし、千博が素直に謝る様子を見て少女は面食らっている様だった。そして、千博が頭をあげた時には少女の顔には怒気もなく、殺気もなかった。どうやら怒らせることはなかった様だ。

「……そう。私は、人間じゃない。……亜人の一種……」

安心していると、少女は千博に向かってそう認めた。そしてフードに手をかけてそれをめくる。するとそこには……

「……おおっ!」

耳。人間のものとは違う毛深いふわふわの獣の耳。そしてそれは彼女の素早さと力強さを象徴するかの様な、黄色と黒の2色で模様付けられた虎の耳だった。

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