第2章 タカシの夢はお笑い芸人? (その10)
高校3年の、しかも、もうセンター試験の申し込みが迫っている今になって、その彼女との出会いがキッカケだったように思えてくる孝だった。
そう、彼女との出会いが、勉強に対する意識を変化させてきたように思えるのだ。
だからと言って、彼女に責任を転嫁するつもりはない。
意識をしたのは一方的に孝からだったのだし、彼女が具体的に何かを仕掛けてきたものでもない。
彼女は悪くない。
それでも、自分の成績が下降し始めたのは、明らかに彼女の存在を意識するようになってからだった。
だから、鬼頭先生が言う「何があったのか?」に素直に答えるとすれば、「はい、塾で好きな子が出来まして・・・」となるのだが、もちろん、口が裂けてもそんなこと言える筈も無かった。
「た、確かに・・・、こんな点数しか取れないようじゃなぁ・・・。」
孝は改めて渡された点数表の数字を見る。
とりわけ、英語と数学である。
どこの大学に行くにしても、この科目は避けて通れないことは明白。
もちろん、それが分かっているだけに、孝自身もこの両科目については力を注いで来た。
今の学習塾に通い始めたのも、その両科目を完璧なものにしたかったからだ。
中学2年から通い始めて、その成果は学校の成績にも如実に現れていた。
その頃からは、クラスでも3本の指に入るほどに充実した結果をもたらしていた。
それなのにだ。
その同じ塾で、彼女と出会ってしまったのだ。
いや、「彼女」と呼べる関係ではない。
完全な片思いだし、第一、何らのアプローチすら出来てはいないのだ。
ただ、毎日、ジリジリとした気持で机を並べていた。
そうした期間がこの1年だった。
その間に分かったことと言えば、彼女が私立の名門女子高に通っているらしいこと。
そして、名前がカノンと言うらしいこと。
さらには、東京の外国語大学を目指しているらしいこと。
将来は海外留学を志しているらしいこと。
それぐらいである。
もちろん、彼女本人から聞いた話ではない。
周囲にできた女の子の友達から聞かされたことばかりである。
依然として、彼女とは、必要なこと以外の私語は交わされてはいなかった。
ただ、救いだったのは、いや、逆に孝を苦しめることになったのは、依然として彼女が自分の意思で孝の隣の席を選んで座っていたことだった。
つまりは、「拒絶はされていない」と思えることだった。
女の子の心理とはそうしたものだろうという常識があった。
孝のことを「嫌な奴」とか「気もい奴」とちょっとでも思うのであれば、絶対にその隣の席に座ったりはしない筈。
それなのに、彼女は、まるで「私の指定席よ」とでも言わんばかりに、当然のように孝の真横に座るのだ。
その癖、余計な会話は一切してこない。
「こんにちわ」とも「さようなら」とも言わない。
それどころか、授業中は一切こっちを見ることも無い。
それを、その事実を、一体どう受け止めれば良いのか。
それでも、孝は、「これで良いのだ」と思うようにしていた。
もちろん、理想を言えば、そうした彼女と付き合ってみたいとは思う。
男の子としては、当然の思いだろう。
だが、どうしても、その最初のキッカケが作れないのだ。
そして、そうすることによる結果が恐ろしくもあったのだ。
隣の席に彼女が座らないことは、どうしても考えたくなかった。
そうした彼女への気持が「学力の低下に繋がった」とは決して思いたくはなかった。
それでも、鬼頭先生が言う「どうしたと言うんだ?」という問いへの答えはそれぐらいしか見当が付かなかった。
階下で人が動く気配がする。
どうやら、夕食が終わったようだった。
「じゃあ、まずは腹ごしらえをするか・・・。」
孝は、そう言って椅子から立ち上がった。
(つづく)