八話 優しさ
リハビリ室の喧騒が、遠い異国の海鳴りのように響く。
何度も床に叩きつけられた膝の痛みは、もはや俺の身体の一部となり、感覚を麻痺させていた。ようやく平行棒を伝って自力で立てるようになった頃、俺は疲弊しきった身体をベッドに投げ出した。
意識の淵が、急速に濁流へと飲み込まれていく。
まどろみの中で、俺は一度も見たことのない、あるいは見たくなかった「記憶」の深層へと沈んでいった。
◇
生まれた時から、父の姿はなかった。
アルバムにも、家の中にも、父を連想させるものは何も存在しなかった。幼い俺にとって、世界は母と俺の二人だけ。
母は強かった。朝早くから夜遅くまで働き詰め、それでも俺に対しては、常に完璧な「母」を演じきっていた。
運動会、授業参観、発表会。どんなに仕事が忙しくても、どれだけ疲弊していても、彼女は必ず観客席にいた。他人の親が来るのを羨むことはあっても、俺は一度も「母がいなくて寂しい」と思ったことはなかった。
母は、俺の誇りだった。彼女の作る夕食の温かさと、忙しなさの中に隠された不器用な愛情を、俺は疑いようもなく信じていた。
それが、どうしてこうなってしまったのか。
高校に入学した頃から、何かが決定的にズレ始めた。
母は俺の行事に来なくなった。俺も、それを責めることはなかった。成長すれば親と距離を置くのが当たり前だ。家の中に会話は減り、ダイニングテーブルを挟んで向かい合っても、互いにスマホやテレビに視線を落とすだけ。
それは「普通」の過程だと思っていた。そう、思いたかった。
高校三年生。
あの夏の日、階段から転落したあの日まで、俺は母の顔をまともに見ていなかった気がする。
ただ、俺は「良い息子」でありたかった。彼女の負担になりたくなくて、退院が近くなったとき、俺は主治医にこう頼んだのだ。
「先生、リハビリはこれくらいでいいです。……母に迷惑をかけたくないので、車椅子ではなく松葉杖で……自力で歩けるようになります」
それは、俺なりの精一杯の優しさだった。これ以上、母に世話を焼かせて生活を乱したくない。自立した息子として振る舞えば、また昔のような穏やかな関係に戻れると信じていた。
しかし、現実は残酷だった。
階段からの転落で負った怪我は、俺の進路を閉ざした。志望していた大学への道は、物理的にも精神的にも途絶えた。
不合格通知を見た時の、母の冷めた視線を今でも鮮明に覚えている。悲しみも怒りもない、ただ底冷えするような「無関心」。
そこに残ったのは、得体の知れない虚しさだけだった。
俺は家の中で、母に気を使い続けた。彼女の足音を聞くたび、背筋を伸ばし、邪魔にならないように、息を潜めて生活した。
まるで、住み着いた小動物のように。あるいは、家畜のように。
「……なんで?」
夢の中で、俺はあの日、階段の踊り場で母の背中を見つめていた記憶に囚われる。
俺は優しくしていた。母の負担にならないよう、自分を殺して、空気を読み、彼女が望むであろう「手のかからない息子」を演じていた。
それなのに。
突き落とされる直前、母は俺に向かって、見たこともないほど歪んだ笑顔を浮かべた。
あぁ、そうか。
夢の中で、俺は答えを見つけてしまった。
階段の踊り場で、母が突き放したのは俺の身体だけじゃなかった。彼女は、俺が必死に作り上げてきた「優しい息子」という幻想を、ゴミのように足蹴にしたんだ。
◇
目が覚めた。
病院の窓から、夕闇が差し込んでいる。
俺は独り、ベッドの上で冷たく笑った。
(俺はバカだ)
優しくすれば愛されるなんて、誰が決めたんだ?
負担にならないようにすれば、絆が深まる?
そんなのは、ただの都合のいい妄想だ。俺は、彼女に愛されたかったんじゃない。彼女を失望させたくなかっただけだ。彼女の人生の重荷になりたくなかったという、俺自身の醜い自己防衛のために、必死で「優しい息子」という鎧を纏っていただけなんだ。
母が俺を突き落としたのは、俺が憎かったからじゃない。
俺が「優しさ」という名の壁を作り、彼女の心に土足で踏み込まなかったからだ。彼女は俺に、自分と同じ地獄を求めていたんだ。
「優しくしてあげている」という高慢な態度が、彼女の神経を逆撫でし、最後には殺意へと変貌させた。
俺は義足を掴む。
もう、優しさなんていらない。
理解も、絆も、和解も、全部クソ食らえだ。
母さん、あんたが求めていたのは、俺の優しさじゃない。あんたのドロドロした狂気を、そのまま受け止める「共犯者」だったんだろう?
俺はゆっくりと立ち上がった。
かつて感じた、あの温かい味噌汁への感謝や、母を死なせたくないという未熟な執着は、この確信によって全て消滅した。
リハビリなどどうでもいい。
どうせまた、俺は殺されるんだ。
なら、今度こそは、あの冷え切った彼女の心を、完全に破壊し尽くしてやる。
俺は、窓の外の闇を見つめながら、ひねくれた確信に震えた。
救済なんて、どこにもない。
あるのは、互いの業を食らい合うだけの、残酷で静かな共食いの果てだけだ。
「母さん。今度こそ、あんたの望み通り、最高の地獄を味わわせてやるよ」
声に出したその言葉は、獣の唸りよりも深く、そして人間として最も冷酷な響きを持って、病室の静寂を切り裂いた。




