七話 剥奪
視界の端で、鮮血が床のカーペットを汚していくのが見えた。
背中に刺さった包丁の柄が、肺が収縮するたびに不規則に揺れる。あの、冷たく、そして鋭い金属の感触。ライオンに食い殺される時の圧殺とは違う、一点を深く抉られるような、心臓そのものが凍りつくような痛み。
(またか……)
怒りよりも先に、滑稽さすら感じた。
俺は三度目の生を、またしても母の手によって強制終了させられた。
視界が急速に狭まっていく。呼吸のたびに、口内が鉄錆の味で満たされる。意識の深淵へ引きずり込まれる直前、俺は自分の胸の中に渦巻く、どろりとした「執着」を確認した。
まだだ。まだ終われない。
闇が世界を塗りつぶし、次に目を開けたとき――そこはまた、あの白い病室だった。
「……ッ!」
背中を刺されたはずの箇所に、鋭い痛みが走る。幻痛だ。
荒い息を吐きながら身を起こすと、病室の椅子には母が座っていた。
以前と変わらぬ、冷淡な表情。だが、その瞳の奥には、前世(あるいは前々世)で見たはずの、あの「澄み切った狂気」の残滓が、ほんのりと灯っている。
「……また、生き返ったのね」
母は驚くでもなく、事務的に呟いた。彼女もまた、この地獄のようなループの中に一緒に引きずり込まれているのか、それとも俺だけがこの繰り返しを認識しているのか。問い詰める余裕もなかった。
「帰ってくれ」
俺は、絞り出すような声で言った。
事件のことなど聞く気力もなかった。突き落とされた理由? なぜ殺したのか? そんなことは、今の俺にはどうでもいい。ただ、この空間から彼女を排除しなければ、俺はまた「死ぬ」という結果に直面し続けることになる。
「帰って。もう、二度と俺の前に現れないでくれ」
「……勝手にしなさい」
母は、まるで最初からそうするつもりだったかのように、何の反論もせずに立ち上がった。ヒールが床を叩く乾いた音が、逃げ去るように遠ざかっていく。
病室に、静寂が訪れる。
だが、その静寂は、以前のような「次への準備」にはならなかった。
警察の介入を拒み、母を追い返した。計画通りだ。
それなのに、リハビリ室へ向かう俺の足取りは、鉛のように重かった。
義足の継ぎ手に体重をかける。本来なら、一度目の記憶をなぞるように滑らかに動くはずの四肢が、言うことを聞かない。
精神が、肉体についてこないのだ。
(また、殺されるのか)
義足で床を蹴った瞬間、ふらりと身体が大きく傾いた。
ガシャアッという音と共に、俺はリハビリ室の床に叩きつけられる。膝が床に激突し、鈍い痛みが走る。
周りの理学療法士が駆け寄ってくるが、俺は手を振り払った。
何度も転ぶ。
以前なら、獣のような生存本能で即座に立ち上がれたはずなのに、今は立ち上がるための「動機」が霧散している。
母と対話する? 理由を聞く?
そんなことを繰り返して、何になる。
どうせ最後には、包丁の冷たさが背中を貫き、俺はまたこの白い天井を見上げることになるのだ。
「涼太さん、どうしました? 足の調子が悪いのですか?」
理学療法士の心配そうな声が、遠くの波音のように聞こえる。
俺は返事をせず、床に這いつくばったまま、自分の義足を睨みつけた。
アルミの反射の中に、死に損なった情けない人間の顔が映っている。
(ああ、そうか。俺は、死ぬことへの恐怖を通り越して、生きることへの絶望に支配されているんだ)
何度も繰り返される、同じ痛み、同じ結末。
俺の魂は、器を変え、何度も死を反芻するうちに、少しずつ「人間としての何か」を削り落としていたのかもしれない。
もう、前へ進むのが怖い。
この義足で歩く先には、必ず彼女の包丁が待っている。
そんな確信が、俺の身体を鉛のように重くさせ、立ち上がる力を根こそぎ奪っていった。




