五話 味噌汁
リビングの空気は、病院の消毒液の匂いとは対極にある、生活の匂いに満ちていた。
どこか焦げ臭いような、それでいて懐かしい、家庭の匂い。
食卓には、つい今しがた用意されたばかりのような味噌汁の椀が、湯気を立てて置かれている。母は俺の帰宅を待っていたのか、それとも単なる習慣なのか。そのどちらでもいい。俺は義足を床に響かせ、彼女の向かい側に腰を下ろした。
「……座りなさい」
母が短い言葉を投げかける。その横顔は、俺が記憶している「あの日の狂気」を宿した母の顔とは少しだけ違っていた。どこか疲れ果て、魂が少し削げ落ちたような、そんな枯れた印象を受ける。
俺は真っ直ぐに彼女を見つめた。
今しかない。この日常の仮面を被っている瞬間に、核心を突かなければならない。
「母さん」
「何よ」
「どうして……どうして、俺を突き落としたんだ?」
その問いかけは、静かな部屋の中で異常なほど大きく響いた。母の手が止まる。味噌汁の椀を持っていた彼女の指先が、微かに、本当に小さく震えた。
彼女は俺と目を合わせようとはしなかった。視線は、ただテーブルの上の味噌汁の揺らめく水面に注がれている。
「何のこと? あなたがドジを踏んで階段から落ちたんでしょう。警察にもそう言ったんでしょう?」
「嘘をつくのはやめてくれ。……俺は覚えているんだ。あんたが、俺を、突き落とす瞬間のあの顔を」
俺の声が怒りに震える。
「母さん、あんたに聞きたい。俺が何をした? どんな罪を犯したっていうんだ。」
母は無言のまま、ゆっくりと味噌汁の椀を俺の方へ滑らせた。
「……飲みなさい。冷めるわよ」
「答えになっていない!」
「いいから、飲みなさい」
拒絶の言葉を飲み込み、俺は椀に手を伸ばした。拒否すれば、彼女はまた殻に閉じこもるかもしれない。
指先に伝わる椀の温かさ。
俺はそっと唇をつけた。
一口。
喉を滑り落ちていく液体は、病院のあの無機質な流動食とは全く違っていた。
出汁の香り、味噌の塩気、そして具材の甘み。それらが混ざり合い、胃の腑にじわりと染み込んでいく。
その瞬間、俺は思わず目を見開いた。
病院のベッドで、点滴に繋がれていた時に感じたあの凍えるような寂しさが、この温かさによって溶かされていく気がしたからだ。
味覚の奥底に、かつて母が作ってくれた、子供の頃の記憶が蘇る。
これは、ただの味噌汁じゃない。
俺を殺そうとした人間が、死の淵から戻った息子に捧げるもの。
その温かさが、あまりにも残酷で、あまりにも愛おしい。
「優しさ」の味に、俺は自分が、まだどうしようもなくこの人間という器に縛られていることを痛感させられた。
俺は椀を両手で包み込み、冷え切っていた身体の芯が熱くなるのを感じながら、ただ黙って飲み続けた。
母はそれを見守りながら、相変わらず何も語らない。
この沈黙の中にある、狂気にも似た「愛情」のような何か。それが何なのかを理解するために、俺はこの一杯を飲み干すしかなかった。




