ブルーメンタル・チョコレート
めっちゃくちゃ過ぎてますけどバレンタインです。
寒い日の外出は憂鬱だ。
節分をいくらか過ぎて、暦では春だというのに、外気は冷たく厚手のジャケットは手放せない。
外気が冷えると熱を逃がすまいと筋肉が縮こまり、体が不調になる人が多いそうだ。
慢性的な肩こりでただでさえ辛いというのに、常時痛みを伴うのはさすがに看過できない。
これは、人の手を借りて解消するしかない。
「そこ痛い、そこ痛い」
「しっかりほぐしますねー」
治療台に寝そべり、ベテラン整体師によってこりをほぐされていく。
僧帽筋を揉まれ、肩の付け根をぐりぐりと押され、首のツボを強く刺激される。
ちょうどいい力の入れ具合に、思わず声が漏れた。
仕上げにEMSを受けて受付に案内される。
「お疲れ様でしたー。次回はいつにしますか?」
「そうねぇ」
受付のカウンターに飾ってある卓上カレンダーを眺めた。
あと数日後にあるあの日が目に留まり、眉間に皺が寄った。
完全に無意識だったけれど、思い出してしまったので仕方がない。
「……残業が続きそうだから予定がわかったら連絡します」
「L○NEでも予約できるのでお願いしまーす」
さすがグループで広く展開している人気の治療院。
施術も的確だし対応が神。
心の中で手を合わせておく。
「あ、そうだ。これ。少し早いけど」
「わあ、ありがとうございます!」
バッグから取り出したのは薄い箱。
簡単なラッピングが施された市販のチョコレート。
高くも安くもない友チョコレベルの品物だ。
いつもお世話になっています、という感謝を込めて、午後のお茶請けにでもして頂きたい。
「当日は誰かと過ごされるんですか?」
受付の女の子が他意のない笑顔を向けてくる。
ただの社交辞令的なやつ。
だけど、聞かれたくない事柄でもある。
「ご想像にお任せします」
笑って交わして店を出た。
お大事にしてくださーい、と大きな声で送られ車に乗り込む。
せっかくの休日、このままどこかに寄っていきたいけれど、生憎のすっぴん。
施術を受けやすいTシャツとジャージという格好というのも頂けない。
行けなくはないけれど、行きたくはない。
行くのなら、場所はドラッグストア。
マスクと眼鏡の装着必須。
癒されに来たはずなのに気分が低空飛行している。
尖った心を癒すのは可愛い小物と甘いお菓子とアルコール。
よし、とドラッグストアへ向けて発進した。
あのバk……もとい、元カレと同棲を始めたのは三年前。
彼がまだスタイリストになる前、アシスタントだった時だ。
一緒に暮らして半年経たない頃に昇格したと満面の笑みを浮かべて報告してくれた。
彼の努力は知っていたから技術的なサポートが出来ない分、生活面で支えていたつもりだった。
料理は作るなと固く言われていたから、主に金銭面で。
もとはあっちが転がり込んで来た形だから、家賃や生活費がこちらが多くなるのは必然。
彼のプライドなんて気にもとめず、よかれと贈った品物が封をしたままクローゼットで眠っていたのを見つけ激昂した。
なんで使ってくれないのか、と。
もちろん大げんかになり、彼が謝るまで1週間口をきかなかった。
去年の2月14日のことだ。
その頃には浮気、いや二股かけられていた。
ドラッグストアは宝の宝庫だ。
生活用品にコスメ、食材に飲料。パンやお菓子にお弁当まで置いてあるところもある。
エントランスに設置された特売のカートをスルーして、買い物かごを掴む。
手前から順番に棚を巡回する。
この季節の必需品であるハンドクリームと保湿リップ。
使用中のものがまだ半分残っているので買う予定ではないけれど、新商品のチェックは欠かさない。
パッケージがかわいいイラストが描かれ、つい手に取ってしまう。
欲しい気持ちを抑えて棚に戻した。
コスメのコーナーへ進むと心が弾んだ。
好きなブランドスペースでじっくり堪能する。
特に欲しいものはないけれど、趣向品は見ているだけで気分が上がる。
それに毎日使うものだし、いつもキレイに見られたい。
新商品のアイブロウは、今使っているものより一段明るく、髪色に近くて欲しくなる。
シリーズで揃えたくなるアイカラーの新色は柔らかい色でこれからの季節にぴったり。
盛れると噂のマスカラも欲しいし、カバー力のあるファンデーションもいい。
いっそ全部買ってやろうかと頭をよぎった。
過去、欲しい欲望だけで買ったが結局ほとんど使わないという失敗してるので、今はまだ、と理性で押さえ込んだ。
後髪を引かれながらいつも使っているエメリーボードとシートマスクをかごに入れてコスメエリアを去った。
シャンプーは買い置きまで常備しているので問題なし。
トイレットペーパーとティッシュボックスも大丈夫。
ウェットティッシュは欲しいから携帯用の小袋を1つ取った。
キッチンコーナーはスルーして。
健康グッズコーナーからサプリメントをいくつか、お菓子コーナーでポテトチップ(のりしお)とチョコレートをガサっとかごに放る。
チルド棚から豆腐と納豆、そういえばと思い出して切らしていたキムチを追加する。
なぜか常にあるキムチ。
みんな共通して好きなのだろう。
レトルト棚からカップスープとカップ麺を入れるとかごがいっぱいになった。
でもまだ買うものがある。
ストレスには酒、アルコールを入れる必要がある。
多少飲んでも酔う事はないけれど、1%も入っていないものを飲んでも興が醒める。
舌の気分は甘いカクテルをだけど、頭が求めているのは度数が高いもの。
日本酒や焼酎ロックでいきたい。
少し悩んで、焼酎のパックとワンカップ酒をかごに投げた。
「ただいま~」
エコバックパンパンに詰まったストレスの塊をよいしょよいしょとリビングへ運ぶ。
ほとんど食品だから自室よりこっちだろう。
平日の昼は誰もいない。
土日休みのジュンくんといっくんは当然として、ショップ店員のゼンくんも今日は出勤。
働いているのかそうでないのかわからないケンくんもいない。
ひとりだ。
テレビを点けても再放送のドラマや中途半端な情報番組やテレビショッピングしかやっていない。
お昼には少し早い。
着替えて外出する気にもなれず、買ったばかりのポテトの袋とワンカップ酒を開ける。
サブスクで映画でも見ようか一瞬悩んだが、そういう気分でもない。
「アタシってホント……」
気分屋で、やりたいことやっている様に見えて、常に周囲の顔色を気にしていた。
強い人間でいたくて割り切ろうとしても、雑音が耳から離れない。
女らしく見せても男である自分を切り捨てられなくて。
本当にやりたいことに迷って呆然と立ち尽くしている。
今の状況と自分の人生が同じだと気づいた。
何もかも中途半端だ。
気持ちが底辺まで下がって行く感覚。
これを持ち直す方法を1つ知っている。
キャップを外したワンカップ酒をぐいっとあおる。
「よし、飲もう」
治療してもらったばかりなのに、明日絶対むくむとわかっていても、酒に逃げたい時もある。
少し小腹が空いたのでポテト+カップ麺も食べる。
好きなものを食べて飲んで、お笑いを見て笑う。
少しでも沈んだ気持ちが上を向く様に。
ピンポーン
昼をいくらか過ぎ、ビール缶片手に芸人の体当たりバラエティを見ていた時だった。
平日の訪問なんて、保険か新聞の営業だろう。
この家の見た目は普通の一軒家。築年数も経っているから初老辺りの夫婦が住んでいそうな佇まいだ。
保険も新聞も間に合ってます。
ピンポーン
二度目のチャイムが鳴ったけれど、出なければいないと一緒。
無視しておけば諦めるでしょう。
ピンポーン
三度目のチャイム。
不在を決め込もうとしているのに許さない決意を感じる。
仕方なく出ることにした。
「どちらさま?」
『高田善行の弟です』
「ゼンくんの弟?」
ばっちりお客様だった。しかも身内。
慌てて玄関まで走る。
ドアを開けるとゼンくんに似たイケメンが立っていた。
これは弟と疑うべくもない。
ダウナー、というかほぼ無表情。
お兄さんもダウナー寄りだけどもっと表情あるよ?
「ごめんなさいね。ゼンくんにご用?」
「まあ。これ、渡してもらえますか?」
紙袋を手渡される。
実家の忘れ物だろうか。
「なるべく早く食べろって言っといてください」
「食べ物なの?」
「そうですね」
答えがすべて簡潔。
面倒くさがりの究極形態なのだろうか。
仕事上ではいい報告形式だけど、コミュニケーションとしては物足りない。
初対面だし、緊張し……
「はぁわっ!?」
「?」
突然の悲鳴にも少し眉が寄っただけでほとんど変わらない。
素でこの顔がディフォルトのようだ。
てか、忘れていた!
ゴリッゴリにすっぴんだ。
初対面の若い男の子に見せれる顔じゃない。
見せていいわけない。
すっぴんで記憶されたくない。
「ありがとね! 気をつけて帰って、ね!」
「はあ。じゃあ」
小さく会釈をして弟君は帰って行った。
平日の昼に、接客業の兄がいないことはわかっているだろうに。
「…………冷蔵庫でいいのかしら」
紙袋を掲げて眺めた。
ずっしりした重みはないので遅れてきたお歳暮のハムではなさそう。
早く食べろってことは腐りやすい物とみた。
少し揺らすとカサカサと音がした。
キッチンに戻って袋に入っていた箱ごと冷蔵庫に入れる。
箱の中身は気になるけれど、ゼンくんのものだし盗み見るのはやめた。
再びリビングのソファに戻り、酒盛りを再開する。
ちょうど始まったのが今1番勢いのある人気コンビの漫才だったけど、あんまり笑えなかった。
「真澄先輩」
昼から夕方まで飲んで、一番初めに帰宅したいっくんが帰ってくる前には自室で寝ていた。
今日も一番最後に帰ってきたゼンくんが開けたドアの音で目が覚めた。
玄関に一番近い部屋だから、ぼんやりとした頭でも、廊下に響く足音で誰が通ったかわかるくらいになった。
だからドアを開けたのがゼンくんなのがわかった。
「……おかえりぃ」
「はい。今日ありがとうございました」
「えっとぉ…………あぁ、弟くんね」
「あいつ、余計なこと言ってました?」
「なにも……そうそう、早く食べろって言ってたかな」
「そっすね」
「見た?」
「見てねーけど、何が入ってるか知ってますから」
「なに?」
「チョコレート」
チョコと聞いて目が据わってしまうのはもはや脊髄反射。
というか、意外だ。
いやいやちょっと待って。
「弟くんからチョコもらったの?」
「母からです。毎年手作り寄越すんですよ」
「お母さんの手作り……」
久しく会ってない家族を思い出す。
大学を卒業と同時に縁を切った。
最後に見た母親の姿は泣き顔だった。
自分を偽りたくなくてカミングアウトしたのに。
父も母も認めてくれなかった。
今更、家に帰ろうとは思わないけれど。
「いい、お母さんね」
「うちの場合、仕事で余ったもん押し付けてくるだけですけど」
「何をされてる方なの?」
「フードコーディネーターです。料理教室やったり、レシピを考案したり、手広くやってます」
「すごいのね」
純粋な自持ちで褒めると、ゼンくんは少しはにかんだ気がした。
家族仲が本当にいいんだろう。
ゼンくんの料理上手は母の教育の賜物だったようだ。
「それでですね」
ゼンくんが手招きでダイニングへ誘う。
「おはようございます?」
「水飲みますか?」
ジュンくんといっくんが並んでテーブルに座っていた。
酒で潰れた心配をしてくれる。
多少の酒では酔わないけれど、気落ちした分疲れが出てしまった。
食べて飲んで笑って、潰れて眠って。
胸にあったもやもやした汚い感情は消えた。
さらに優しい言葉をかけてくれて、浄化した気分だ。
いい子たちにハグで感謝を伝えたいけど、嫌がられるのでやめておく。
ケンくんなら気安くできるのに。
「はい、どうぞ」
着席すると、目の前にケーキが載った皿が置かれた。
チョコレートのケーキ、ガトーショコラだ。
ジュンくんといっくんも同じくガトーショコラを食べていた。
こんな時間にケーキなんて、罪悪感がハンパない。
普段から炭水化物も糖質も控えて節制しているのに。
「俺が言うのもあれですけど、母のケーキ美味いっすよ」
「いただきます」
スイーツの欲望に勝てない。
ホールケーキを6等分に切り分けた1カットを頂く。
フォークを入れると軽いさくっとした感触があった。
一口サイズに切り、口へ運ぶ。
「おいひぃ!」
濃いチョコレートの風味があるのに重くない。
ぼそぼそと口に残ることなく、しっとりとしていて食べやすい。
コーヒーやミルクティーと合わせても、どちらの邪魔もしない絶品スイーツに間違いない。
深夜なのでカフェイン飲料は飲まないけれど。
「美味しいですよね」
「ほど良い甘さでくどくなくて美味い」
無糖派のジュンくんも絶賛するチョコレートケーキ。
ゼンくん母、ただ者ではない。
ことりとマグカップが置かれる。
ほわんと湯気が立っている中身は乳白色のホットミルク。
この濃いチョコレートケーキに合わないわけがない。
しかし、この家には乳製品アレルギー持ちのケンくんがいるため、冷蔵庫に滅多にない品でもある。
「あいつ今日帰ってこないんで、さっさと食って証拠隠滅してください」
「そうなの……って、ゼンくんのケーキ大きくない?」
「晩飯です」
ホール3分の1はあるサイズなんですけど。
美味しいんだろうけれど、晩ご飯にケーキの発想はなかった。
ランチのデザートにドーナツどころか、ドーナツがランチのメインにできるやつだ。
「高田先輩、けっこう甘いもん好きっすよね」
「酒もチューハイとか多いもんな」
「うっせ」
4人でわいわいケーキを食べて、あっという間にホール1つなくなった。
ケンくんには申し訳ないけれど、食べれないのだから仕方ない。
最後の1カットはいっくんと半分にして頂いた。
もっと食べたいけど、頂き物だし、なんと言っても深夜だ。
もう日付が変わる。
こんな時間のケーキは体の変動がすごい。
昼の暴飲暴食も合わされば……考えたくもない。
明日、体重計に乗ったら悲鳴上げるんだろうな。
「美味かったでしょ?」
「うん、それはもう……」
それは同意しかない。
イエスかノーなら力強く「イエス!」と頷く。
美味しいものは脂肪と糖でできている、ってCMでも言っている位、チョコレートケーキは罪深いのだ。
誰が言ったんだ「美味しいは正義」って。
その通りだけど「美味しいものは罪」っていうのも真理。
とにかく罪悪感がすごい。
「これ、来週も来るんで。また処理お願いします」
「はい!?」
「ガトーショコラじゃなくてザッハトルテかもしれないですけど」
「ちょっと待ってちょっと待って」
「母がいっぱい作って配るんです。余りを俺と兄貴に押し付けてくるんすよ」
「お兄さんもいるの!?」
色んな情報が渋滞してる。
この美味しいケーキをまた食べられるのは嬉しいけど、短期間にケーキ連投はいかがなものか。しかもホールで。
イケメン3兄弟の母親、パワフルすぎ。
「高田と弟、似てるもんな」
「似てねぇよ」
ぶつくさ言いながら後片付けをはじめる。
キッチン用品はほとんどゼンくんが買い揃えたもの。
以前、電子レンジで卵を温めようとしたら、ものすごい剣幕で叱られた。
家主はジュンくんだけど、キッチンはゼンくんの領地。
たぶん、みんなそう認識している。
完全に胃袋掴まれちゃってる。
思い出から逃げたくて引っ越してきたけど、今では居心地良くてずっと住んでいたいと思っている。
「もうすぐバレンタインじゃない」
「そっすね」
「特定の人から、チョコ貰うの?」
家主のジュンくんが、結婚を考えていたら、この家から出て行かなくてはいけなくて、みんなバラバラになってしまう。
どんなに住み心地が良くても、ひと時の借り家でしかない。
「会社の人から儀式的ももらうくらいですかね」
「俺もそんな感じです」
今は大丈夫みたいだけれど。
浮かれも哀愁もなにもないとか、逆に寂しいわ。
彼らは考えていないかもしれないけれど、いつかは出て行く時が来る。
家を出たら、きっと自然と会わなくなるのだろう。
偶然集まって、一緒に住んでいるだけなのだから。
いつか来る別れまで、5人の共同生活を楽しみますか。