Act・6
【Act・6】
アキツの手術を始めて時間がだいぶ経った。
外はおそらくすっかり日が落ち、夜を迎えているはずだ。手術室の中は暗い。
本来なら眩しいくらいの明かりが点くはずの手術台の上の大きな照明に、今は別の機器から外したコードで吊り下げられたハンドライトが、揺れながらアキツの身体を照らしていた。
この状況にタイラはあの街での医者として自分を囲んでいた環境が、本当に恵まれていた物であったことを痛感する。
道具を作り出し使うのが人間の特出した性質だ。ただ、それらがなくなっただけで、やはり人間は無力だなどと諦めたりしたくなかった。
自分は医者だ。
暗い部屋での手術も経験済みだ。手元を照らす光は小さく頼りないが、己が何をすべきなのかは、はっきりと見えている。
機械は動かない。アキツの呼吸や心拍数の変化に気をつけなければ。もっと自分の感覚を研ぎ澄ませ。
タイラはアキツの顔の横にいるクナイをチラと見た。
手術を始めてしばらくしてから、人工呼吸器のバッテリーが切れる警告音を発し、再び手動でアキツの呼吸を補助しなければならなくなった。
タイラが手術を続けるために、クナイは自分がそれをすると名乗り出たのだが――。
手術をしている箇所から目を逸らすように、アキツの顔をじっと見ながらポンプを押しているクナイは、だいぶ疲れているように見える。
人工呼吸器のバッテリーが切れてから、クナイは手動の呼吸器のポンプをずっと小さな手で押し続けていた。ズキリと自分の手に走った感覚に、クナイは一瞬、顔を歪める。
手が痛い。
アカガネを殴り赤黒く痣になっている右手が、ポンプを押すたびにズキズキと痛んだ。
こんなことなら、あんな奴を殴らなければ良かった。あの時、憎しみに任せて振り上げたこの手が、アキツの呼吸の代わりになるなんて思ってもいなかった。この手をこんな風に使うなんて。
そうすれば、こんな動作にいちいち痛みなど感じることはなかっただろう。
「クナイ、少し早いです」
タイラの静かな声にハッとする。
「落ち着いて」
必死だった。
ポンプを両手で握るように押して空気を送り出し、手を緩めて再び握り込む。そんなただ単純に繰り返すだけの誰にでもできる動作。
それなのに、クナイの手は今にも止まってしまいそうだった。ポンプを握り込むたび、すでに硬く張りつめている指や腕の筋肉を嫌というほど感じる。
この程度で。こんなことしかできないのに、こんなこともまともにできないなんて。
もしもこの手が機械だったら。もしも自分がロボットだったなら、このぐらいのこと、何も感じずやり続けられるのに。
怖い。
すでに死んでしまっているかの様なアキツの顔が目の前にある。
この手が止まればアキツが死んでしまう。一度死んだら、もう二度と生き返らない。
「クナイ、代わりましょう」
クナイの様子を見かねてタイラが言った。クナイは手を何とか動かし続けながら首を振る。
「……ダメだ。だって、タイラは手術を続けなくっちゃ」
「ですが」
「お前は俺の代わりくらいできるだろうけど、俺にはお前の代わりはできないんだよ! お前が手術やめたら誰がやるんだ!」
するとハルカがクナイに手を差し出した。
「私が代わるわ。片手でもなんとかできるから」
「だから、あんたもタイラを手伝わないと」
「あなたの手が止まってしまってからでは、元も子もないでしょう?」
「でも……」
「貸して」
「……」
クナイが迷いながらも、ポンプを押す手をハルカと交代しようとしたときだった。
突然、部屋の中が明るくなった。
タイラ達は良く分かるようになった互いの顔を目をパチクリさせながら見合わせ、煌々と光を放ち始めた照明を呆気に取られたように見上げた。
「これは……」
「……ココだ……。ココと博士が機械を直したんだよ!!」
人工的なこの光にこれほど感謝したことがあっただろうか。大袈裟かもしれないが、まるで天から救世主が現れたかのように希望が満ちて来る。
「ハルカ、機械が正常に動くか確認を!」
まず人工呼吸器を確認し、クナイが押していたポンプの代わりにアキツの口に取り付けた。シュウシュウと規則正しく確実に、アキツの肺へと安定した酸素が送り込まれる。
微かに上下するアキツの胸を見て、クナイは手にしていたポンプを取り落とした。床に転がった先ほどまでアキツの呼吸代わりだったそれを、しゃがみ込み拾い上げようとする。しかし手は小刻みに震えていてもう力が入らない。
「クナイ」
呼ばれた名前にクナイはしゃがみ込んだまま顔を上げ、手術を続けているタイラを見る。
「良くやった」
そして、手を止めないままにタイラが言ったもう一言。
「後は任せろ」
いつもの他人行儀で人を小馬鹿にしたような敬語を忘れた雑な言葉が、なぜかいつになく頼もしくクナイには聞こえた。
◆◆◆◆◆
「ココ」
崩れた天井に残っていた電灯が、揺れながら灯す明かりを見上げつつ、ヒジリは娘の名前を呼んだ。
眩しい光に露わになった部屋の全容は酷い有様ではあったが、暗闇から開放されたことで気持ちを落ち着かせることが出来た。
動き出した発電機の傍ら、ココは自らが直した機械を前に座っていた。
「お父さん……」
「うん?」
「動いたよ」
「うん」
「直ったよ」
「そうだね」
機械が稼働する音は大きくうるさい。でもその音が今、ココには有難かった。
ヒジリに背を向けながら、ココは機械の稼働音に隠れて鼻をすする。
「これでアキツの手術、できるよね」
「彼も頑張ってる。きっと……大丈夫。よく頑張ったね……ココ」
再びレバーを下ろす時、どこかでやっぱり自分には直せないのではないかという気持ちが拭えず、怖くて怖くてたまらなかった。
機械が大きな音を立て動き出した時、部屋に明かりが灯ったその瞬間、胸が何かでいっぱいになった。
顔を上げ見つめていた明かりがぼやけて滲みだす。目尻に溜まった涙が機械油で汚れた頬に筋を描きながら流れて落ちた。
まだ何も終わっていない。アキツもタイラもクナイも、みんな頑張っている。こんなところで泣いている場合じゃない。
それなのに、なぜか分からないけれど涙が溢れてきて止まらなかった。
◆◆◆◆◆
研究室の外の廊下で、クナイは壁にもたれて座っていた。
電気が点いてからもうだいぶ経ったが、中ではまだ手術が続いている。
タイラが手術を終え出てくるのを扉を見ながら待っていると、こちらへと忙しない足音が近づいてくるのに気付いて振り向いた。
「ココ……」
廊下の向こうに息を切らしながら立つココの姿があった。キョロキョロと辺りを見回していたココは、クナイを見つけて駆けて来た。
「アキツは?」
「まだ手術中」
「……そっか」
それを聞いてココは閉ざされている扉を見ながら、クナイの隣に並び膝を抱えて座り込む。
「博士はどうしたんだよ」
「お父さんは、またちょっと怪我して、今やっと助けてもらったとこ」
「また怪我? 大丈夫なのかよ」
「うん、自分は大丈夫だからアキツの様子を見ておいでって」
機械が直って明るくなった施設内を走り出て、ココは人を探した。外で何とか見つけたのは、明かりの点いた施設に気付いてやって来た二人の兵士で、その二人に頼み込んでヒジリを瓦礫の下から出してもらった。
しかし、やはり人を探し出し再びヒジリの元へ戻り、瓦礫の中から助け出すのには、かなりの時間が掛かった。あの時、助けを呼びに行っていたら機械を直すのは更に後になっていただろう。
「やったじゃん」
「……え?」
クナイの言葉にココが首を傾げると、クナイは顎で天井についている眩しい明かりを差して口の端に笑みを浮かべる。それに笑みを返しながら、ココはクナイの頬を指差した。
「クナイ、そこ」
「ん?」
「“オイル”ついてるよ」
「ああ“オイル”、な」
苦い顔をすると、クナイは示された頬を手の甲で擦る。アキツの手術が始まるときに、手に付いていた血は落としたはずだったのに。
擦った手についた、すっかり乾いてくすんだ色をしているそれを今、怖いとは感じなかった。
その色は自分にとっては死を象徴するものでしかなく、同時に生も意味することなど思いもしなかった。しかしアキツの身体に流れているそれは、彼が生きているという確かな証だった。
「あいつ、怪我するたんびにそればっか言ってさ。どう見てもオイルなんかじゃねぇし。最初は本当にびびったんだぞ。俺、血ダメだし……」
「クナイてば、すぐ怒るんだもん」
「当たり前だろ、何かっていうと『問題ない』ばっかりで! 問題ありまくりだっての」
「ふふ、そうだね」
「お前も顔、ばっちいぞ」
「え、そう?」
「こするなよ、もっと酷くなった」
「後で洗うからいいよ、もう……」
「なあ、大丈夫だよな。あいつなら大丈夫だって……たぶん。そう思うだろ?」
「うん……そう思う」
短いおしゃべりを終えると口を閉じ、少し肌寒い廊下で二人は肩を寄せ合いながらアキツの手術が終わるのを待った。
壁の崩れた施設内には、どこからか外で降る雨の音が響いてくる。まるでバケツを引っくり返したかのように激しくなっている雨音に、なんだか不安を掻き立てられた。
ふとココが隣を見るとクナイはウトウトと目を閉じかけている。疲れたのだろう。
眠っていてもいいよと、ココがクナイに言おうとしたときだ。扉が開かれる音がしてココはそちらを見た。
「タイラ」
その声にクナイも閉じかけていた目蓋を開いて立ち上がった。
研究室から出てきたタイラは扉の前で大きく息を吐くと、自分の正面に寄って来たココとクナイをどこか浮かない表情で見下ろす。
その顔に落ち着かない気持ちになりながらココは聞いた。
「タイラ、手術は?」
「手術は――」
次の言葉を息を吞んで待つ二人に、ふっとタイラはそれまで硬かった表情を崩しニヤリと笑みを見せる。
「成功です。アキツは、もう大丈夫ですよ」
それを聞いたココとクナイはどこか信じられないというようにポカンとし、互いに顔を見合わせた。
「やった……おい聞いたか、ココ。成功だって、大丈夫だってよ!」
「うん……」
「やった! 生きてる! 生きてるぞ!」
「うん!!」
クナイと手を取り笑顔で確かめ合うと、ココは再びタイラを見た。
「タイラ、ありがとう!」
するとタイラはふふんと得意気に顎を上げて腕を組み、いつものように少し人を小馬鹿にしたようなあの口調で言った。
「これでも僕は、優秀なお医者様でしてね?」
「もったいぶった言い方してんじゃねぇよ、クソ医者」
「え、クナイ。それが今、大手術を終えたお医者様に言う言葉? びっくりなんだけど」
一気に不満そうな面持ちになったタイラは、明るい電灯の下、機械油で汚れたココの顔に再び表情を緩めた。
「君も、よく頑張りましたね、ココ」
「あたしは……大したことしてないよ」
少し苦笑いを浮かべながら言うココに、口の端を上げたタイラは腰に手を当て瓦礫だらけの周辺を見回した。
「さて、アキツをもう少しまともな場所に移動させたいんだけど……」
「俺どこかいいとこないか、探してくる!」
「頼みます、クナイ」
「まかせといてー!!」
クナイは弾んだ声で言うと、疲れや眠気など忘れたような軽い足取りで走って行く。
「それじゃあ、こっちも準備しないとですね」
研究室の中へと戻ろうとしたタイラは、ココに服の裾を引っ張られて振り向いた。
「タイラ、アキツに会える?」
「……いいですよ。まだ意識は戻りませんが」
どうぞ、とでも言うように扉を開きその横に立つタイラの前を通り、ココは研究室の中へと入った。
部屋の中心にある手術台、そこにアキツが横たわっている。
その傍らにはハルカが立ちアキツを見ていた。アキツを見下ろすその表情からは、彼女が今何を思っているのかは読み取れない。
そして、ふっとアキツから視線を上げたハルカは、ココの姿に気がつくと片付けた手術道具を台に乗せ運び出す。
「あ……ありがとうございました」
ハルカが台を押しながら自分の横を通り過ぎるとき、ココはそう声を掛けたが、ハルカは何も言わなかった。そんなハルカを見送ると、ココはアキツの元へと足を進める。
まだ手術台の上、掛けられたシーツから出ているアキツの身体は、包帯の巻かれていない部分がないほどだった。
アキツの周りには酸素を送る呼吸器や、心臓の鼓動を測る機器が、それぞれしっかりと各々の役目を果たしている。
「アキツ……」
痛々しい姿をしたアキツの、それでも微かに上下する胸元を見てココはホッとした。
「アキツ、ありがとう」
ここまで一緒に旅をしてくれて、ありがとう。
危ないときにいつも守ってくれて、ありがとう。
ロボットを止めてくれて、ありがとう。
そんなことより何より……
「ありがとう、生きててくれて。本当に、ありがとう」
ROBOT HEART・10
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