第13話 インクのしみ
【フランス コンピエーニュ宮殿〜ヴェルサイユ宮殿】
コンピエーニュの森で国王ルイ15世と王太子ルイ・オーギュストと初対面を果たしたマリー・アントワネットことエツコとその一行は、その夜、コンピエーニュ宮殿での夕食会に臨んでいた。
ルイ15世はこれ以上ないくらいの上機嫌で、王太子もエツコとは距離を置きつつも、なにやら好感のようなものを感じさせていた。
「それにしても忙しいもんだ」
そんなことを呟きながら、やっとのことで解放されて部屋で一人になると、しばらくの間は気が抜けないことを実感した。
最新版の歴史シミュレーションゲームでは、全住民にパラメータが振られていた。
特に歴史上で重要な役割を果たした人物に対しては、多くのパラメータが設定されていた。
エツコはそのほとんどの内容を記憶している。
その記憶をたどろうとした、その時……。
【必要に応じて、全ての情報が閲覧可能です】
(う〜〜ん……)
正体不明の相手に内心で唸る。
またしても、謎の知性の音声がエツコの脳内で響いた。
この正体不明な知性は、違和感なくエツコとコミュニケーションを取ってくる。
なぜならその振る舞いが、最新版シミュレーションゲームのサポートAIチャットボットとそっくりであったからだ。
違いは、脳波通信用のヘッドギアを装着していないことぐらいであった。
「まあ、良いか……」
エツコはボソリと一人呟く。
この状況に納得はしかねるものの、今はそれを考えている時ではない。
エツコはコンソールパネルを立ち上げる。
だが、この対話型AIもどきの情報量の多さと利便性の高さには驚かされた。
それは、シミュレーションゲームの情報量の数百倍とも思えるほどであった。
「これは凄い!」
エツコはその価値の高さを正確に理解できるだけに、しばらくの間、情報の閲覧に夢中となった。
次に、今エツコが抱える最も大きな懸念を質問してみると、明瞭な答えが返ってきた。
(王太子は今後、私とどう接する? その……何、初夜のことだけど)
14歳のエツコには、いささか重い問題だ。
王太子は意外と良い奴そうだったし、それに相当なイケメンであった。
だからといって、この状況で処女を散らす気などサラサラなかった。
【ご懸念の王太子ルイ・オーギュストの今後の行動は確定的です。あなたに対する肉体的な交渉を行う可能性は限りなくゼロに近いと言えます】
(あいつ……あっちの方が趣味の奴なのか?)
【「あっち」が男性という意味であれば違います】
(なるほど。まあ、良いや。歴史の通りだったらヴェルサイユ宮殿に着くのは明後日だよね)
【その通りです。そこで挙式が行われ、例の結婚契約書への署名が行われます】
「例の」と言ったのには理由がある。
史実での署名の番、マリー・アントワネットは緊張や慣れないペン使いからか、自分の名前の横にあやまってペンをすべらせ、大きなインクの染みをつけてしまった。
当時、こうした公文書や結婚証明への署名での失敗は「先行きが思いやられる」「不吉な前兆」であると周囲から噂されたのだ。
その事件は意外にも、マリー・アントワネットがギロチンで処刑される際まで尾を引くこととなる。
彼女が処刑されるべき人物である理由の一つに仕立て上げられたのだ。
来たるべきフランス革命は生贄を必要としていた。
マリー・アントワネットに与えられた汚名のほとんどは根も葉もない誹謗中傷であったという説も、後年では盛んに議論されている。
これは庶民の革命のように見えて、実は裏で糸を引いていたのは反ショワズール派であったのではないだろうか?
そして、既にこの時からその陰謀は始まっていたに違いない。
(例のって、あのインク染み事件だよな?)
そう呟くと大きく伸びをして、口を開けて欠伸をした。
そして人の悪い笑いを浮かべると、豪華なベッドに身を沈めた。
フカフカで気持ちが良かった。
そして、その二日後……。
王立礼拝堂の吹き抜けに満ちるパイプオルガンの重厚な響きと、天上にこだまする聖歌隊の神聖な和声。
天井画の天使たちから降り注ぐ光の中、金糸の刺繍と無数の宝石を散りばめた貴族たちが息をのんで見守り、高貴な香煙が静かに立ち上る。
西洋の威容と信仰の極致が凝縮されたその圧倒的な荘厳さに、ただ呑まれ、エツコは気おされるばかりであった。
儀式が始まり、大司教の前に立つ王太子とマリー。
隣に立つ王太子は、ここでは意外なほど堂々と「誓います」と誓いの言葉を口にしていた。
エツコはその非現実的な風景を呆然と眺めていた。
(本物の王子様……私が結婚? なんでこんな流れに)
多くの貴族たちが見守る中、儀式は粛々と行われ、そしてエツコの番になる。
ランス大司教の言葉が終わると、エツコはゴクリと唾をのみこんだ。
「誓います」
緊張の一瞬だった。
エツコはそれを呟いて小さく息を吐いた。
(わ、私……結婚しちゃったよ)
王太子の横顔を見ると、申し分のないほどのイケメンぶりであった。
最後に指輪の交換と祝福が行われ、挙式は終わった。
だが、これは政略結婚なのだ。
彼がエツコを愛しているわけではなかった。
(アキコなら、この状況をどう考えるだろうか?)
清楚で美しい風貌とは裏腹に大胆で、エツコに言わせれば「鋼のメンタル」を持った年の離れた友人のことを思い浮かべて、思わずクスリと笑った。
「いいねぇ……」
そう言い放って豪快に笑ったかもしれない。
どんな状況でも逆転するのが彼女の流儀だ。
(さて、次のミッションだ)
昨日、結婚式のことよりもインク事件のことを、謎の知性を使って散々シミュレーションし、可能性を探ってみた。
マリー・アントワネットは緊張のあまり誤ってインクを落としてしまった、と記録されていた。
だが……
【反ショワズール派、即ち反オーストリア派による陰謀の可能性は十分にあり得ます】
それが謎知性の出した結論であった。
もしそうなら、何か仕掛けがあるはずだ。
同じペンを使って、ルイ15世と王太子は問題なくサインを済ませている。
エツコには驚くようなスキルがあることに気がついていた。
『思考速度加速』レベル1。
これを発動すると、世界がスローモーションのように見える。
そして、人の微小な動きと顔の表情から、その人間の感情を読み取ることが可能であった。
エツコはゆっくりと動くその風景をじっくりと分析していた。
王室筆頭書記官がペンをインク壺に浸け、丁寧に雫を払って適切な量でルイ15世に手渡した。
王太子に対しても同様に、極めて適切な手際で粗相なくペンは手渡された。
そして……マリー・アントワネットの順番が来た。
王室筆頭書記官の顔に微かに緊張が走るのが分かった。
先ほどと全く同じ手際でインクを浸し、そして取り出す。
【インクの量を分析します。適量を超える数値が検出されました】
(なるほどね)
エツコは内心でそう呟きながら、周囲に気づかれない程度に微かに笑った。
ペンを持った王室筆頭書記官の手が、マリー・アントワネットに向けられる。
微かに顔の筋肉が動いた。
今のエツコにとって、その微妙な変化は彼の感情を雄弁に語る情報となって脳内で変換された。
『軽蔑、侮蔑、反感、そしてその相手を陥れようとする瞬間の愉悦』
一瞬の嘲笑にそれら全てが含まれていた。
自分に対する明確な悪意であった。
(悪意には悪意で報いる)
マリーはなかなかペンをその手に取ろうとしなかった。
王室筆頭書記官の表情が徐々に焦燥と緊張に変わっていくのが見えた。
そして……マリーがくるりとあらぬ方向を向いたではないか。
「サインをいたしましたら、ブルボン王家の一員となるのですね。改めてよろしくお願いいたします」
ゆっくりとした動作でお辞儀をしながら、エツコことマリーは目の端で王室筆頭書記官の表情筋を読んでいた。
平静を装ったその表情の下に、凄まじい怒りと苛立ちが現れ、次に焦燥と不安に変わる。
悠々と王太子へ微笑みかけるエツコ。
そして次の瞬間、ペン先で耐えきれなくなった重いインクの一滴が、無音でポタリと落ちた。
直撃したのは、男自身の胸元を飾る純白の高級レースであった。
(ざまあみろ)
エツコは内心で小さく毒づいた。
「あ……」
静寂な儀式の場で、男の情けない声が漏れた。
その顔が強張り、一瞬で血の気が引く。
白いレースに不吉な濃紺の染みがじわじわと広がっていくのを、男はただ口を半開きのまま見つめることしかできない。
これは明らかにこの男の失態として評価されるに違いなかった。
「インクの適量すら計れない無能」として。
【インクの量が適量となりました】
アナウンスと同時にエツコの手が素早く動き、問答無用でペンを奪い取った。
そして、歴史上最も美麗なサインを完成させ、ニッコリと幸せそうな笑みを浮かべてみせた。
【ミッション・コンプリート。お疲れ様でした】
完璧な署名を終え、エツコはすっと背筋を伸ばすと、呆然と立ち尽くす官僚へとペンを返却した。
そして、彼だけに聞こえるような小声で、可憐に囁く。
「まぁ、お衣装につきましたその黒いシミ、不吉ですこと」
ニンマリと目を三日月型に変えて悪戯っぽく笑ってみせると、官僚の顔からは完全に血の気が引き、膝をガタガタと震わせた。
(ざまあみろ、地味な嫌がらせしてんじゃないよ)
腹の中でべーっと舌を出し、エツコはすました顔でルイ15世へと向き直った。
それを見届けて、ルイ15世が満足そうに頷く。
「これにて我がブルボン王家は新たなる家族を迎えた。実にめでたいことである!」
その宣言に貴族たちも穏やかに微笑み、盛大な拍手が巻き起こった。
その光景を、マリー・アントワネットは誰もが魅了されるであろう極上の微笑みを浮かべて見つめていた。




