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実之助の恩返し

 また月はやせ細っていき、針よりも細くなりつつある。明日は新月…また朔日だ。

 正月から、早くもひと月が経った。実之助は、毎日、「明日こそ惣右介に茜胡を渡そう」と考えていた。あの時以来、茜胡はずっとそのまま手元に置いてある。ただ、どうやったら渡せるのか…をずっと考えていた。惣右介を城に呼ぶのは無理だと、深山に却下された。

 何故無理なのかを、一体惣右介が何をしたのかを説明せよと深山に迫ったが、深山お得意の

「それはまた後程、改めて」

 でかわされてしまい、まだ真相を聞くに至っていない。

 試しに他の家臣に「笹葉惣右介」のことを聞いてみたが、

「そのような御仁のことは存じませぬ。蓮臺藩にはおりませぬが」

 と誰もが口をそろえて言う。

 だが。

 惣右介はれっきとして存在する。この事態はどういうことなのだ。どうして誰も教えてくれぬのか。自分はこの藩の当主なのに、一番、蚊帳の外だ。結局、お焼きの時のようにこのお城の高いところから遠巻きに見ているしかないのか…。

「お焼きの日」というのを、実之助はここに来て初めて知った。雪の積もったあの日、ご城下にちんちんちん、しゃんしゃんと響く音を

「あれは何の音だ?」

 と近侍の金野平三郎(こんのへいさぶろう)に聞いた。

「はい、あれは裸参りの者達のつく鐘や錫杖の音でございます。今日はお焼きの日ですから。ご城下の(はずれ)の八幡様まで、皆、お参りに参ります」

「お焼きの日?それは何だ?」

「はい、正月飾りをお焚き上げする日でございます。江戸でお育ちの御当主様にはめずらしゅう感じられるかもしれませぬ」

「そうであるな。初めて聞いた。私が知らぬだけかもしれぬが。八幡様には、皆が行くのか」

「はい、町人と、お城では徒歩組は裸参りに参加いたします」

「裸…とは、本当に裸なのか?この寒空…雪が積もっている中?」

「はい。下帯と足袋のみで参ります」

「それは…」

 実之助は絶句してしまった。実之助には考えられない事だった。

「皆、新年の息災祈願と新しい年への心意気の表れでございますので…」

 近侍は苦笑しながら言った。

「そなたは参加しないのか」

「はい、私は裸参りをする家格ではございませんので」

「そうか。…だが勇壮なものなのだろうな…。私は江戸では三社祭や山王祭り、神田祭などを見たことがあるが、それは神輿が出て、掛け声も勇ましく、とても勇壮なものだった。これから一層賑やかになるのだろうか」

「ご当主様、蓮臺のお焼きは静謐なものでございまする」

「静謐…とな」

「はい、皆、参詣中は口をきいてはいけませぬ。ただ、それは裸参りの者達は、でございます。お神輿も出張っては参りませぬ。鐘や錫杖を持った裸参り以外の者達はみな、家族やお店者ならお店をあげて、夜を徹してお参りにまいります。八幡様には明々と火が灯り、たくさんの夜店もかけられます。私も幼き頃、それがとても楽しみでございました」

「なんと、そのような祭りであるのか。私も八幡様に行って、ご城下の者達と一緒にお焼きを見てみたいものだ。そうじゃ、深山を呼べ!」

 実之助の要望を聞いた深山はにべもなく、「なりませぬ」と言った。

「なぜだ。当主が自領の祭事に参加して何が悪いのだ?」

「参加が悪いのではなく、まだお匙殿から外出して良いというお言葉を貰っておりませぬ。

 特に雪の夜でございます。お身体を冷やされてしまわれたら、また、倒れてしまわれるかもしれませぬ。今しばらく、ご自重なされませ。それに」

「それに?」

「ご当主様が雪の夜に出かけるとなると、どのように出かけるおつもりでしょうか?」

「え?」

「まさか、ご自身のおみ足で歩かれる…というわけではございませんでしょう?お駕籠かお馬を出されることになりますが…」

「あ…」

 実之助もさすがに会得した。自分のわがままが何を引き起こすか。その上、今日は皆が楽しみにしている祭りの日だ。先ほど、金野も言ったではないか、家族みんなでお参りに行くと…。

「あいわかった」

 実之助は下がるしかなかった。

「さすがご当主様、深山の言葉を汲んで下さり、かたじけのうございます」

 深山はやはり表情を変えずに淡々と言った。こうして、実之助は城の窓から、ぼんやりと明るい雪の中の蓮臺の街を見たのだった。そして、人のざわめきと鐘や錫杖の音は夜半過ぎまで続いていた。


 夜の膳が下げられ、実之助が一服している頃、深山が

「ご当主様、失礼つかまつりまする」

 とやってきた。

「どうした、深山。こんな時間に珍しいではないか」

「取り急ぎ、お知らせを。江戸表の發子様、ご懐妊でございます」

「なんと!それはまことか!」

 実之助は心底びっくりした。發子が懐妊…だと。自分に子が出来るなんて、思ってもみなかった。

 深山が居住まいを正して、

「ご当主様、おめでとうございまする」

 金野を始め近侍の者達も一斉に続いて頭を下げた。

「ありがとう」

 実之助は正直、嬉しいのか嬉しくないのか、わからなかった。

 そんな実之助の困惑をよそに、

「明日はちょうど一日、(ゆかり)三珠堂(みたまどう)、青嵐神社、八幡様と…皆様にお礼に伺い、無事に御世嗣がお誕生あそばしますようご祈祷を依頼してまいりましょう」

 深山は言った。

「深山、それは私も一緒に行けるのか」

「もちろんでございます。ご当主様、自ら行かなくてなんとしましょう」

 実之助は俄然、気が充実してきた。

「おおそうか、私も行けるのだな」

「…ご当主様。八幡様は最後に伺う事に致しましょう。門前に上手い甘酒を飲ませる茶店がございます。ご城下では評判の店です。そこで供のものを休ませてはいかがでございますか」

「ふむ、甘酒か。私も好きじゃ、良いな。そうしよう」

「さようでございますか。それはようございました。甘酒屋の裏を下ってまいりますと、募者町へと参ります。そこにはご当主さまがお尋ねのものがいらっしゃるかもしれませぬ。

 あの辺りはいろいろな者が住まいますので」

(え?)

 と、実之助は思った。深山は何を言っているのだ?

「深山、それはもしや…」

「ご当主様、明日は強行軍になります故、今宵はゆっくりとお休みくださいませ」

 と言って、深山はするすると下がって行ってしまった。

 実之助は狐につままれた気分ではあったが、發子に子が出来たこと、そして、もしかして惣右介に会えるのではないかという期待で興奮して眠れないのではないかと思った。

 そこへ深山が気をまわして棗茶(なつめちゃ)を届けさせた。

「なんでも深山にお見通しだな」

 実之助は棗茶を飲みながら、少しうんざりした。


 その日は朝から、大騒ぎだった。

 前の晩のうちに江戸の發子様のご懐妊の話は各所に広められ、また本日のご祈祷についても手筈が整えられ、実之助には朝から「おめでとうございまする」の連続だった。

 まずは青嵐城から一番近い、先代様が眠る「三珠堂」に参拝する。そこから、清瀬川を渡り、ご城下の中心にある料亭「山百(やまひゃく)」にてお供のもの全員と少し早めの昼餉を取った。その後、青嵐神社に向かった。青嵐神社は初代お館様が建立した神社だ。三珠堂でも青嵐神社でも門前で駕籠を降り、実之助は歩いた。だが八幡神社は今までとは様相が違った。

 門前の鳥居から長く高い階段が続く。駕籠から降りて、その階段を見上げた時に実之助は(頑張って上がらねば)

 とわが身を鼓舞した。並みいる家臣達の前である。これぐらいやってのけなくては、今後の沽券にも係わる。長く高い階段を休みながらも上がり、参道を歩いて八幡様にお参りする。

(確かにこれは皆も大変だろう。休憩を取るのは良い案じゃ)

 実之助は我が身のしんどさに置き換えて、供の者の労を思った。八幡様でのご祈祷を終えて、今度はまた、長い階段を下る。

 階段を上がった時よりも慎重にならざるをえなかったせいか、鳥居に辿り着いた時には、実之助は安堵感でどっと疲れてしまった。こうして無事に八幡様の参拝を終えた一行は、門前の茶屋にて休憩の時間となった。茶屋に向かう時、心なしか供の者の表情も明るく、足取りも軽い気がする。

 八幡様の前の茶屋は栄生(さこう)茶屋と言った。茶屋と言っても家格の高い方をお迎えする客間を持つ、大きな店である。栄生茶屋は、近くにある造り酒屋・天光(てんこう)の甘酒を振る舞うことで有名で、町人も武士も関係なく訪れたため、寂しい辺りとは言え、ご縁日には冬であっても盛況であった。この日も八幡様への参詣客はもちろん、朔日のため、月が替わり山を越えて隣の羽州より来る者の休憩所ともなっているためか、栄生茶屋はお国訛りもいろいろと飛び交う賑やかさだった。

 実之助は深山と近侍の金野ともに、奥の座敷へと通された。栄生茶屋の主人が挨拶に参上し、女将自ら甘酒を供した。

 栄生茶屋の出す天光の甘酒は評判にたがわぬ逸品で、その芳醇な香りと濃厚な味わいは実之助が今まで飲んだ甘酒とは一線を画するものだった。

「このためだけでも、この店で休んだ甲斐があったというものだ。この甘酒をご家中のもの皆が楽しみにするのも当然であろう」と主人と女将に偽りのない気持ちを賞賛の言葉として伝えた。

「有難きことに存じます」

 と主人と女将は畏まって、頭を下げる。

 実之助が馥郁たる甘酒の香りを楽しんでいると、深山が突然、

「時に主人。申し訳ないが、甘酒を届け物としたい。持ち帰り用に大きめの徳利で所望である」

 と言った。

 実之助は突然深山が言い出したことにびっくりしたが、主人はにっこりと心得顔で

「深山様、承知致しました。お帰りにお持ちできるようご準備いたします」

「いや、主人、申し訳ないが今ここに持ってきてほしいのだ」

 栄生茶屋の主人は、やはり、にこやかに

「承知いたしました。それでは、只今お持ち致します」

 と女将とともに下がった。そして、再び、女将が大きな徳利を抱えて帰ってきた。

「女将、労を取らせてすまぬな」

「とんでもないことでございます」

 と言って、また下がって行った。

「さて、金野。これからお前に命をくだす」

 深山が声を低めて言った。

「はは」

 金野は頭を畳につける。

 実之助は何が始まるのかと黙っていた。

「ご当主様にも、これから私が申しますことに、恐れ多いことながら、お従い願います」

「お前の言う事に従えとはなんじゃ?」

 実之助も声を潜めて深山に返す。

「これから、ご当主様と金野は着物を取り換えて頂きまする。その上で、ご当主様にはお出かけいただきます」

「そうであるか」

 実之助は深山の意図がわかったような気がした。着物を取り換えて、自分を惣右介のところに連れて行ってくれるという事に違いない。

 だが、わけのわからぬ金野は戸惑った表情のままだ。

「良いか、急げ」

 深山が小さいながらも毅然とした声で再び命を下す。金野は釈然としないまま、着物を脱ぎ、「ごめん」と言って、実之助の着物を脱がせ、自分の着物を着せ始める。さすが近侍の者だけあって、手際は早い。ただ、自分が実之助の着物を着る段になると、さすがに抵抗があるのか、心なしか躊躇う様子が見えた。

「よし。それでは今からご当主様は金野となられます、よろしいな」

「うむ」

 実之助は興奮してきた。実之助にとっては滅多に無い冒険だ。

「金野、おまえは今からご当主様の身代わりじゃ。以後、一言も喋ってはならぬ」

 黙って、金野は頷いた。心なしか涙目になっているようだった。実之助がすっかり着替えたのを見届けると、深山は障子を開け声をかけた。

「鷹仕、そこにおるか」

「は、ここに控えておりまする」

 鷹数寄者の鷹仕がいつのまにかそこに控えていた。今日は鷹を連れていない。

「すまぬが、この金野という者を募者町のあの家に案内してやってくれ。この甘酒を届けさせる」

 深山は顎で金野の実之助を指し、次に卓の上に置かれた甘酒の徳利を指さした。

「鷹仕、時間の猶予は四半刻じゃ。そして、この者は他にも荷物がある故、徳利はお前が持って行ってやってはくれまいか」

「承知いたしました」

「うむ、すまないが、よろしく頼む。何せ、私が直接行くわけには行かぬ」

「でしょうな」

 鷹仕は何気なく言った。実之助はびっくりして、思わず

「深山、お前はいかないのか」

「金野!無礼であるぞ」

 深山は厳しい声で言った。

「私はご当主様とまだ少し、ここで休んでおる。良いか、四半刻の内に戻ってまいれ。()()()()()()()()()()()()()()のだぞ」

 鷹仕は心得ていたように懐から草履を出すと、縁側の踏み石に並べた。実之助は万が一の時のためにと、金野に持ってこさせていた包みを持ち、草履を履いた。こんなわらじで作った草履を履くのは初めてである。深山手ずから徳利を鷹仕に渡し、

「それではよろしく頼む」

 そう言って、ぴしゃりと障子を閉めた。


 二人は栄生茶屋の裏木戸から外に出た。

 そこはもう募者町である。まだ日陰に雪の残る道を、鷹仕は黙ってサクサクと先に歩き出した。茜胡を持った実之助は何とかバランスを取りながら、ついていく。一体、この鷹仕は今回の深山の策をどこまで知っているのか…。徳利を持って帰って来よ…とはどういうことなのか。深山の考えていることが、やはり今ひとつわからない。

「金野様、あれがあの者の家でございます」

 突然、鷹仕が立ち止まって指さした。それは清瀬川の河原にほど近いところに立っている小屋だった。

「あれが家?」

「さようにございます」

 実之助には到底家には見えなかった。あれは厩にしても小さいではないか…。

「人が住んでいるのか?」

「さようにございます」

 実之助は見てはいけないものを見てしまった気分になった。まさか、本当に惣右介がここにいるというのだろうか。実之助が逡巡しているのには頓着せず、鷹仕は先に歩を進めた。実之助は近寄るのが恐ろしく思えたが、ここまで来てしまったからには

(行かねば!)

 と勇気を振り絞ってついていった。今日は自分を奮い立たせること二度目だ。

 そのあばら家の門口に辿り着いた鷹仕が、

「おーい、御客人であるぞ」と声をかけた。

 し…んとしたままである。

(留守なのではないか)

 と、少しホッとしている自分に実之助は気づく。

 さっきまでは「惣右介に会える」という喜び一心でここまで来た。だが、今、実際に惣右介が住んでいるというあばら家をみて、惣右介の今までの暮らしを思ってしまい、自分が如何に暢気だったかを思い知った。

「おーい、客人だぞ」

 もう一度、鷹仕は声をかけた。実之助は少し鷹仕の陰に隠れ気味に立つ。すると今度は、ガタガタと建付けの悪い音をさせて戸が開いた。戸の中から惣右介が出てきた。

「なんだ、鷹仕か。めずらしいな、お前が家に来るなんて」

「俺じゃない。御客人は別だ」

 惣右介は訝し気な顔をして、近寄ってくる。

「惣右介、私だ」

 実之助は勇気を奮って、鷹仕の陰から出た。

「…」

 惣右介はしばらく穴が開くほど、実之助の顔を凝視し、

「ご、当主…様?」

 と呆れたように言った。

「なんで、こんなところに来た?」

 と言って、すぐ鷹仕を見て

「お前、どうして、ご当主様を連れてきた?」

「俺は知らん。金野という近侍をおまえのところに案内するよう、深山様に言われただけだ」

「そうだ、惣右介、私が深山に無理を言った。そして鷹仕が連れてきてくれたのだ」

 惣右介は仕方ない…という顔をして、

「あばら家ですが、中にどうぞ。お前もだ、鷹仕」

 そう言うと、くるりと振りかえって

「小滝、お客様だ」

 と言った。実之助はどきどきしながら、惣右介の後をついていき、鷹仕はぷらぷらしながら、その実之助の後についてあばら家の中に入って行った。


 惣右介の家は、実之助が見たことも無いほど狭かった。ひどい例えだが、実之助からすれば、お城の雪隠より少し広いくらいか…と感じたほどだ。

 狭い家のかろうじて居間と言えるところの上座に、円座をひいて実之助は座っている。鷹仕は上がり框に座り、小滝が厨でお茶の支度をしていた。厨と居間は続いており、仕切りが無い。惣右介は湯を沸かすため外に水を汲みに行っている。

 そして今、実之助の前には女童が膝がつくほど近くに座って相対している。江戸でも稀なほど美しい娘だ。実之助は感心しながらも、部屋が狭いからと言って、これでは近すぎだ…と思った。その娘は実之助のことを、さっきから目を真ん丸にして凝視しているのだ。

「おまえ、わたしがそんなに珍しいか?」

 思い切って、実之助は聞いてみた。小滝も鷹仕も一向に、この女童のふるまいを諫める様子はない。実之助にはわざとじゃないか…とすら、思えてくる。

「あっちは、おねじゅだ」

 女童は言った。どうやら、まだ口が回っていないようだ。

「わ、わたしは、篁実之助である」

「たかむら みのちゅけ?」

「そうだ」

「ふうん」

 実之助は今までこんな無礼な目にあったことは無い。この子は昔、惣右介が言っていた、惣右介の妹の田鶴なのか?いや、あれから八年は経っているのだから、いくらなんでも幼すぎる。では、この子は何なのだ?もしや、惣右介の娘か?自分にも子が出来たくらいなのだから、惣右介にいたって不思議はない。

「あ、こら、おねず、お客さんに対して失礼だぞ!もっと離れろ!」

 惣右介の声が飛んだ。実之助がそれにホッとしていると、

「ちょうちゅけどん、これ、たかむらみのちゅけだって」

 女童は言った。鷹仕がプッと吹いたのが横目に見える。小滝の肩も震えていた。

「おねず、おまえ失礼にもほどがあるぞ。そんなにくっついて座ったら、お客さんも居心地悪いだろうが」

「ちょうか」

 そう言って、女童は大人しく離れて座った。それでも凝視はしていた。

「申し訳ない、ご当主様。こいつは全く行儀がなってなくて」

「いや、構わぬ。私もちょっとびっくりしただけだ。慣れていないものだから。この女童は惣右介の娘か?」

「あっちはちんるいのこだ」

 おねずがはきはきと答える。惣右介は苦笑いしながら、

「まあ、遠縁の遠縁という感じか…ちょっと、いわくがあって預かっている」

「そうであったか、いわくがあるのか」

 さもありなん、と実之助は思った。いわくが無ければこのような娘を預かるはずがないだろう…。

 お湯が沸いて、小滝がお茶を差し出した。

「粗茶でございますが、よろしければ、ご一服どうぞ」

「うむ、いただこう」

 実之助は、やっと人扱いされた気分になった。

「うまい」

 と実之助は思わず言った。小滝の入れたお茶は、甘くまろやかだった。

「さすがお館様のお膝元、蓮臺で頂く茶は、煎茶であっても違うものだな。これは小滝殿のお手が良いのであろうな」

「もったいのうございます」

 小滝は頭を下げて、厨の方に下がった。

「さて」

 惣右介が座について言った。

「いったい、こんなご城下のはずれのあばら家に、ご当主様が何の御用で?」

 実之助は居住まいを正して、円座を外し、惣右介に頭を下げた。

「御野初のときには助けてもらった。かたじけない、惣右介。礼を言うのが遅くなって申し訳ない」

 惣右介は慌てて、

「頭を上げてくだされ、ご当主様」

 惣右介は実之助の肩を掴んで、身体を起こさせた。

「そんなたいそうなことはしていない」

 実之助が頭を下げにきたことは、惣右介にはあまりに予想外のことだった。

「火事の中から救い出してくれたと聞いている。それは惣右介に命を懸けさせたという事だ。頭を下げたくらいでは追いつかん」

 実之助は真摯に言い募る。

「ご当主様、すでにその礼は深山様を通じて頂いている、ご安心ください」

「それは深山の気持ちだ。私の気持ちは治まらぬ」

 惣右介は思い出した。実之助は身体が弱く、気持ちも優しい男だが、実は、自分で「これはいいことだ」と思ったら、その点については言い出したら聞かないところがあった…そうだった、それだ。今はまさしく、実之助の真骨頂といえよう。

「惣右介、私はぜひお前に受け取ってもらいたいものがある」

 小滝と鷹仕、それにおねずまで甘酒を美味しくいただいている様子が、惣右介の視界の端に見えている。

「甘酒だったら、ほれ、皆があのように喜んで頂いている。こちらこそ、お礼申し上げる。天光の甘酒など、私のようなものには身に余る贅沢な品、有難いことだ。お気遣い頂き、かたじけのうござる」

 惣右介は一気にまくし立てた。自分はこんなに困惑しているのに、小滝も鷹仕もおねずも暢気なものだ。惣右介は少しだけ、恨めしく思った。

「あの甘酒は深山からだ、惣右介」

 苦笑いしながら、実之助が言う。

「私からはこれだ、惣右介」

 そう言って、実之助は大きな布の包みを惣右介の目の前に置いた。

「これは?…」

「開けてみてくれ」

 実之助は満面の笑みで答える。惣右介が喜ぶ、と疑いもなく確信しているようだ。惣右介はその布に見おぼえがあった。

(これはただの布じゃない。さらさ、というヤツだ…)

 その包みを手に取り、その大きさから推し量る…と、嫌な予感しかない。丁寧に布を開いていくと、果たしてそこに現れたのは「茜胡」であった。

「ご当主様、これは受け取れませぬ」

 惣右介はあまりのことに、大きくため息をついてしまった。

「これは篁家ご家宝の茜胡でございます。これは受け取れませぬ」

「大丈夫だ、惣右介。そなたはそれだけの働きをしたのだ…いや、そなたの働きに見合うものと言ったら、今の私には茜胡なのだ。ご家宝というならば、なおさら。そなたに受け取ってもらいたい」

 今度は実之助が一気に言った。帰る時間も迫っている。

 実之助としては、ぜひとも受け取ってもらわなければ困る…と思い詰めていた。

「ご当主様自ら、ご家宝を持ち出してはなりませぬ。これは篁家にあっても、篁家だけのものではございませぬ。ご当主様のお気持ちだけ頂きますので、お持ち帰りください」

「惣右介、だがそれでは…」

「この茜胡が御蔵内に無いことがわかれば、管理していたものが罰せられます。これはご当主様がいくら申し立てを致しましても、奉行も御一門もお許しにはならないでしょう」

 実之助の脳裏に金野やお城の奉行達、一ノ関の叔父、三春の義兄の顔が浮かんだ。

「そうなれば、ご当主様はきっとご自身をお責めになることでございましょう。それではご当主様をお支えなさる周りの者達も、ただただつらいだけかと。それがわかるからには、簡単に頂くわけには参りませぬ」

 実之助は黙ってしまった。己の思いは浅はかだったのか…。実之助のそんな様子を見て、惣右介は言った。

「ご当主様はお優しいお方でござる。それがわかっているからこそ、お気持ちだけで十分でござる。ありがとうございます」

 今度は惣右介が頭を下げる番だった。

「そうすけ、それでは私はいったい…」

 その時、厨で甘酒を飲んでいるとばかり思っていた鷹仕が

「金野殿、そろそろお約束のお時間でござる。お帰りのお支度を」

 実之助は泣く泣く、茜胡を惣右介に賜る…という良い思い付きを諦めて、立ち上がった。

「惣右介、心より礼を言う。そして、惣右介のこの遇され方を私が何とかして見せる。約束する」

 実之助の必死な表情を見た惣右介は軽く微笑み、

「ご当主様、そこまで思ってくださってありがとうございます。私ごときの事でご無理をしてくださいますな。今日来てくださっただけで十分でございます」

 惣右介は心の底から言った。

「また、会おう惣右介」

 上がり框で草鞋を履き、身支度を整えた実之助は

「小滝殿、久しぶりにうまい茶をいただいた。ありがとう」

 と頭を下げた。

「おねず殿、次に会う時まで私を覚えていて下され」

 と、おねずににっこりと笑った。声も無く、おねずは目を見開いたまま、こくんと頷いた。

 そして、実之助は行きと同様に大きな包みを抱え、鷹仕の後について、募者町の緩い坂道を上がって行った。

(ご当主様も大変な事だ)

 惣右介は感心した。実之助の日常は端で見ているよりも、気苦労が多いのかもしれぬ。去っていく二人の後ろ姿を惣右介とおねずは姿が見えなくなるまで見送った。

 ご当主様の姿が見えなくなった時、突然おねずが

「あれは あやかち がついている」

 とボソッと言った。

「うん、聞き捨てならんぞ、おねず。一体誰に妖がついているのだ」

「ひとにあらじゅ、だ」

 そう言って、また手に持っていた甘酒の湯飲みを嬉しそうに舐めていた。


「それでは、わたしはここで」

 と言って、栄生茶屋の裏木戸の前で鷹仕が言った。

「え、お前は中に入らんのか」

 実之助は無事に客間に戻ったら、深山に行って鷹仕に褒美を取らそうと考えていた。

「もうここまでくれば、案内は必要ございませんでしょう。然らば、私は失礼致しまする」

 そう言うとくるりと方向を違え、足早に去って行ってしまった。実之助は「私は褒美を取らすことすら、出来ないのか」と悲しい気持ちになった。

 障子を開けると澄ました顔をした深山がこちらを向いた。

「ご当主様、ギリギリでございましたな」

「すまぬ。だが深山、金野、礼を言うぞ」

 振り返った金野はほっとした顔で

「無事にお帰り下さいまして、ようございました。さあ、お召し替えを」

 と、実之助が脱ぐのも待ちきれないかのように、自らの着物を脱ぎ始めた。

「金野、すまなかったな。さぞかし、気づまりな事であったろう」

「恐れ多い事でございます」

 金野は実之助の着替えを手伝う手を止め、改めて頭と両手を畳についた。

 その間、深山は悠々と茶を飲んでいる。

(惣右介のところの小滝の入れた茶は美味しかったな)

 と、実之助は思い出していた。

(それにあの目も覚めるような美しい女童…奇行を誰も咎めぬのは、病気なのやもしれぬ。あれだけ美しいのに…可哀そうなことだ)

 実之助はしみじみと感じ入った。

 その時、思い出した。

 深山に「徳利を忘れるな」と言われたのに、まんまと徳利を惣右介の家に置いてきてしまった…

「深山、すまぬ。そなたにあれだけ言われたのに、徳利を忘れてきてしまった」

 深山は茶を飲んでいた手を休めて、

「さようでござますか?私はてっきり、そのさらさの包みが徳利かと思うておりました。まあ…それをお持帰りなさったのなら、上出来でございます。徳利は後日、店の者に詫びを言って、改めて取りに行かせましょう」

「そうか…そうであるな」

 実之助は、やはり深山の真意がわからず、キツネにつままれたような気分であった。


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