鬼の謎かけ
「越猪様?」
そらが、深山に声をかける。
「ああ、すまぬ、昔のことを思い出しておった」
「まあ…越猪様でも、感傷に耽ることがおありなので?」
「そう言うな。情けないが、私は感傷だらけの男だ」
深山がそう言って、苦笑いで酒をあおる。
(それが良いところでもございます)
と、そらは心の中で思った。
「越猪様、私はこの『おこう』の生活が存外、気に入っているのでございます」
「だがそれでは…。そなたには許婚もいたではないか」
「まあ、越猪様、いったい、いつの話でございましょう?あれから、何年たっているとお思いですか?」
「いや、だが、そら殿には嫁入りの話がたくさんあると先生から聞いていた…」
「そんなお話もありましたが、もともと私はその気はございませんでした。さあ、このお話はこれでおしまいです。越猪様こそ、少しはお腹にたまるものを召し上がらなければ、いけませぬ。いつ見てもお豆腐ばかり…」
「豆腐が好物なのだ。そら殿こそ、私に合せず、好きなものを取るがよい。鰤の煎炙も奈良茶漬けもあると聞いている」
「私も…豆腐が好きなのです。好きなものを頂いておりまする」
そらが取り付く島もない様子で言い切るので、深山も黙った。
しばらく二人は黙っていたが、遠く浅草寺の鐘が戌の刻を告げる音が聞こえた。
深山は今日の本題を切り出す腹を決めた。
「なあ…そなたは墨染屋の曼珠太夫を知っているか」
「噂だけは。胡琴の名手だと聞きました」
「うむ。胡琴の腕は確かに素晴らしい。先日、今井堂の宴席で披露したのを聞いた」
「さようでございましたか」
少し、そらの声が固くなった。
「それとなく会って、人となりを見てきてもらうことはできるだろうか」
「わかりました」
そらは考えることも無く、請け負った。
墨染屋には以前から、禿に胡琴を教授してほしいと頼まれていた。かの店には曼珠太夫がいたが、太夫は教えるのは性に合わないと言って、専ら自分で演奏するだけを好むということだった。それで墨染屋は、吉原の街で胡琴の師匠として評判になっていた「おこう」に打診してきたというわけだった。
そらは「無刑」となった時、深山の計らいで、今井堂の権多栗毛に乗せられて、即座に京に送り届けられていた。そのため、蓮臺では行方不明とされている。そして、やはり今井堂の口利きで、天下に名高い胡琴の名手・天竺丸の下に弟子入りすることになった。
一応、最後の弟子ということではあったが、「おこう」として弟子入りした時には既に天竺丸は高齢で、寝たり起きたりの生活だった。天竺丸の往年の厳めしさは丸くなり、体調の良い時には好々爺然としていた。おこうの修行は天竺丸が亡くなった去年の夏まで続いた。そして、師匠が亡くなり、途方に暮れていた時に深山が京に迎えに来て、おこうは江戸に出てきたのである。
今井堂に連れられて、美園屋の奥に居候の身となり、妓女たちに読み書きや源氏物語、和歌を教え、請われるがままに胡琴を弾き、その胡琴は少しずつ評判になっていった。その頃はまだ表には出ず、屏風の向こうで弾くだけだった。だが晴れてこの夏、恩赦がでたため、表に顔を出すようになり、おかげで美園屋の太夫たちは元より、お客筋の旦那衆にも御贔屓が出来て、気がつけば「おこう先生」と呼ばれるようになっていた。
とはいえ、あまり表には出たくなかったので、墨染屋の話には返事を延ばし延ばしにしていた。事情を知っている美園屋ならともかく、何かの折に自分のことを話題にされることが嫌だったからである。だが、深山の願いとあれば仕方がない。
「かたじけない、そら殿。戻ってはいかがかと言った傍からのお願い事で、誠に恥ずかしい限りだが、よろしく頼む」
「越猪様のお役に立てるのであれば…今まで、越猪様には助けて頂くばかりでしたので」
「そう言ってくれるのか、そら殿…ありがたい」
「それと、これからも、おこうとお呼びください」
「承知した。この役目を終えるまでは、おこう殿と呼び致す」
「…おこう、でございます。殿はいりません」
「さようか」
一瞬、深山は心もとない子どものような表情をした。だがそれも一瞬で消えた。
「私はまた、しばらく江戸をあける。戻ってきたら連絡する」
「承知いたしました…」
二人が「歩鳥」を出たところで、雨が降ってきた。
「や、店で傘を借りよう」
深山が言うと、おこうは
「私はございますので、大丈夫でございます」
「なんだ、用心が良いな」
「はい」
「そうか、では私は借りて参る」
深山が店で傘を借りて戻ると、おこうは雨の中、男物の傘をさして立っていた。
「おこう、その傘はボロボロではないか」
深山はおこうの傘をまじまじと見た。年代物で所々に継ぎがあたり、くたびれている。
「新しいものを購めたらどうだ?あ、いや、私が新しい女ものを届けさせよう」
少し酔いが回ってきたのか、深山が表情を崩して言った。
「いいえ、良いのです。私はこの傘が良いのです」
それだけ言うと、おこうはお辞儀をして歩いて行った。これは昔、おこうが少女時代に深山に貰った傘だった。更紗の包みを抱いて、大きな男物の傘によりかかるように歩いていく。雨の夜の中、小さくなっていくおこうの姿を見送りながら、深山は何か肝心なことを言い忘れたような気がしてならなかった。
十一月に実之助が初めて曼珠太夫と出会ってから、今は年を越して一月も半ばである。
この三か月近い間に、実之助は曼珠太夫の許に数度、通っていた。その回数は両の手の指に及ぶかと思われるくらいである。通うと言っても、相変わらず曼珠太夫の胡琴を聞きに行くだけであり、泊まるようなことは無い。吉原大門の大木戸が閉まる頃には、実之助は店を出てしまう。お付きの鳥山達には甚だ不評であったが、それでもお殿様のお供で遊べるので、みな吉原の大通りを肩で風を切って歩いていた。
お付きの者を従えて、吉原江戸町二丁目にある墨染屋に向かう実之助たちの姿はあっという間に吉原雀たちの噂の的になり、実之助自身よりも、いつの間にか、鳥山始めお付きの者達がすっかり調子づいていた。羽振りのいい篁の殿様にあやかろうとちやほやする者達も多く、実之助の周りにはいつも人で一杯だった。
実之助自身は曼珠太夫に完全に心を奪われてしまっていた。
その為に周囲の状況が見えなくなっていた。藩主としての役割も務めとしては果たしているが、それ以外の時間には次に曼珠太夫といつ会えるか…とそればかり考えていた。この頃は發子や千寿の所にも足を運ばなくなりつつある。そして、いつもならそんな実之助を諫める役目の深山は、今、江戸にいなかった。
その代わり、実之助にはいつも鳥山が付き添っており、鳥山が事あるごとに実之助を唆し、曼珠太夫のもとへと足を運ばせていた。心あるものが鳥山に注意したが、鳥山は何故か一ノ関様の御覚えが良く、かえって注意したものが諫められてしまう始末であった。一ノ関様は「大藩の藩主たるもの、器の大きさを誇ってこそじゃ。若いうちは無茶もよろしかろうて」と、実之助を諫めるどころか、実之助たちの行状を認める始末だった。
御近習頭の金野が何を言っても実之助は聞かず、何とか「茜胡」を藩邸から持ち出すことだけは、金野がわが命を懸けて阻止していたが、それもいつまで頑張れるか…というところに来ていた。
江戸の藩邸からはこの実之助の行状に対し手を拱いた者達から、深山の許に矢継ぎ早に急ぎの書状が何度も送られていたが、深山もなかなか動けず、この事態に苦慮していた。
その頃、深山は京にいた。玲萩院の許にいたのである。玲萩院は江戸でも、蓮臺でもなく、京の都に萩月庵という庵を結び、今は憂き世と離れて暮らしている…はずなのだが、今回、深山は玲萩院から急遽、上洛せよと命が下り、十一月からずっと帰れないままであった。
「深山よ、そなたは私の目となり、耳となって働くと約束したであろう?」
玲萩院にそう詰められると深山は返す言葉が無かった。
「我が良いというまでは、江戸に帰ってはならぬ」
そして、良いと言われぬまま、年を越してしまった。京で何をしているかと言えば、専ら玲萩院の祐筆のような仕事であった。江戸から矢継ぎ早に来る訴状を読むにつけ、深山は内心、焦りが募るばかりである。
「私でなくても、もっと優秀なものが」
と何度も深山は申し上げたのだが、
「そなた以外では務まらぬ」
と玲萩院は首を縦に振らなかった。
意を決し、深山は実之助の行状を玲萩院に告げた。あれだけ手塩にかけて育て、守ってきたご子息である。なさぬ仲とは言え、ご生母と同等、いやそれ以上のお気持ちはあるだろう、心配をかけてはいけないと黙ってきたが、もう、限界である。深山は謹んで玲萩院に報告した。だが、深山の報告を聞いた玲萩院は
「そうか」
と言っただけで、あとは何も無かった。深山は我が耳を疑った。
「そうか…とは、いかに。玲萩院様、ご当主様への御諫めの言葉を賜れませんのか…」
「うむ…命なれば、のう」
(一体、何を言っているのだ?)
深山は玲萩院の心が全くわからなかった。
そして、深山の許に江戸上屋敷・勘定方の村上基より決定的ともいえる書状が届いた。
「ご当主様、これ十一月より悪所に御通遊ばすこと、片手に余ること八回。その内実、太夫の呼び出し一両、禿、新造諸々等座敷同席、料理代及び酒代、我が藩五人分、墨染屋側十人分、その他ご祝儀、台の物一台につき一分、刺身一両、芸者、幇間、玉代、茶店亭主、女将、仲居等祝儀代にて、合計二十両。これ初回のかかりにて、翌二回目は三十五両、翌々三回目は五十両となりし、以降五十両と相成り候。総じて三百五十五両、この三月のうちに相かかり候。ソハ石高に換すれば約百七十八石に相成り候。いかに我が藩の石高高しと言えど、ご当主様の行状とともに由々しき事也。御筆頭殿、玲萩院様の御勤めと承知候えども、至急、お戻り頂きたくお願い奉りまする」
「これは…」
深山は絶句してしまった。一体、藩士何人分、いや領民何人分の扶持分であろうか…ここまで、実之助が愚かだとは思っていなかった。事態は悪い方へと向かっている。
そして、村上の書状には続きがあった。
「また国許より笹葉惣右介が乳母殿、この年の始め逝去の知らせあり、ご当主様、これを聞きて、御見舞金十両を御送られしが、笹葉、過分なりとて九両三分御返しの事あり。また、同時に笹葉よりお狩場検分役御役目辞退、及び藩より頂戴せし禄を御返し致したくとの申出の儀あれど、ご当主様、御認めにならず」
「これだ!」
深山は、即座に実之助宛に一筆したためた。
次の日の朝、深山は玲萩院のお供で、二条城へと登城した。戦国の終わりに作られた城であったが、その役目は既に終え、二十年近く前に三代将軍が上洛された時に登城されたのを最後に、今は二条城城代が管理しているのみで、使われてはいない。
「捨ておかれた城じゃ…人がすまぬと城は寂れる。ひとの心も同じじゃ」
玲萩院は誰に言うとでもなく、言った。
「深山よ、庭を歩きましょうぞ。遠州流の…いにしへの庭じゃ」
玲萩院は深山を伴って、二条城の庭に降りる。
「我は幼き時、ここで育った。この庭で遊んでいた頃は、全ては我のものであった。ここが我の世界だった。あれから幾年月が流れて、我もすっかり老いてしまった」
突然、何を言い出したのかと深山は思った。
「玲萩院様、何を仰います。そのようなお年寄りの様な事を」
「うむ…我は既に年老いたのじゃ、深山。ここまで命に抗わんと努めてきたが、やはり無理だったのかもしれないのう。此度の実之助殿のことを聞いて、なおさら思った」
「ご当主様の?」
「さようじゃ。あの子は我が腹を痛めて産んだ子ではないが、大事に育ててきた子じゃ。可愛くないはずがなかろう…ひとはどう思ったかわからぬが」
そう言って、珍しく玲萩院は笑った。その表情は普通の老婦人のそれだった。
深山はその時、初めて
(ああ、本当に玲萩院様もお年を召されたのだ)
と思った。
「篁の二代目様とのご婚儀が決まった時、我はここにおった。そして、大藩だとは言え、そんな草莽の地に嫁ぐなんて嫌じゃと御爺様に…大御所様に申し上げたのじゃ。大御所様は大笑いしながら、篁家の治める蓮臺は澂子が思っているような草莽の地ではござらん、天下の大藩じゃ。そして、澂子は幕府と蓮臺の懸け橋になるのだ、かすがいになるのだ、と仰られたのだ。澂子よ、これは女子にしかできない大仕事よ。そなたの伯父や兄上達は活躍しているように見えるが、本当に世を動かしているのは、澂子、お前たちのような女子じゃ。よいか、お前は篁家に嫁ぎ、深く篁家に根を張り、種を蒔くのだ。そして、幕府のための蓮臺藩・篁家を作っていくのじゃぞ、それが天下泰平への礎になる…とな」
(え?幕府のための?)
深山は玲萩院の言葉に引っかかった。
「だが、我の子らは皆、早世してしまった。ほんに田舎娘から生まれた子らは雑草のようにたくましい。これでは、我が大御所様から託されたことが叶わなくなる。それで我は一計を案じた」
今日の玲萩院は饒舌だった。
「御一計を、で、ございますか?」
「ああ。京育ちの姫様を二代様の側室にお迎えし、そのお子を我が子として育てることとしたのじゃ。舜子殿が御輿入れされたのは、幕府の肝煎でもある」
「ご当主様のご生母様…ということでございますな」
「さようじゃ」
玲萩院は深山を見ずに返事をした。
「あとはいろいろと…こういえば、どのあたりが実之助殿を執拗に毒殺せんとしたかは想像がつくであろう。あの子は…実之助殿は、星読みでは…贖捨の葉によれば、今年、二十歳の年にご当主様ではなくなる…」
「なんですと!」
「ああ。深山、そなたは自分の贖捨の葉を読んだことがあるか?我は実之助殿のものも、發子のものも…そして我のもの、二代様のものどもも読んだ、そして、その命に抗わんと戦ってきたが、やはり無駄なようじゃった」
「無駄とは?何が無駄だったと仰られているのですか?」
深山は混乱した。
「だがの、深山。先日、我は千寿殿のものを読んだ」
深山は(あ!)と思った。
「千寿殿は…我の思うような君主に…大御所様の望んだような君主になるようであるぞ」深山は訝しく思う。それであれば、荒獅子はどうして星宮の宮司を亡き者にしようとしたのだろうか…鷹仕からの報告はそう受けていた。
だからこそ、鷹仕は荒獅子を止めたはずだった。
「だからのう、もう、実之助殿の役目は終わったのじゃ」
衝撃的な言葉だった。
「役目は終わった、とは?」
「言葉通りだ。あとは發子と千寿殿の仕事じゃ。ふたりはうまくやる。そして、おまえの大事な笹葉惣右介が大掃除してくれようぞ」
「何を仰られているのです?玲萩院様!全くわかりませぬ!」
「わからなくてもよい、そこまではお前の役目ではない…」
玲萩院はしばらく黙って庭を眺めた後、徐に深山に声をかけた。
「のう、深山」
「はい」
「そなた、御伽草の中の源頼光の話を存じおるか?鬼退治の話じゃ」
「腕一本の話でしょうか?」
「いや、それではなく…鬼が謎かけをする話じゃ」
「謎かけ?でございますか?」
一体、玲萩院は突然、何を言い出したのか。
「さようじゃ。『世の女子皆が真に望むものは何か』を解いてみよ、と、人食い鬼が源頼光に問うのじゃ。そなたなら、なんと答えるか?」
「世の女子皆が真に望むものは何かとは…独り身で調法者の私には、とても即答はできませぬ」
「さようか。我も答えはわからぬ。知恵者のそなたなら、わかるかと思ったに」
「申し訳ございませぬ、しばしお時間を頂きたく…」
深山は汗を拭いながら、正直に答えた。
「ほほほ、深山…そなたは表向きとは裏腹に実に律儀者よな。その姿を知っているものは余りおらぬがな…まあよい。答えを見つけたら教えておくれ。楽しみにしておるぞ」
微笑んだ表情は、いつもの玲萩院に戻っていた。そして、
「深山、江戸に戻ってよいぞ。そろそろ良き頃じゃ」
「江戸に戻るのを、お許しくださいますので?」
「ああ、許す」
(もう…全ては動き出してしまったからな)
玲萩院が心の中で言った言葉を、深山は知る由も無かった。
深山は玲萩院が心変わりしないうちに…とその日のうちに、江戸に向かって旅立った。
暦は二月一日。実之助は今宵も曼珠太夫との時間を満喫して、日本堤の花不見橋のあたりを夢見心地で歩いている。お供はいつもの佐藤、小林、都築、そして鳥山だった。
〽葉不見 花不見 常には見えねど
せめて踏みたや 主の影
吉原に通っているうちに覚えた歌を、実之助は気分良く口ずさむ。
「しかし、御筆頭が戻ってこられるとのこと、しばらくはここにも来れませんなあ」
鳥山が言った。鳥山の言葉で、実之助は現実に戻された。
「そうじゃのう…深山が許しはしないよの」
実之助はぼんやりした頭で考える。
(しばらく曼珠太夫と会えないのか)
途端に、胸に冷や水を浴びせられたような気分になる。かなしい。
「どうしたらよいかのう」
花不見橋の欄干によりかかり、川面を見ながら実之助は呟いた。
「ご当主様、いっそ、曼珠太夫を身請けでもされますか」
少し赤くなった佐藤が言う。すかさず、鳥山が
「何を言う、佐藤殿!それはいかん!」
「佐藤、身請けとはなんじゃ?」
実之助は聞いたことが無い言葉だったので、素直に佐藤に聞いた。
「身請けとは、曼珠太夫の借金を支払い、墨染屋から引き取ることでございます」
「いかん、いかん。それはいかーん!」
鳥山は酔っているのか、しきりに反対する。
「墨染屋から引き取る?」
実之助にはピンとこない。
「さようでございます。墨染屋から引き取って、ご当主様のご側室にされたら、よろしいかと…先代様も、初代お館様も皆様、ご側室をお持ちでございました…御恐れながら、ご当主様のご生母様もご側室で有らせられます」
「側室!」
実之助はびっくりした。自分が側室を持つことなんて、考えたことも無かったからだ。
「そんなことはいかん!發子様がお許しになるはずがない!」
鳥山が、この男にしては珍しく真っ当なことを言った。
「そうだな、發子は許すまい」
実之助はそう言ったが、
(では發子が許してくれたら、それは叶うのだろうか…)
とも思った。そこに、今まで黙って聞いていた小林が、
「憚りながら…先日、勘定方の村上殿が『この調子で一年続いたら、太夫一人ぐらい簡単に身請けできるわ…』と仰っておりましたぞ」
「なんと、そうなのか…」
実之助はその話を聞いて、俄然、気持ちが明るくなった。
「いけません、ご当主様!そんな簡単なことではありませぬぞ!それに、通人たるもの、遊ぶことはあっても、商売女に本気になってはいけませぬ!末代までの恥になりますぞ」
鳥山は大反対のようだった。
「鳥山、そんなにいけないことなのか?」
実之助の表情はまさに悲し気だった。佐藤が笑いながら
「鳥山殿はご当主様と一緒に吉原で遊べなくなるのが嫌なのですよ、なあ、鳥山殿?」
「なんだと、佐藤殿!失礼な!俺がそんなさもしい根性をしているとお思いか!」
これにはずっと黙っていた都築がプッと噴出した。続いて、佐藤も小林も笑い出した。つられて実之助も笑い出し、当の鳥山まで笑い出した時だった。
「やあやあやあ!そこにいるのは、篁実之助か!」
橋の袂にバラバラバラと、何やら覆面をした侍風の男たちが十人ほど現れた。
「いかにも、私は篁実之助である!」
実之助は少し酔いも手伝って、堂々と答えてしまう。
「いけません、ご当主様!」
佐藤、小林、都築が実之助を庇って、前に立つ。都築が切っ先を輩に突きつけつつ、
「お前たちは何者じゃ!」
「名乗る程の者にはあらず、いざ、お命頂戴せん!」
と言って、先頭に立っていた男が刀を抜いて切り付けてきた。他の男たちもそれに続く。
佐藤、小林、都築が応戦するが、今宵は三人とも少し飲みすぎた様で、何とか交わしつつも、本来の腕前から言えば本領発揮には程遠い。
鳥山は実之助の手を取って、橋の反対側に逃げようとする。
「逃がすな!追え!」
無頼の輩の頭らしき男が叫ぶ。ばらばらと男たちは実之助と鳥山を追いかける。
「これはいけません、ご当主様!いざとなったら、川の中に飛び込んで、逃げましょう」
鳥山が息を切らしながら言う。実之助にはこの突然の事態が全く呑み込めていなかった。
その時。
がんがんがん!と足音も荒く、実之助たちの前方、橋の反対側から大きな影が現れた。
「あいや、待たれい!」
その大きな影も覆面をしており、実之助を庇うと無頼の輩に向き直り、仁王立ちした。
「不逞の輩め!荒獅子が来たからには、ものども全て成敗してくれる!」
「おお!荒獅子!そなたか!これで助かった!」
実之助は心の底からホッとした。荒獅子ほどの剛の者が来てくれれば安心だ。
「何、荒獅子!これでは命がいくつあっても足りん!退却じゃ!」
無頼の輩は相手が荒獅子だとわかると、脱兎のごとく退却していった。佐藤達が追おうとしたが、実之助が(よい、捨て置け)とそれを止めた。
「ご当主様、お怪我はございませぬか?」
荒獅子は実之助の前にしゃがみ込み、頭を下げた。
「大丈夫じゃ、荒獅子、そなたのおかげで助かった。礼を言うぞ」
「勿体のうございます。全ては御方様の御申しつけでございます」
「發子の?」
実之助は思ってもみなかった。荒獅子はなおもそこに畏まり、
「さようでございます、御方様より、いつ何時でも、ご当主様を陰ながらお守りするよう、申しつけられておりまする」
「そうであったか…發子が」
実之助は複雑な気持ちになった。
發子の許に己の足は遠のいていたのに、發子は自分のことをずっと案じてくれていたのか…心から發子に申し訳なく思った。
「發子に礼を言わねばならぬ…」
実之助の酔いはすっかり醒め、この時ばかりは実之助の脳裏から、曼珠太夫の面影は消えていた。




