浩然三年三月
この数日後。深山はひとりで酒を飲んでいた。
柳橋の舟宿「歩鳥」である。深山はここの座敷を、今井堂や美園屋宗衛門と酒を酌み交わしたり、碁に興じたりするのに使っている。今は座敷に一人、酒の肴なのか目の前の膳に小鉢の湯豆腐だけが載っていた。
障子の外では(おつ~き~)と猪牙舟がついた声がする。ぞろぞろと舟から降りてくる足音が板場に響き、人々の話声や嬌声が響いた。
「お待たせいたしました」
声とともに襖が開き、長い包みを抱えた女が入ってきた。
「申し訳ございませぬ。お座敷が少し長引いてしまいました」
花街の女にしては、しなの無い固い身のこなしだった。
「いや、私も今参ったばかりだ…そなたは、腹が空いておるのではないか、好きなものを頼むと良い」
そう言われると女は深山の膳をちらと覗き込み、
「越猪様、私も湯豆腐を戴きます」
深山を越猪と呼ぶ女は、襖を少し開け、廊下に向かい
「女子衆さん、こちらの座敷に湯豆腐をもう一つ、お願いします」
と丁寧に言った。凛とした声は廊下に響き渡る。この時間は舟宿もかき入れ時で、人の出入りも激しい。そんな中でも、通る声だった。
その声に気付いた他の客が、
「おい、今のは胡琴のおこう先生じゃないのかい?」
「おこう先生、一緒にこちらで飲みましょうや」
と、廊下の外のあちこちから声がかかってくる。
「おこう先生、かなりの人気ではないか」
「何をおっしゃいます」
おこうはそう言うと、再び廊下にむかって
「旦那様方、申し訳ございません。お声掛けくださいまして誠に有難いのですが、本日は野暮用でございます。また次の機会に御贔屓を」
そう言って、襖を閉めた。
「なかなか、堂に入っているな、おこう先生」
「お揶揄いは、ほどほどに。ここは丁度、猪牙船や屋形船の乗り場でございますゆえ、ご贔屓筋が多くいらっしゃったのか、と…この辺りの水にも、すっかり慣れました」
「そうか」
深山はそれだけ言って、それ以上は言わない。
部屋にもう一つの膳が運ばれてきた。湯豆腐とお猪口が載っていた。
おこうはお猪口を取り上げて、深山に差し出す。
「おひとつ、私にもくださいませ」
「いかん。空きっ腹に飲んだら、悪酔いする。まずは食え」
深山が冷静に諭す。
「まあ、そんな。相変わらずでございますね。私もいい年になりました。大丈夫でございますよ、これくらい」
おこうはあきれた顔をして、再び、深山にお猪口を差し出した。
「では、一口だ。一口飲んだら、湯豆腐を食うのだぞ」
深山はおこうのお猪口に酒を注ぐ。
「越猪様、一年ぶりのお江戸にお帰りなさいませ」
「ああ、戻ってまいった」
そして、深山が見守る中、おこうは一口で飲み干してしまった。
「そなた…」
深山が唖然とする。
「仰る通り、一口でございます」
おこうは少し笑って
「これくらいでしたら、嗜むようになりました。何せ、お陰様でご贔屓様が多いものですから」
「まったく…花は花園に隠せと言った今甚の言葉を、真に受けた私が愚かだった」
「越猪さまは、〝まったく〟心配性でございますね」
「それは、そなたが特別だからだ」
「特別、でございますか?」
「そうだ。そなたに何かあったら、先生に顔向けができん」
「それだけでございますか」
おこうは顔を上げず、湯豆腐をつつきながら言う。
「もちろんだ」
「…ご心配事ばかりが多くていらっしゃる」
湯豆腐が熱かったのか、おこうは口の中をほろほろさせている。
「そう申すな。すまじきものは宮仕えを地でいっておるからな」
「お辞めになってしまえば、よろしいのに」
おこうはなおも湯豆腐をつついている。深山は軽く笑って、
「やっと、苦労して筆頭奉行まで来たのだ。そう簡単には辞められぬ」
「すっかり、つまらないお人になってしまわれた」
おこうは言った。
「言ってくれるな」
苦笑いして、深山はまた一口、酒を飲んだ。
「越猪様の明朗闊達さ、まっすぐさを、父は好ましく思っておりましたのに…今はまるで別人のよう」
「うむ…」
深山はため息をついて、湯豆腐を口に運んだ。
(尊敬する師と真の友を一度に失ってしまったからな。あの時、昔の私は死んだのだ)
二人は黙って、それぞれの湯豆腐をつついている。
「越猪様、今日こちらにお越しになられたのは、何か鳥越では話せない特別な御用がおありなのでは?」
おこうが先手を打って言った。鳥越はおこうの住まいである。鳥越の長屋は下町特有の薄い壁一枚だった。
「ああ、そうだな。夏に早飛脚にて知らせを出しておったが…」
「…恩赦のことでございますか」
「そうだ。もう、そなたは埜口そらなのだ。そろそろ、埜口そらに戻られたらいかがか。今井堂も心配していた」
「越猪様も、で、ございますか?」
おこうが…そらが突然切り替えしてきたので、深山は詰まった。
「も、もちろんではないか」
「恩赦ということは、お国許に戻らなければなりませぬか」
「そうだ。お国許に戻って手続きを済ませば、埜口家を再興出来るのだぞ」
「…越猪様、それに何の意味がありましょう?埜口家…と言っても、父はただの学者でございます。すでに親類縁者もありませぬ。私がお国許に戻ったところで、誰も、何も待ってはいないのです」
「…そうだな。すまぬ。私が家も燃やしてしまった…」
深山は返す言葉が無い。そらの家・五溺塾を燃やしてしまったのは、深山だからだ。
「それは…あのとき、私を守るためにしてくださったことでございます」
そらに、このように言われると、深山は弱い。
あの時、深山は追い詰められて、無我夢中であった。
ただただ、そらを、惣右介を守りたいが為、良いか悪いか、その先に何が待っているかを考える余裕もなく、誰かの手に落ちる前に我が手中に二人を収め、たとえ二人が罪人とひと時遇されようとも、命だけは救わねばならぬと考えた。生きてさえいれば、明日はあるのだ。それ故、己が人から謗られようとも、それは深山にとって問題ではなかった。
惣右介はお家騒動の元であり、そらは五溺塾の埜口無極の娘というだけでなく、そらの亡きは母は密祐筆の家の娘であった。密祐筆とは、星宮の御宣託の記録を残す職務である。これは代々世襲で務めており、ご家中だけでなく、外には出せない秘密も記録をしていく。そんなことから、ある一派にとって消してしまいたい存在だったのだ。
後年、浩然事件と呼ばれたあの件…渦中にいたようで、実はその外側に追いやられていた深山にとって、「それ」はまさしく青天の霹靂と言える出来事だった。
浩然三年三月、その時、深山は江戸詰めだった。
まだ宿老になったばかり、末席の若輩者である。序列は家臣の中では十二番目。それでも破竹の勢いの出世であり、陰では古参の者達に「新参者の癖に」「ご機嫌取り」と誹られ、「ご当主様の犬」と嘲笑われていた。
笹葉左馬之助の推挙により先代様に登用された深山は、不遇な時代の負を補うかのようにお勤めに励み、トントン拍子に「出世」という人生すごろくの駒を進めてきた。周りに何と言われようと、そんなものはどうでも良かった。出世の為と言うよりも、仕事が面白かった。認めて貰えることが無上の喜びだったのだ。
それまでの深山は、家柄は良いものの篁家が蓮臺藩を開いた時からの家臣の為、ご家中では新参だった。
「初代お館様」と呼ばれた藤次郎は篁家の十七代目、そのお館様が大御所様から命じられて、奥州蓮臺の地に城下を開いた。この蓮臺からの家臣は戦の世を共に戦っていない新参者呼ばわりだったのである。それゆえ不遇を託っていたのだが、深山越猪は五溺塾で笹葉左馬之助と出会った。深山を真の意味で認めてくれたのが篁ご家中でも名を馳せる笹葉家の左馬之助だった。笹葉の家は初代お館様の幼き頃からの近習であり、生死を共にした中であり、かつ縁戚でもあった。そういうわけで笹葉家は篁家の中でも重鎮として扱われ、発言にも重きを置かれていた。また笹葉左馬之助という人物の人柄が、その頃の蓮臺藩では慕われていた。深山はその笹葉左馬之助の推薦である。笹葉が言うならば…と先代様こと二代・総次郎様は深山を登用したのだった。そして深山も左馬之助の気持ちに応えるためにお勤めに励んだのである。
その日は、江戸の桜の花がもうすぐ散る頃だったかと思う。
最後の花見に行くと言って、先代様と奥方様の澂子様、江戸詰奉行の先輩の方々が、朝から愛宕山に出払っていた。主だったもの達は皆、出かけた。このような時の留守番が、その頃の深山の仕事のひとつでもあった。花見の準備は全て手配し、自らは皆様方の不在を守る。一事が万事、そんなものであり、それを深山は一つずつ丁寧に対応していた。
皆を送り出してホッと一息…というところで、お国元より早飛脚が飛び込んできた。
御國詰奉行からのもので、その内容は笹葉左馬之助と埜口無極が中心となって謀反・お家乗っ取りの計画を企て、発覚、首謀者二人は捕らえられ、地下牢に投獄されたこと。その他この計画に与する者は捕縛する際に抵抗した為、多くは切り捨てられたこと。ご当主様(先代様)のご沙汰があるまで、詮議を留め置いていること、が報告されていた。
深山には寝耳に水のことばかりで、愕然とした。
笹葉左馬之助が謀反を企てるなど、到底、考えられない。
もちろん、それに埜口先生が絡んでいることも、だ。
なぜ、こんなことが起こったのだ…深山は頭の中が混乱する。
とは言っても、のんびりとはしていられない。
すぐさま、動かなければ。
早飛脚の内容を一人胸にしまい、深山は急いで先代様の元に駈けつけた。皆様方は桜の花びらがはらはらと舞い落ちる中、少し早めの昼食を召し上がっている最中だった。
先代様を見つけると、つかつかと深山は歩み寄った。
「お楽しみ中のところ、ご無礼仕りまする」
「深山、無礼ではないか、何事か」
上席の方々が深山を見咎めて、口々に言う。先代様だけが冷静に
「どうした、深山。緊急のことか」
「さようでございます、これをご覧ください」
深山は胸元から、御國詰奉行からの書状を取り出し先代様に捧げた。
深山から書状を受け取った先代様は読み進めるうちに、みるみる顔色を変え、
「深山、まずは御屋敷に戻る。皆もついて参れ…奥は、そのまま老女たちと花見に興じるがよい」
すわ何事かと、皆色めき立つ中で、正室の澂子様はすっくと立ちあがった。澂子様の周囲に散っていた花弁たちが、その風を受けてふわりと舞い上がった。
「お殿様、お気遣いをなさいますな」
澂子様は続けた。
「既に今年の桜の見るべきものは見おさめました。お殿様のお気遣い、まことにありがたく存じますが、そのご様子をお見受けする限り、私も帰りましょう。皆、花見は終いじゃ!帰るぞよ」
澂子様の号令で、御付の者達は皆一斉に帰り支度を始めた。
愛宕山から芝口の上屋敷へはあっという間である。
上屋敷に戻るなり、先代様こと篁総次郎は上屋敷に出仕している主だったものを大広間に招集した。そして皆を集めている間に、深山だけを先に自室に呼んだ。
深山は平伏して、総次郎の言葉を待っていた。
「深山よ、そなたは何もきいていなかったのか」
先代・総次郎は静かに言った。
「申し訳ございませぬ、ご当主様。私には全くもって寝耳に水のことでございます」
「さようか」
総次郎はじっと深山を見つめていた。
「それに…笹葉殿と埜口先生はそのようなことを企てる方々ではありませぬ。ご当主様に心からの忠誠を誓っておりまする。全ては蓮臺の為、篁家の為…と忠勤に励んでいる方々でございます」
「ふむ…そうよな。私もそう思っておる」
「では御当主様は信じて下さると…」
「信じられたら良いと思っておる…だがな、深山よ」
「はい」
「既に事は起こり、事態は動いてしまった。これはどういうことかわかるか」
「と、いいますと?」
「もうこれが真か嘘かは関係ないのじゃ。この事件が起こった…ということが問題じゃ。これはきっと、左馬之助と埜口先生は何も知るまいとは、私も思う。だが、いとも簡単に絡めとられた…ということだ」
「そんな…お二人は全くもって、そのような方々では…」
「そうであってほしいと望む者共がおる…ということじゃ。深山、ここからがそなたの正念場じゃ。心して、この先進めよ」
「ご当主様、それはどういう事でございましょうか」
「ここまで事態が進んでしまうと、今の私では力にすらなってやれないかもしれん。このことをお前に一言、言っておこうと思い、ここに先に呼んだ」
深山の目の前が、一瞬、真っ暗になった気がした。
「それは…笹葉殿と埜口先生を救うことは出来ぬ…ということでございますか」
「その覚悟はしておくが良い。私はこの後、皆の前でそなたにこの仕置きを申し付ける。良いか、最善の案で最悪の事態を避けよ」
「はい…承知いたしました」
割り切れない思いを抱きながら、深山は総次郎の前を下がった。
総次郎の言葉通り、深山はこの後、江戸詰めの者達が揃っている前で、直々に「仕置き」を申し付けられた。御当主様の命とは言え、
「深山と笹葉は同門でござる!」
「深山は五溺塾の門下生でござる!」
「此度の仕置きに手心を加えるのは、火を見るよりも明らかではございませぬか」
と、皆が口々に訴えるのは道理である。
それらの声を深山は大広間の座敷の外を見つめて、じっと黙って聞いていた。
「その方達、私がそのような事も考慮せずに、深山に申し付けた…と思っているのだな」
総次郎は厳かに言った。口々に申し立てていた者達が黙り、しん…と静まり返った。
「良いか、皆の者、これは蓮臺藩始まって以来の未曽有の大事である。此度の仕儀、どのようなものか、何者が関わっているかは、まだ詳細はわからぬ。これから判明する真実に対し、公明正大に相対しなければならぬのだ。私は…深山越猪は確かに笹葉左馬之助や五溺塾と連なるものであるが、今回の仕置きをするに、人物として一番相応しいと考えておる。深山は私情に惑わされて、判断を誤るようなものでは無い。どのような結果になるにせよ、私を…皆を納得させる裁きをすることであろう。私は深山を信じている」
大広間にいたもの達の息を吞んだ音が、聞こえた気がした。
「そうじゃ、そうじゃ!兄上のいう通りじゃ」
その場の張りつめた空気を突き破るような大声が響き渡った。
ご当主様の異母弟君である磐井藩藩主・一ノ関千勝の声だった。この召集をかける際に、ご当主様は血を分けた弟君をお呼びになられたのだ。一ノ関様はご当主様と同じく、初代お館様のお子様であり、篁家の十番目の男子であった。今は分家である蓮臺藩支藩の磐井藩の藩主である。
深山は意外な気がして、一ノ関様の方を見た。一ノ関様は新参者の深山のことを快く思っていない様子がいつも手に取るように見て取れたのに、これはいかがなものなのか…。
深山の視線を待っていたのか、一ノ関様は深山と視線を合わせ、
「それに我らが納得せぬ裁きをするような仕儀になった際には、深山は自らの引き際も弁えておろうぞ」
大広間にどよめきが起こった。
(もしや、これはまんまと謀られたのではないか)
と、深山の心中に疑念が広がった。一ノ関様はなおも続けて、
「何よりもこのような時こそ、五溺塾の教えというものが生きてくるのではないか?のう、深山」
深山は黙って平伏するのみだった。
深山はすぐさま、蓮臺へと早馬を走らせた。ひと鞭入れる度に、
(一刻も早く着いてくれ…)
と、祈るような思いだった。だが、どんなに急いでも蓮臺まで四日はかかる。関東の桜の盛りを追い越し、東北の桜の蕾を追い抜く。どんなに急いでも気が焦るばかりだった。
(まだまだ白川の関は遠い)
日本橋から数えて二十五番目の芳野宿に着いた時には、深山も馬も疲れ切っていた。
芳野宿で新しい馬に乗り換えようとした時、駅舎の差配から
「馬を用立てるのは勘弁してほしい」
深山はそう言われて愕然とした。
「こういっては失礼でございますが、旦那様の馬の乗り方では、潰れてしまいやす。どうか、ご勘弁ください」
「倍の料金を支払うが、それでもだめか…」
「申し訳ございやせん」
差配は真摯な目で深山に言った。
「馬はあたしらには、大切な家族でございます。みすみす潰れるのを承知で、お貸出しすることはできやせんので」
「さようか」
深山はどうしたものかと迷ったが、
(仕方がない、次の宿場まで歩き、そこでまた馬を調達しよう。今はとにかく前に進むのが大事じゃ)
と、気を取り直して歩き出した。
芳野の宿を出て街道を少し行った川のほとりに一本の柳があった。
そこに見事な馬がいた。馬子だろうか、そばについて草を食べさせている。
普通の馬の体格の倍はあろうかと思うほどの大きさに、つやとつやとした栗毛の毛並みが美しい。惚れ惚れとするような外見に、しばし深山は見とれてしまった。
「あのような馬ならば、一日に百里を走るだろうに…それなら、蓮臺まで一日で行ける」
深山は独り言とともに深いため息をついた。蓮臺まで、江戸から九十五里だった。
「とんでもない、お武家様。あの馬は一日千里を走る馬でございますよ」
深山の後ろで突然、声がした。
「そんな、馬鹿な事を申すな」
深山が振り返ると、そこには背の高いがっしりとした旅装の男が笑顔で立っていた。
「はははは…馬だけに、でございますか」
その男は彫の深い異国風の顔立ちをしていた。
「お武家様にはあの馬が見える、と。であれば、面白い。先ほど、申したことは嘘ではございませぬ…試してみられますか」
「その話が真であるならば、どんなに有難いか。私は一日でも早く蓮臺に行きたいのだ」
「蓮臺、でございますか?」
その男は蓮臺に何か引っかかったようだった。
「蓮臺で、何か火急の大事がございましょうか?」
妙に勘の良い男の問に、深山はわが本分に戻り、気を引き締め直した。
「いや、私事である。命より大切なわが師と親友が…危篤なのだ」
深山の中では、同じようなものだった。二人とも生きるか死ぬかの瀬戸際である。
男は興味深そうな目で、深山を見て
「お武家様、それはご心配な事でしょう。その馬に乗って行かれませ。馬子をお付けいたします。その馬子の扱いに任せれば、今日の夕方には蓮臺におつきになりますよ」
「まことの話か?」
「こんなところで嘘をついても仕方ございません。万が一、嘘だとしても、お武家様ご自身のおみ足で行かれるよりは、充分早いと思いますが、いかがでしょう?」
「確かに、そなたの言うとおりだ。それでは馬をお借りしたい。して、いかほど、お支払いすればよいのか?」
男は深山を上から下までゆっくりと品定めするように見てから、
「あなた様を見込んで、お代はいりませぬ」
「それはいけない。そなたは見受けるところ商人であろう?商人の言うタダより怖いものはない。私は蓮臺藩宿老の深山越猪と申す。今決められなければ、改めて、代金の請求をするが良い。私は逃げも隠れもしない」
今度こそ、男は破顔して笑った。
「深山越猪様、私はあなた様が気に入りました。私は今井堂甚右衛門と申します。鉱山の開発を主たる生業…いわゆる山師というヤツですな…としております」
「山師、なのか」
深山は山師という人間を初めて見た。
想像していたのとは違い、都の商人のようないでたちなのが意外だった。
「私もおいおい、ゆっくりと蓮臺に参ります。あちらでお会いしましょう」
「蓮臺では馬はどうしたら」
「馬子が全て心得ております」
今井堂甚右衛門という男はそう言うと
「コハギ、これからこちらの深山様をお連れして、権多栗毛と一緒に蓮臺まで、行っておくれ」
「今甚様、承知致しました」
コハギと呼ばれた馬子はぴょこっと頭を下げた。
自分の背丈の倍はあるかと思うような馬を連れて、コハギは深山たちの元にやって来た。
傍で見ると、遠くで見ていたよりも、もっと大きく、見上げるような馬だった。筋骨隆々として、黒々としたたてがみも、栗色の毛並みも光り輝いている。
一つだけご愛嬌なのが、馬のしっぽの毛に青く美しい端切れが編みこまれていた。
「旦那様、こちらに足を」
コハギがかがみ、膝の上に両手の指を併せて、足を掛けて馬に乗れるように差し出した。
馬が大きいせいか、馬子のコハギの小柄さ加減が特に感じられる。
深山は足を掛けるのを躊躇った。それに…どうも、この馬子は女馬子のようだ。
「そなたは、女子ではないのか…」
それを聞いて、今井堂という男は大笑いをし、肝心のコハギは憮然とした表情になった。
「おなごだから、なんだというのですか?」
「いや、私のような大の男がそなたのような小さき女子に足を掛けるなど…」
「旦那様、私は馬子でございます。これが私の仕事です」
「深山様、お気になさらずに。コハギはこう見えても、馬子としては優秀で老練した遣い手でございます。それに、権多栗毛はコハギにしか扱うことはできません。どうか、コハギの言うとおりに」
「承知仕った。では、コハギ殿、よろしくお頼み申す」
今度こそ深山はコハギの手に足を掛け、権多栗毛の背に乗った。
そして、驚いたことにひょいっと、コハギも馬に乗りこみ
「旦那様、私の身体にしっかりと手を回して、捕まっていてください。これから、旦那様が恐ろしいと思うくらいの速さで、権多は走ります。振り落とされたら、死にます」
淡々とコハギは言った。
「相わかった」
深山は覚悟を決めると、コハギに回した腕に力を込めた。
今井堂という男は、その様子を確認すると
「深山様、それでは蓮臺にてお会い致しましょう…コハギ、行け!」
「どぅ!」
とコハギが掛け声をかけ脇腹を蹴ると、権多栗毛はひと鳴きして走り出し、その勢いで深山は後ろに引っ張られたかのように振り落とされそうになった。
(これはたまらん!)
と、改めて深山はコハギにしがみついた。
「旦那様、蓮臺につきました」
コハギの声がして、深山は自分がずっと目を瞑り、息を止めていたことに気付いた。
権多栗毛は今までの暴走が嘘のように、大人しく立っている。
「はあ」
と思い切り息を吸い、ギュッと瞑っていた目を開けた。
深山の目の前には懐かしい光景が広がっていた。東北の遅い春の夕暮れの中、清瀬川の川面はきらきらと光り、遠く西には美しい円錐形をした明星山の姿が影になって見える。
「これは…まことに蓮臺の入り口…」
深山は信じられない気持ちで一杯だった。だが、自分は実際に蓮臺についている。
コハギに助けてもらいながら、権多栗毛から降りた。
「コハギ殿…これはなんと言うか、いや、まずは礼を申さねば。まことに忝い。心から感謝いたす」
深山は丁寧にコハギに頭を下げた。
「旦那様、私に礼を言う必要はありません」
その時、権多栗毛が前足でとんとんとんと地面を打った。
「ああ、権多、ごめん!お前も喉が渇いたよね。すぐに水辺に連れてくよ」
コハギは権多の首筋を撫でながら、
「旦那様、ここからはおひとりで行かれてください。さすがにご城下では権多は目立ちますから、私たちはここでお別れ致します」
「コハギ、ありがとう。今井堂殿とはどうやって連絡を取ったら、良いのか?」
「今甚様ご自身が早晩、旦那様の元をお尋ねになります」
「そうか、承知した。もし、お前が先に今井堂殿と会うようであったら、深山が深く感謝していたと伝えておいてくれ。では」
そう言うと、深山は蓮臺の市街に続く街道に向かって歩いて行った。




