71話 囚われのエクセリア姫(偽)
異世界都市パンドラにおいて、人種という概念は限りなく存在感が薄い。
白人黒人黄色人種、あらゆる人種の人々が入り混じって生きていて、良くも悪くも同レベルで融和している。
幸いなことに、目立った人種差別は存在しない。
気に食わなければ殺す。恨みを買えば殺される。
そんな殺伐かつ自由な気風が住民全体に満ち満ちているので、差別なんて周りくどいことをせずともコミュニティ同士がいがみ合えばすぐに血で血を洗う暴力沙汰へと発展する。
どちらかが壊滅して片が付くこともあれば、相討ちになって全てが解決することもある。あるいはその抗争を鬱陶しく思ったさらなる強者が両方を潰してしまうこともある。
個人単位でもそうだ。子供のグループでいじめが発生すると、いじめられた子は高確率でナイフ、あるいは銃で復讐に出る。もちろん返り討ちに遭うケースも多いが。
なにせオンボロな銃なら道端で100クレジット程度でおもちゃ感覚で叩き売りされているのだ。自殺するより殺してしまえ。パンドラの人々にとって、暴力は恐ろしくも親しい隣人だ。
都市全体に浸透した“陽気な暴力”への許容が、“陰湿な悪意”に対する自浄作用へと転化しているのだ。……と言っても治安は最悪、人の命はゴミ同然に軽いのだが。
そんな暴力礼賛主義が蔓延したパンドラの中で、暴力ヒエラルキーにはいくつかの頂点が存在している。
世界骨に巣食う星影騎士団、企業連及び七面會。そしてもう一つが、市街東部に居を構える血の門だ。
血の門という名前は組織の住まう街並みに由来する。
パンドラ東部、湖とそこから延びた川の水辺沿いに広がる広大な街並みは、中国、あるいはシンガポールやマカオ、ハノイといった現代アジア的な建築と文化で満たされている。
その街並みは血の門を仕切る老大、マダム紅の好みによって築かれたもので、彼女はその絶大な影響力をもって、騎士団と企業連にエリア一帯を独立した自治区として認めさせているのだ。
彼女は人種意識の薄いパンドラには珍しく、構成員はアジア系人種ばかりで固めている。排他性が非常に強い。
自治区の周囲に塀を張り巡らせて、他地区との出入口は各方面に八つの門。
それら全ての門がマダム紅を象徴する紅色、鮮血色で塗られていて、故に彼女らは自らの組織を称して、血の門と。
——血の門自治区中央部、紅血楼。
マダム紅の邸宅と組織の本拠を兼ねた巨大な塔の一室に、イリス・オーウェンが捕われている。
広々としてはいるが厳重な座敷牢をあてがわれて、牢の前には四六時中牢番が控えている。
人違いで学園から連れ去られ、大好きな兄と引き離された少女は、いつ殺されるかもわからない環境に怯えて生きる気力を失くし……てはいない。
「隙ですわ! クッソ暇ですわ! 部屋に用意してあった漫画はぜーんぶ読み切ってしまいましたの! さっさと替えを持ってきてくださりません?」
「うるせえな……勝手に物を出し入れしたら俺らが上からドヤされんだよ。本棚に本もあるだろうが、そっち読んでろクソガキ」
「わたくし本は大っ嫌いですの!」
「知るか! 無理なもんは無理だ!」
牢の鉄格子をガツンと蹴って、イリスは見張り番のハゲ男を怒鳴りつける。
薄汚れたタンクトップにゆるめのジーンズを履いた冴えない中年が、心底面倒臭そうな顔をしてイリスを怒鳴り返してくる。
初めの数日は捕まった状況を怖がっていたイリスだったが、慣れてしまってからはずっとこの態度だ。
「なっさけねえ男ですわね。漫画一冊ごときで何の問題があるって言いますの? スマホよこせって要求しないだけ感謝してほしいもんですわ。ッハ〜つまんない」
「舐めやがって……ブッ殺すぞ!!」
「ハッ、やれるもんならやってみやがりなさいな!! 捕虜のわたくしを独断で殺せばそれこそあなたもブチ殺されるんじゃありませんこと!? 漫画の交換すら自己判断できねえハゲにそんな勇気あるとは思えませんわねぇ〜!! さ、かかってきやがりなさいな!!」
「クソガキが……! なんだその安っぽい口調、頭イカれてんじゃねえのか!? てめえ本当にエクセリア姫なのか!?」
「フン、下賤のものにわたくしの高〜貴な正体を教えてやる気はありませんの。いい年こいて下っ端やってるハゲより一億倍マシですわ〜。雑〜魚! ドグサレ! スカポンタン!」
脱獄防止用にもし逃げれば爆発する首輪を付けられているのだが、そんなの知ったことかとばかりに罵るしワガママも言う。
普段は大好きなお兄様ことエヴァンの後ろをチョロチョロと付いて回っている印象の少女だが、兄と同じ人狼の血筋でただの人間よりはよっぽど強い。いざ本当に殺されそうになったら徹底抗戦してやる気でいる。肝の据わりっぷりはダテに不良をやっていない。
あからさまに舌打ちをして、自由に食べていい間食ボックスから棒付きキャンディーのレモン味を選んでくわえて、もう三回は目を通した少女漫画の単行本を拾い上げてベッドに寝そべる。
仰向けになって足を組んでページに目を滑らせながら、イリスは恋する乙女のようなため息を一つ吐く。
「はー退屈。囚われの姫って子供の頃は憧れてたけどクッソつまんねえ役回りですわね〜。窓からの景色も腐るほど眺めましたし、早くお兄様来てくれませんかしら」
イリスがこんなにもふてぶてしい態度でいられるのは、兄のエヴァンを心から信頼しているからというのも一つある。
幼い頃に両親を亡くしてから、ずっと自分を守ってきてくれた。拐われたあの日は不幸にも風邪だったけど、治ればきっとどんな手を使ってでも来てくれる。そう信じているから怖くないのだ。
ガチャン。鉄扉が開く音がして、見張り番の坊主が椅子から立ち上がった、
(あら、交代の時間には早いはずなのに)
イリスが不思議に思いながら目を向けると、部屋に入ってきたのは学園からイリスを拐ったゴスロリ女装男、雷春燕だ。
どうやら雷は血の門の中でも上位の格のようで、見張りのハゲ男はダラけて競馬新聞を読んでいた様子から一変、新聞を椅子の後ろに隠して直立不動の姿勢を取っている。
「お疲れ様です!!」
「お疲れ。真面目に見張ってた?」
「はい!!」
「そいつ競馬新聞読んでましたわよ! わたくしの要求も全然聞いてくれませんしダメダメですわ!」
「へーえ?」
イリスのチクりを受けて、いたずらっぽい笑みを浮かべた雷はつま先立ちで見張り番の顔を見上げる。
自分より頭一つ以上大きな男の震える唇に指をあてがって、猫なで声で語りかける。
「ダメじゃない宇辰。ボク、ウソつかれるの大嫌いなんだってば」
「も、申し訳ありまぁ……!?」
男の首に腕を回して、グッと引き寄せると雷はぼそっと何かを囁いた。
すると男の顔面が紫色に染まって、「ごァぇっ」と潰れたカエルのような声を漏らして床に倒れてしまった。
「えっ」とイリスが息を飲む。
「こ、殺したんですの!? サボってたぐらいで!?」
「ああ、心配しないで。血の門に役立たずはいらないから、体の仕組みを変えてあげただけ」
雷がこともなげにそう言うと、痙攣しながら倒れていた男が何事もなかったかのようにすっくと立ち上がった。
ただし大きく変わった点が一つ。男の頭部がハゲ頭から巨大なエリンギへとすげ替わっている。いや、頭部から生えたキノコが元の頭を包み込んでしまったのか?
ともあれ、怪奇エリンギ男と化した見張り番は元気に直立不動の姿勢を取っている。雷が「出といて」と言うと敬礼ひとつ、ハゲ頭改めエリンギ頭は座敷牢の部屋から姿を消した。
「さて、ちょっと話しようか。エクセリア姫」
(……あ!! これ激ヤバじゃなくて!?)
イリスはとっさに手を挙げて、高らかに一言宣言する。
「これ決してウソをついていたわけではないのですけれど、というかあなたの勝手な勘違いなのですけれど、わたくし実はエクセリア姫ではありませんの!! わたくしはイリス!! 学園自治連合の秘密兵器ことイリス・オーウェンですわ!!」
「……」
嘘をついたという理由で目の前で男が殺されるのを見た瞬間、イリスは即座にカミングアウトを決めた。
なんだか成り行きで都市の姫と勘違いされたのが面白かったのと気分が良かったのと、あとは学園の役に立てるかなという気持ちとでエクセリア姫と言われてもあえて否定せずに来たが、これはヤバい。バレるのが後になればなるほどもっとヤバい。と、即決で自分の正体を明かしたのだ。
(ゆ、許してもらえますかしら……!?)
すうっと、雷春燕の目が細まる。
彼は座敷牢の鍵を開けて、イリスへゆっくりと近づいてくる。ハゲ男をエリンギ男に変えた指がイリスに伸びてくる。
(怖い!)
グッと息を飲んで、いざとなればよく発達した犬歯でその指を噛みちぎる覚悟を決めて……と、雷が手を引きつつ笑った。
「あっはは! 大丈夫大丈夫。知ってたからねえ」
「え……はい!? 知ってたってどういうことですの!?」
「イリス・オーウェン。血気盛んで有名なエヴァン・オーウェンの妹だよね? 人狼兄妹の」
「そ、そうですわ。よくご存知ですのね。けど、知ってるならどうしてわたくしを拐ったんですの?」
至極もっともな疑問だ。
訝しげに目を細めたイリスへ、雷は少女にしか見えないほど整った顔の口端をくいっと上げて笑む。
「場を荒らして欲しかったから」
「場を荒らす……?」
「君を拐えば気性の激しいエヴァンが乗り込んでくるでしょ絶対。マダムは本物のエクセリア姫を御所望だったけど、ボクとしてはそっちの方が都合がいいんだ」
「テメェもしかして、マダム紅の意図とは別で動いてやがりますの? 良からぬ企てにお兄様を利用しようとしてやがるなら……」
エヴァンに危害が及ぶ気配を感じて、イリスは雷を睨みつける。
その鋭い目を意にも介さず、雷はゆらりと手を振って背を向けた。
「いつ来るかなぁ? 狼の王子様は。楽しみだね、ゾクゾクするよ」
雷が部屋を去り、入れ替わりでエリンギ男が牢の前に戻ってきた。
宇辰と呼ばれていた彼は、さっきまでのだらけた態度から一転、気持ち悪すぎるぐらいに背筋を伸ばしてキビキビとした姿勢で立っている。
恐る恐る、「……あの、新しい漫画とか雑誌をくださらない?」と尋ねてみると、無言のまま恭しい仕草で旅行雑誌東部版を差し出してきた。
「と、都市東部の旅行ガイド? わたくし牢から出られませんのに? ……そのセンスはともかく、まあ受け取っておきますわ」
なんだか何もかもが釈然としないまま、再びベッドに寝そべって雑誌を眺める。
(なーんか、キナ臭くなってきましたわね〜)
窓の外一面に広がるのは見事な夜景。
少しずつ不穏さを深めながら、東部市街の夜が更けていく。




