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35話 ワインレッドの唇

 車を降りてみて初めて気付いたが、辺り一帯になんだか不穏な空気が漂っている。

 まだ昼過ぎの時間帯だというのに路上に座り込んで酒を飲んでいる人がいたり、側溝はタバコの吸殻や乾いた吐瀉物が掃除されずに残ったまま。

 道のあちこちにドラム缶で焚き火がされていて、薄汚れた服装の人たちがそれを囲んで生気のない目で暖を取っている。


「スラムだからな、ここら一帯は」


 ミトマはそう言うと、特に気にした様子もなく雑居ビルの中へと入っていく。

 シエナが平然とその後に続き、俺はおっかなびっくりでしんがりを歩く。

 日本で言えば新宿ゴールデン街辺りにありそうな、いやもっとゴミゴミした印象のビルだ。

 入り口の集合ポストのいくつかは督促(とくそく)状やチラシであふれていて、掲示板には壁面には英語やらアラブ語のビラが雑多に貼り付けられている。

 一つ日本語のビラも混ざっていて、それには『402号室!! 借金返せ!!』とシンプルな要求、加えて死ねだの殺すだの悪口と罵倒がビッシリと書き連ねてあった。


「治安が悪すぎる……」

「初めて来るとビックリするよね。麻薬中毒者(ジャンキー)なんかも多いからいきなり殴りかかられたりしないように気を付けてね」


 シエナは苦笑しながらそう言うが、“初めて来ると”、ということは彼女は何度もここに来たことがあるということだろう。

 こんな場所に? お嬢様育ちの学生が?


「二人とも、こんなビルに何の用で来てるんだ?」

「うーん、説明するより見てもらった方が早いかなぁって。ねえミトマ」

「ああ、インパクトあるからな」


 狭くて暗い階段をカツカツと登り、ミトマは三階で足を止めた。302号室のドアには“ソドム”とロゴプレートが引っ掛けてある。

 店名? 店なのか。けど名前以外何も書いてない。

 こんなスラムの雑居ビルで営業している店なんてロクなものは思いつかない。おしゃれな喫茶店でも気の利いた雑貨屋でもないだろう。

 だが、ミトマは躊躇(ためら)いなくそのドアをぐっと押し開ける。

 ドアチャイムがチリリンと鈴の音を鳴らして、俺たち三人を出迎えたのは野太い猫なで声だ。


「あらお客さ〜ん! いらっしゃ〜い!」

「うおっ……」


 思わず、俺はうめき声を漏らしてしまう。

 目に映ったのは狭い店内にL字型のカウンター、小さなテレビ、並べられたたくさんの酒と灰皿と、真っ赤な口紅をベッタリと塗りつけた大柄な男。いやオネエだ。

 愛想たっぷりに満面の笑みを浮かべていた彼だが、ミトマとシエナの二人を見た途端に表情を渋くした。


「なァんだ。つまんない顔ね」

「久しぶり、バーガンディ。相変わらずもうかってないね」

「アナタたちみたいな酒も飲めない歳のガキが来るからお客が寄り付かなくなんのよ。しかもメス! ハァ〜ガン萎えよガン萎え」

「私たちが最初に来た日もガラガラだったじゃない」

「うるさいわね! シッシッ!」

「うわっ! 塩()いてきた!」


 バーガンディと呼ばれたオネエは塩の瓶を逆さにして、鷲掴みにしたそれを放り上げた。相撲取りの土俵入りかってぐらいの量の塩が宙を舞って、シエナとミトマは慌てて身を屈めてそれを避ける。

 が、二人の後ろに立っていた俺は反応が遅れて頭からたっぷりと塩を浴びてしまった。


「うっわ!? げえっ、しょっぱい! 目に入った! いててて!」

「アラ!?」

「ううっ、髪がザラザラする……服の中にも入って……ううっ、目も痛いし……!」

「あらあらあらあらァッ! いるじゃない! オスが! どきなさい!!」


 バーカウンターを乗り越えたバーガンディがシエナとミトマをドンと突き飛ばして、俺の隣でしゃがみ込んだ。

 おしぼりで俺の顔をゴシゴシと乱暴にぬぐうと、両手で頬を挟み込んで凝視してくる。


「アリよ!!!」

「息が酒とタバコ臭え!」

「73点!!!」


 その数字が顔の評価なのかなんなのか知らないが、力が強いし圧も強い。

 映画俳優のジェイソン・ステイサムが口紅を塗ったみたいな顔が鼻先が触れるぐらい近い。勘弁してくれ。

「そこそこだな」とミトマが点数への所感をつぶやいて、俺からバーガンディをぐっと引き剥がした。


学園自治連合(キャンパス・ライン)から仕事を依頼したい」

「フン、副業目当てでホイホイ顔出されても困るのよね。アタシにだってお店があるわけで」

「ゲイバーの収入なんてスズメの涙だろ。月に5万とかその程度じゃないのか」

「マ〜失礼なメスガキ! 先月は7万よ!」

「十分少ない」


 ミトマは手に持っていた黒のボストンバッグをどさりと床に置く。

 おもむろにファスナーを開けると、そこにはいくつかの札束が詰めてあった。


「手付けに500万クレジット。成功報酬でもう500万。受けてもらえるか」

「ンー、気分乗らないのよねえ」

「成功報酬はもう少し色を付けてもいい。頼む」

「どうしようかしら」


 場末も場末のゲイバーのママに一体何の依頼を? 俺は事情が飲み込めないままでバーガンディとミトマのやりとりを眺めている。

 するとシエナが俺に歩み寄って、小声で耳打ちをしてきた。


「バーガンディ、彼は……いや彼女って言わないと怒られるか。彼女は裏社会に顔が利くんだよね」

「へえ、裏社会に……まあ、どう見ても表側の住民って顔じゃないけど」

「わかる。でも見た目はともかく、めちゃくちゃ優秀なんだよねえ」


 かなりひそめた声だったのだが、バーガンディがギロッと俺たちを睨んだ。


「見た目はともかく? シエナあんた、その首締め上げられたい?」

「じょ、冗談冗談!」

「フン……アンタたちの立場、相当サイアクよ。ランドールに支援頼みに行く気なんでしょ? アポは明日?」

「うん、明日の15時」

「フゥン。それまでに死ぬわねアンタたち。なにも学園を狙ってるのは七面會(マスケラド)だけじゃない。大小様々な組織が利権狙って牙研いでんのよ。明日の朝までに何回狙撃されるかしらネ〜? ご愁傷様(しゅうしょうさま)でございましたァ〜! 熨斗(のし)つけて香典渡しとく?」

「葬式に熨斗(のし)はいらないでしょ。あれ付けるのお祝い事だけだよ」

「めでたいから言ってんのよ。アンタたちが来なくなるならせいせいするわ」

「意地悪なこと言うよねえ。危険だから頼みに来たんじゃない。成功報酬は倍額積んでもいいからさ、なんとかお願い! お助け!」

「チッ……」


 バーガンディは背が高い。185ぐらいはあるんじゃないだろうか。

 そんな彼……もとい彼女がシエナを見下ろして舌打ちをすると、なんとも仁王めいて恐ろしげな迫力がある。ヤクザかな。

 たくましい腕を組んでしばらく無言で考えを巡らせてから、彼女はミトマの置いたバッグを手に取った。

 

「……いいわ、付き合ってあげる。いくらウザいメスガキとはいえ、顔見知りに死なれちゃ寝覚めが悪いからね」

「やった! 助かるよバーガンディ!」

「ただし条件は出すわ」

「報酬上乗せ? もちろん金額はもうちょっと積むよ」

「いいえ、金は今のままでいい。それよりも……藤間(とうま)或也ありやを調べさせて」

「えっ、俺!?」


 声が上ずってしまった。いや、まさかここで俺に矛先が向くとは思っていなかったのだ。

 それに、そもそも俺はまだ名乗ってない。


「なんで俺の名前を知ってるんだ……?」

「やぁねえ! それくらい知ってるに決まってんじゃないの〜! 七面會(マスケラド)を二人撃退した期待の新顔、赤マル急上昇の注目株! アタシ情報屋も兼ねてんの。その筋じゃちょっとだけ名前売れてきてるのよアリヤちゃんは!」

「うわっ! 近い! ヒゲを擦り付けるな! ヒゲ硬っ、痛っ!?」


 力任せに俺に頬擦りをしてから、バーガンディは金の入ったバッグを掴んで一度裏へと下がっていく。

 奥の方からガチャガチャうるさい音が響いたと思ったら、同じバッグをパンパンに膨らませてミトマへと返してきた。


「はいアンタ用ね。とりあえず良いの見繕(みつくろ)っといたわ」

「助かる」

「ミトマ、それって何が入ってるんだ?」

「これだ」


 俺の質問にミトマはファスナーを開けて、その中から黒光りするライフル銃を一丁手に取って見せてくる。


「バーガンディは優秀な武器商でもあるんだ。性格はともかく品の質は信頼できる」


 バッグの中には他にも銃がいっぱいに詰まっていた。大戦争でもやらかすのかって量だけど、ミトマはそれを一つ一つ手に取って確かめていく。そんな大量の銃を全部撃ち尽くすようなシチュエーションが来るんだろうか……?

 俺が慄然(りつぜん)としていると、もう一度裏に下がっていたバーガンディが着替えて出てきた。

 仕立ての良いジャケット姿だが、パンパンの筋肉ではちきれそうに膨らんでいる。

 

「じゃあまあ不本意ながらアンタたちの護衛、請負ったわ。は〜ヤダヤダ。早くこんな生活から足洗って南部の人工リゾートで隠居したい。じゃあま、アリヤちゃんヨロシクねぇ〜!」


 バーガンディが両腕をV字に掲げると、腕回りに虹色のオーラが展開された。いやなんだこれ、まるで羽だ。求愛行動で広げたクジャクの羽だ。

 俺があっけに取られていると、バーガンディが素早い動きで俺の頬に唇を押し付けてきた。そして吸う! バキュームみたいに!


「いっ、痛てててててて!!! やめろ!! うわぁ!? ひええっ……!!」

「バーガンディって名前は色よ。ワインレッドのこと。この口紅の色がバーガンディ。覚えてね? そしてアタシはクジャクの鳥人(ハーピィ)! 亜人種を見るのは初めてかしら?」

「あ、亜人種!? ああ、人狼のオーウェン兄妹みたいな……」

「あら初めてじゃないのね、ざぁんねん。明日までヨロシクね。手取り足取り色々教えて、あ、げ、る」

「吸わないでくれ!!! 気持ち悪、いたたたたたたっ!!!」




----------




「はっ、なんやろ……アカン、今なんかめっちゃおもろい場面見逃した気がするわ。しんど」


 一人、そう呟くのは燃だ。

 星影騎士団(ステラ・イドラ)の本部“世界骨”の内部、縦に長く通されたエレベーターに乗って地下へと向かっている。

 ダルそうに少し背を丸めて、スマホの音楽プレイヤーでシャッフル再生を流し聞きする彼女は、薄暗く広々とした箱の中で一人ブツブツと文句を口にする。


「は〜、上からお叱り受けるためにわざわざ出向かなアカンとかなんなん? 電話でいいやん電話で。おもんないねんクソ騎士団。そもそも深層六騎(ディープシックス)とかなんなん? 御大層な役職与えられても責任重くなるだけでいいことなんもないわ。カタカナの肩書きもらって喜ぶのは厨二とアリヤくんぐらいやって。あとここなんでこんな照明暗いん? 辛気臭っ」


 ブー、とビープ音が鳴って、エレベーターが目当ての階へと辿り着いた。

 扉が開き、燃は濃緑色の光に包まれたフロアへ、星影騎士団(ステラ・イドラ)の深層部へと足を踏み入れる。




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