第6話
『陽葵』
彼は彼女をそう呼んでいて。
『聖人くん』
彼女は彼をそう呼んでいた。
ただ、それだけのことだ。
名前で呼び合うなんて、別に珍しくもない。
クラスメイト同士でも、仲のいい友達同士でも、普通にある距離感だ。
いや、男女だとあまり——
……ないとは言いきれないか。
……まあ、そこまで気にすることでもないだろう。
俺は気にしていない。
気にしていない、はずだ。
正しくは——気にしないようにしている、だけかもしれないが。
翌日。
二時間目が終わり、俺は南川と並んで廊下を歩いている。
「なあスマイル」
「ん?」
「夏川の近況、知ってるか?」
不意に出た名前に、ほんの一瞬だけ足が止まりそうになる。
「……近況って?」
「いや、その……ほら、わかるだろ?」
言い淀む南川。
何を言おうとしてるのかは、なんとなく分かる。
……分かるけど。
俺は何も返答することができなかった。
訪れる、ほんのわずかな沈黙。
「……あー、そのさ」
南川が頭の後ろをかきながら、言葉を探すように続ける。
「別に、変な意味じゃねえんだけどさ。東って、あいつとよく一緒にいたじゃん」
「……まあな」
「だから、その……なんつーか、どう思ってんのかなって」
探るような言い方だった。
踏み込みすぎないように、けど何も触れないのも違う、みたいな。
「どう、って?」
「いや……そのままの意味だよ」
少しだけ視線が合う。
すぐに逸らされた。
「……悪い。やっぱなんでもねえわ」
南川はそれ以上踏み込んでこなかった。
踏み込めなかった、のかもしれない。
それ以上、会話が続くことはなかった。
放課後。
図書室は、いつも通り静かだ。
カウンターに座り、返却処理をしながらも、意識がどこか上滑りしている。
ピッ、とバーコードを読み取る音。
それをぼんやりと聞きながら、次の本を手に取ろうとして——
「あ、東くん東くん。それ逆」
「え? ……あっ、しまった」
西沢さんに指摘されて、初めて気づく。
バーコードを逆に向けていた。
「悪い」
「ううん、大丈夫」
苦笑しながら本を受け取る西沢さん。
「どうしたの?そんなにボーッとして。なにか考え事?」
「あー……まあ、そんなとこ」
西沢さんは少しだけこちらを見て、それから視線を落とした。
何かを言いかけて、やめるような仕草。
「……無理しなくていいからね」
ぽつりと、そんな言葉だけが落ちる。
「別に、無理なんてしてないって」
軽く返したつもりだったが、
自分でも少しだけ、声が硬かった気がした。
「……そっか」
それ以上は踏み込んでこない。
踏み込めない、のかもしれない。
ほんの少しだけ、言葉に迷っているようにも見えた。
ピッ、という機械音だけが、また図書室に戻ってくる。
「……あのさ、東くん」
「ん?」
「陽葵の、ことなんだけど——」
「そこの本」
——気づけば俺は、西沢さんの言いかけた言葉を、反射的に遮っていた。
「え?」
「そこの本、取ってくれ。返却の処理したいから」
一度目より、あからさまだったかもしれない。
西沢さんが、今度ははっきりと黙り込む。
「……あ、うん」
差し出された本を受け取りながら、気まずい沈黙が落ちる。
西沢さんは、それ以上何も言わなかった。
言えなかった、のかもしれない。
きっと、夏川と……彼のことを話そうとしていたんだろう。
それを分かった上で、俺は遮った。
聞けば、はっきりする。
はっきりしてしまう。
——それが、嫌だった。
ここで聞いたら、
今まで曖昧にしてきたものに、名前がついてしまう気がした。
「……悪い、ちょっとトイレ行ってくる」
「あ、うん。行ってらっしゃい」
逃げるみたいに席を立つ。
自分でも、そう思った。
図書室を出て、廊下を歩いていると——
「ねえ、アンタ」
不意に、誰かに呼び止められた。
「……ん?」
振り返ると、見覚えのない女子生徒が立っていた。
「……何か?」
「アンタさ、なんでそんな普通にしてられんの?」
いきなりの言葉に、思わず眉をひそめる。
「は?どういう意味?」
意味が分からない。
いったい何なんだ、この女は。
「気にならないの?あの二人のこと」
「仮に気になったとして、それが君となんの関係が?」
「……関係は、あるわよ」
「へえ、どんな?」
「別に、なんでもいいでしょッ」
露骨に苛立ったように息を吐かれる。
……なんなんだよ、さっきから。
どうして、そんな言い方をしてくるんだ。
「アンタが——」
言いかけて、止まる。
一瞬だけ、何かを飲み込むみたいに視線を逸らして。
「……もういい」
それ以上何か言われるかと身構えていたものの、彼女はそれだけ言うと踵を返して去っていった。
今のは、なんだったんだ?
理由は分からないまま、妙に引っかかる感情だけが残った。
その日の帰り道。
校門へ向かう途中、ふと前方に見覚えのある姿が目に入った。
夏川と——あの男子生徒。
北山くん、だったか。
二人は並んで歩きながら、何かを話している。
「ねえ、聖人くん」
聞こえてきた声に、思わず足が止まりそうになる。
あの呼び方。
さっきと同じはずなのに、今はやけに自然に聞こえた。
まるで、それが当たり前みたいに。
「——でさ、この前、行ったカフェなんだけど」
「ん?ああ、あそこか」
会話の断片が、風に乗って届く。
この前行ったカフェ。
その言葉が、妙に引っかかった。
二人で食事に行くくらいには仲が良いらしい。
それも、ファミレスじゃなくて、落ち着いたカフェに行けるくらいには。
……いや、別におかしなことじゃない。
それくらい、普通のことだろ。
そう思う。
思う、はずなのに。
頭のどこかが、引っかかる。
――もし、あのまま。
あの夏休みが、何事もなく終わっていたら。
くだらない話をしながら、
図書室の帰りに、どこかに寄って。
そんな時間が、続いていたんだろうか。
……馬鹿らしい。
考えたところで、意味なんてない。
そのとき、近くを歩いていた女子たちの会話が耳に入った。
「北山くんってさ」
「あー、分かる。なんであの子なんだろうね」
「でも、結構前から仲良くなかった?」
「てかさ、夏休み明けくらいから距離近くなってなかった?」
「それな。なんか気づいたらって感じじゃない?」
……前から仲が良かった、か。
それも、夏休み明けくらいから……。
俺が、いなくなってからだ。
気づけば、また二人の方を見ていた。
別に、見たいわけじゃない。
ただ、視界に入るだけで——
勝手に、目が向いてしまうだけだ。
「……っ」
ほんの一瞬だけ、視線が止まる。
すぐに逸らす。
……別に、仲がいいだけだろ。
それくらい、別に珍しくもない。
珍しくもない、はずだ。
そう自分に言い聞かせて、歩き出す。
分かろうとすれば、きっとすぐ分かる。
南川に聞けばいい。
西沢さんに聞けば、ちゃんと教えてくれる。
でも、聞かなかった。
分かりたくなかったからだ。
けど。
ここまで来たら、もう誤魔化せない。
何度も目に入って、
何度も引っかかって、
そのたびに、見ないふりをしてきた。
それでも無視できるほど、俺は鈍感じゃない。
「……はあ」
小さく息を吐く。
胸の奥に、引っかかったままの何かがある。
触れれば、形になってしまいそうなそれが。
——そろそろ。
ちゃんと向き合わないといけないんだと思う。
ストックがなくなってしまったので、次回の更新は未定……です
楽しみにしてくれている方は申し訳ないですが、気長にお待ちください。




