第2話
――あれから、数日が経った。
俺の身体は、少しずつ動かせるようになっていった。
まだ、立ち上がることも、歩くこともできはしない。
それでも、指先に力を入れたり、ベッドの上で身体を起こしたりするくらいであれば、問題なくできる。
ほんのわずかな変化だが、それだけで自分の身体が自分の元に戻ってきているような、そんな感覚があった。
病室は、相変わらず静かだった。
モニターの電子音だけが、一定の間隔で鳴っている。
カーテンの隙間から差し込んでくる淡い光によって、時間がゆっくり流れているような、そんな錯覚を覚えた。
病院にいると、何もしなくても時間だけが進んでいく。
俺はただ、天井を見上げながら、それを受け入れていた。
――コンコン。
「スマイル、起きてるか?…入るぞ」
ドアが開かれると、そこには俺の友人の南川 瞬哉が立っていた。
スマイルというのは、南川だけが呼ぶ俺のあだ名だ。昔あった、日本語ワープロソフトにちなんで俺のことをそう呼んでいるらしい。
「……南川。久しぶり…なんだっけ」
「ああ。久しぶりだな」
俺からすれば、1日ぶり…くらいの感覚なのだが、南川からすればこうして俺と話すのは、半年ぶりなのだろう。変な感覚だ。
「……」
南川の顔を見ていて、ふと違和感を覚えた。
「……南川。髪、染めたのか?」
「ん?ああ、ちょっと前にな。いいだろ?」
認めるのは癪だが、南川はどちらかと言うと男前だ。茶髪も、よく似合っている。
「……身体は、大丈夫なのか?」
「……まだ、全快とは言えないかな。ベッドの上でならある程度動けるようになってきたけど、歩くのとかはちょっと難しい」
「そっか。早く良くなるといいな」
「……学校にも、戻りたいしな」
「……ああ、だな」
南川の歯切れの悪い返事が引っかかった。
「……この半年間、学校はどんな感じだった?」
「え?あ、ああ…そうだな。いろいろあったよ」
いろいろ、か。
その言葉の裏に、俺の知らない何かが隠れている気がしてならなかった。
「ああ、そういえばさ」
南川はベッド脇の丸椅子に腰掛けながら続けた。
「2月に入ってすぐ、席替えがあったんだよ」
「へえ。いい席になった?」
「うーん、まあまあかな。あ、お前は後ろ側の席になったぞ。いつも誰かが勝手に座ってるけどな」
「勝手に人の席を使うなよな」
「お前どうせいないんだから、別にいいだろ」
軽口を叩き合う。
それだけで、元の日常に戻れたような気がした。
「あとさ、国語の教育実習生が来てる」
「へえ」
「大学生の人で、見た目は結構若い」
「男の人?」
「ああ」
「クラスの反応はどんな感じだった?」
「最初はまあ…な」
南川は肩をすくめた。
「ちょっと舐められてたけど、授業とかちゃんとしててさ」
「ふーん」
「板書も見やすくて、説明も分かりやすかった。気づいたら、みんな普通に聞くようになってたよ」
「そっか」
その光景が、容易に想像できた。
俺のいない教室、俺のいない日常。
そんなもんだ。俺がいなかろうが、クラスの連中に変わりはない。
その後も、南川はこの半年間のことをいろいろと話してくれた。
けれど、その中に――
俺の聞きたい名前は出てこなかった。
「……そろそろ、俺帰るわ」
南川が、壁に掛けられた時計に目をやりながら言った。
もう、すっかり夜になっていた。
「……ああ、もうそんな時間か」
「ああ。長居しても悪いしな」
そう言いながら、南川は立ち上がった。
ほんの少し名残惜しそうに、俺の方を見た。
「また、来るからさ」
「…ありがとな」
南川は軽く手を振り、ドアに向かう。
ドアノブに手をかけて、一瞬だけ動きを止めた。
「……スマイル、無理はすんなよ?」
「そのスマイルっての、やめてくれない?」
「……やーだね。そんじゃ、またな」
そう言い残すと、南川は部屋を出た。
ドアが静かに閉まり、病室には再び電子音だけが残った。
「……」
俺は、しばらく天井を見つめたまま動けずにいた。
南川が話さなかったこと。
そして、俺が聞かなかったこと。
そのどちらもが、胸の奥に小さな棘のように残っていた。
それからの日々は、静かで、単調だった。
一月。
ある日のリハビリで、俺は転びかけた。
歩行器に体重を預け、一歩踏み出そうとした瞬間、急に脚から力が抜けた。
「……っ」
床に膝をつく前に、理学療法士が俺の身体を支えた。
「大丈夫ですか?」
「……はい」
そう答えたものの、声は震えていた。
「今日は、ここまでにしましょう」
その言葉が、やけに優しく聞こえた。
それが、たまらなく悔しかった。
これまで何も意識しなくても、当たり前にできていたはずのことが、できなくなる。
それがこんなに怖いことなんだと、当事者になって初めて理解した。
「……すみません」
思わず、そう口にしていた。
「謝る必要はありませんよ」
分かっている。
頭では、ちゃんと分かっている。
それでも――
病室に戻ったあと、俺はしばらく天井を見つめたまま動けなかった。
夜になると、身体の感覚がはっきりする。
脚の重さ。
思うように動かない指先。
寝返りひとつで、呼吸が乱れる自分。
目を閉じると、以前の感覚が蘇る。
走っていた感覚。
階段を駆け上がっていた感覚。
――本当に、戻れるのか。
そんな疑問が、何度も頭をよぎった。
それからも俺は、病室とリハビリ室を往復し、決められた時間に食事をとり、決められた時間に眠る。
世間では新年だ初詣だおみくじだ、と騒いでいるのだろうが、病院の中では、それもどこか他人事だった。
リハビリは、思っていたよりも地味で、きつい。
最初は、ベッドから起き上がるだけで息が上がった。
歩行器に体重を預け、一歩踏み出すたびに、脚が自分のものではないように感じる。
二月。
少しずつ、できることが増えていった。
病棟の廊下を、休み休みではあるが、一人で歩けるようになった。
階段の昇り降りも、手すりを使えば何とかなる。
それでも、外に出られるわけじゃない。
窓の外に見える景色だけが、季節の移り変わりを教えてくれた。
三月に入った頃、病室に担任から連絡があった。
出席日数については、病気療養として扱われること。
レポート提出と面談を条件に、進級は可能だという。
退院は、三月の終わりに決まった。
正直、ほっとした。
それでも、胸の奥には小さな引っかかりが残った。
三月の終わり。
正直、進級できると聞いて、安心したのは確かだった。
けれど、それと同時に、別の感情が胸の奥で静かに広がっていった。
二年生になる。
その言葉は、俺にとって「前に進む」という意味を持つはずだった。
でも今の俺は、まだ病院のベッドの上にいる。
歩くことはできるようになったとはいえ、長い距離を移動すれば、すぐに脚が重くなる。
階段を上り切ったあとには、息が切れる。
――こんな状態で、教室に戻れるのか。
授業についていけるのか。
体育はどうなる。
周りの視線は。
半年もいなかった俺を、クラスはどう迎えるのか。
考え始めると、次から次へと不安が湧いてきた。
南川の話していた教室の風景。
俺の席に、誰かが勝手に座っているという話。
それは冗談みたいな言い方だったけれど、どこか現実を突きつけられた気がした。
俺がいなくても、時間は進む。
クラスは回る。
誰も立ち止まらない。
じゃあ、俺は――
そこに戻ったとき、ちゃんと「居場所」を持てるのだろうか。
二年生になるということは、
ただ学年が一つ上がるというだけじゃない。
取り戻せなかった半年を抱えたまま、
俺はまた、日常の中に放り込まれる。
それが、少しだけ怖かった。
病院の窓から見える桜は、まだ咲き始めたばかりだった。
俺は、それを「春だ」と思う余裕すら、まだ持てずにいた。
四月から、俺は二年生になる。
当たり前だったはずの言葉が、今はどこか現実味を帯びていない。
それでも――
ようやく、時間が俺のところに戻ってきた気がした。




