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第一章2 「殺意の鼓動」

 ――三度目の、産声だった。


「――早く逃げろ! 何をしている、足手まといが!」


 鼓膜を震わせる爆音。心臓を直接鷲掴みにされるような大地の激震。頭上から容赦なく降り注ぐ赤黒い土塊と、生暖かい不浄の液体。

 すべてが、一秒の狂いもなく再生されていた。


 アノの肉体は、強烈な衝撃波によって再び冷たい泥の上へと叩きつけられていた。

 口の中に広がるのは、あの、鉄の錆びたような、ぞっとするほど生臭い血の味。三度目。それは間違いなく、三度目の感覚だった。


「ごほっ、げほっ、ごふっ……! は、あ、う、ぁ……っ!?」


 アノは泥の中に四つん這いになったまま、狂ったように頭を振り回した。

 視界がまともに開かない。涙と、飛び散った泥と、面妖な色の血が混ざり合い、世界を冒涜的な赤と黒に染め上げている。

 だが、今の彼女にとって、目の前の凄惨な光景などどうでもよかった。彼女の精神を完全に破壊せんばかりの勢いで襲いかかってきたのは、脳の奥底に直接焼き付けられた「二つの死の記憶」だった。


 一度目は、胸を槍で真っ直ぐに貫かれた。鉄の冷たさが肺を抉り、自分の血で溺れながら体温を失っていく恐怖。

 二度目は、首を真横から深く切り裂かれた。肉と骨が断たれる悍ましい微振動が首筋を駆け抜け、視界が上下に激しく回転しながら地面に落ちていく絶望。


「あ……あ、あ、ああ、あああああああああああああッ!!」


 アノは自分の頭を両手で激しくむしり取らんばかりに抱え込み、泥水に顔を擦り付けながら絶叫した。

その声は、彼女の聞き慣れた「伊藤アノ」の、少し高めの可愛い声ではなかった。カサカサに乾き、極度の栄養失調と恐怖でひび割れた、獣の子供のような、酷くひ弱な見知らぬ声。

 その事実さえも、今の彼女にとってはただの狂気を加速させる燃料でしかなかった。


「いやだ、いやだいやだいやだ!! 痛い! 痛い痛い痛い痛い痛いッ!!」


 胸が痛い。首が痛い。

 震える手で自分の胸元を何度も何度も、服が破けるほどに掻きむしる。そこには穴なんて開いていない。肌は繋がっている。

 今度は両手で自分の首を強く絞めるように掴む。皮膚は裂けていない。ドクドクと不気味に速い脈動を刻む頸動脈があるだけだ。

 傷はない。血も流れていない。肉体は完全に「巻き戻って」いる。

 ――なのに、脳が、神経が、魂が、あの耐え難い「激痛」を鮮烈に記憶していた。


 人間の脳は、死の苦痛を何度もまともに受け止めるようにはできていない。

 たった二回の死。しかしそれは、十七歳の、温室のような現代社会で生きてきた少女の精神を粉々に粉砕するには、あまりにも過剰な暴力だった。


 アノの頭の中で、何かがパチンと音を立てて弾けた。

 思考の歯車が完全に噛み合わなくなり、感情の制御弁が消し飛ぶ。


「あは、あはは、痛い、痛いよぉ……っ! なんで? なんで繋がってるの? さっき切れたじゃん! わたしの首、あそこに落ちてたじゃん! ゴロゴロって、泥のなかに落ちて、冷たかったじゃん!!」


 涙と鼻水、そして泥にまみれた顔で、アノは狂ったように笑い声を上げた。それは笑いというよりも、壊れた機械から漏れ出す不協和音のようだった。


 脳がバグを起こしている。

 今、自分が生きているのか、それとも死んでいるのかの区別すらつかなくなっていた。

もしかしたら、自分はもう死んでいて、ここは地獄で、自分はただの「痛みを感知するためだけの肉塊」に変えられてしまったのではないか。

 あるいは、五限目の古典の授業中、あまりの退屈さに精神に異常をきたし、これは自分が見ている史上最悪の幻覚なのではないか。


「ユカ……? お母さん……? 見て、わたし、首が繋がってるよ? すごいでしょ? 褒めてよ、ねえ、早くパンケーキ食べに行こうよ……イチゴのやつ、冷たくて美味しいやつ……っ!」


 虚空に向かって、存在しない母や友人の影を追いかけるように手を伸ばす。

 だが、彼女の指先が触れたのは、甘いパンケーキの香りでも、友人の温かい手でもなかった。

立ち込める重苦しい煤煙。炎が爆発する断続的な轟音。そして、鼻腔をこれでもかと蹂躙する、肉の焦げる悍ましい臭いと、ぶちまけられた内臓の死臭。


 現実じごくが、狂った彼女の意識を容赦なく引き戻す。


 地響きが、近づいてくる。

 ズシン、ズシン、という重苦しい、一糸乱れぬ足音。

 カシャ、カシャ、と規則正しく擦れ合う、冷徹な金属の擦れる音。


 アノが涙で歪む視線を恐る恐る上げると、煤煙の向こうから、三度目となる「それ」が現れた。


 白銀の鎧。

 寸分の狂いもなく整然と隊列を組み、地面を踏み鳴らしながら進軍してくる「人間」の兵士たち。彼らが掲げる軍旗には、左右の皿が不均等に傾いた、まるであらゆる平等を否定するかのような不気味な「逆さ天秤」の紋章が、鮮血のような赤で描かれている。


「アイガストロン!」


 前方から、耳を裂くような男の怒号が響いた。

 白銀の軍勢を率いる、一際巨大な鎧を纏った指揮官らしき男。彼が掲げた大剣から放たれた黄金の光が、近くにいた巨大な魔族の身体を一瞬で一刀両断にする。切断された肉体から、生暖かい内臓と血が泥の上にぶちまけられる。

 全く同じ光景。全く同じタイミング。


「ひ……ひいいぃっ……!!」


 アノの壊れた脳に、今度は「恐怖」という名の純粋な劇物が注入された。

 笑いは一瞬で消え失せ、全身の毛穴という毛穴から冷や汗が噴き出す。

 あの白い悪魔たちが来る。

 言葉の通じない、慈悲の欠片もない、自分を「害獣」として淡々と処理する作業員たちが、また自分を殺しにやってくる。


「来ないで……来ないでえええええええっ!!」


 アノは四つん這いのまま、狂ったように泥を掻きむしり、後ろへと下がろうとした。

 しかし、彼女の身体はすでに恐怖によって完全に凍りついており、歪んだ足は思うように動かない。泥のぬかるみに足を取られ、無様に転倒する。

 ズサリ、と激しい痛みが右膝に走った。

 地面に転がっていた鋭利な鉄片。一度目も、二度目も、そしてこの三度目も、彼女は全く同じ場所で、全く同じように右膝を深く切り裂いた。


「ああああああっ! 痛い! またここだ! また切れたぁっ!!」


 膝から溢れ出す赤黒い血を見て、アノは完全に発狂した。

 デジャヴなんて生易しいものではない。自分の未来が、すでに決定されたレールの上を走っていることへの、絶対的な絶望。

 どれだけ足掻いても、どれだけ泣いても、自分はこの後、あの白銀の兵士に気づかれ、胸か、首か、あるいは別の場所を切り裂かれて死ぬのだ。


 逃げ場はない。

 助けに来てくれるヒーローなんて、この世界には一人もいない。

 彼女が日元ひのもとで信じていた「正義」や「人道」なんて言葉は、この戦場においては一滴の水ほどの価値もなかった。


「ディラン」


 すぐ側から、あの冷徹な声が響いた。

 アノが凍りついたように首を巡らせると、そこには血を吸って赤黒く汚れた白銀の鎧を纏った、一人の兵士が立っていた。

 兜の隙間から覗くその目は、青く澄んでいたが、アノを見る視線には一切の感情が籠もっていなかった。彼にとって、足元に転がって泣き叫ぶアノは、ただの「駆除すべき害獣の残党」だった。


「あ……あ……」


 アノの喉から、声にならない悲鳴が漏れる。

 一度目に自分を殺した兵士だ。あの時は胸を貫かれた。

 兵士は無造作に槍を構え直す。その穂先が、アノの胸元へと正確に照準を合わせた。


「いや……嫌だあああああああああッ!!」


 死にたくない、という本能の叫びが、アノの肉体を無理やり突き動かした。

 彼女は怪我をした右足を狂ったように引きずりながら、地面を這い、兵士から遠ざかろうとした。

だが、人間の足と、訓練された兵士の槍の踏み込みとでは、速度の次元が違いすぎた。


 一切の躊躇なく槍を突き出した。


――ドスッ。


 三度目となる、肉を貫く鈍い音。

 それは、アノの胸元ではなく――彼女の「左肩」だった。


「ぎゃあああああああああああッ!?!?!?」


 アノの口から、この世のものとは思えない絶叫が飛び出した。

 胸を狙った槍の穂先が、彼女が必死に身をよじったせいで、左肩の根元へと深く突き刺さったのだ。

 鎖骨が粉々に砕ける嫌な音が、身体の内側から響く。鋭利な刃が肉を裂き、神経をズタズタに切断しながら、肩の向こう側へと完全に突き抜けた。


「痛い! 痛い! 痛い! 離して! 抜いてぇっ!!」


 アノは狂ったように右手を振り回し、自分の肩に突き刺さった槍の柄を掴んで引き剥がそうとした。

 しかし、兵士は表情一つ変えず、突き刺した槍の柄を両手で強く握り締めると、そのまま地面に向けて「グッ」と体重をかけた。


「あ、ひ……っ!?」


 槍の穂先が泥の深くに突き立てられ、アノの肉体は、左肩を貫かれた状態で地面へと完全に「縫い付けられた」。

 激痛が波のように押し寄せ、脳が焼き切れそうになる。動こうとするたびに、槍の刃が傷口の中で肉を抉り、骨を削る。赤黒い鮮血が、ボロ布の衣服を瞬く間に真っ赤に染め上げていった。


 兵士はアノの抵抗を完全に無視し、腰に下げていた短剣ダガーへと手を伸ばした。

 槍で動きを止め、短剣で確実に首を撥ねる。それが彼らの、害獣を処理するための「洗練されたマニュアル」なのだろう。


「いやだ……いやだ……!」


 アノは涙で視界が真っ白になる中、死に物狂いで動く右手で、泥の中に落ちていた「何か」を掴んだ。

 それは、先ほど死んだ魔族が残していった、刃こぼれだらけの粗末な鉄のナイフだった。

 日元の世界では、料理の包丁すらまともに握ったことのなかった少女。テストの点数や、友達とのLINEの返信に一喜一憂していただけの、普通の女子高生。

 その彼女が、今、生きるために、本能だけでその武器を握りしめていた。


「あ、あ、ああああああっ!!」


 アノは叫びながら、掴んだ鉄のナイフを、目の前に屈み込もうとした白銀の兵士の「足首」に向けて、全力で突き立てた。


 カキン、と高い音が響く。

 最底辺の雑魚兵の、栄養失調で細りきった腕力。しかも刃こぼれしたナイフだ。人間の強固な魔力防御が施された白銀の金属鎧を貫通することなど、できるはずがなかった。ナイフの刃は、兵士の装甲に虚しく弾かれ、アノの右手から滑り落ちた。


 兵士の動きが一瞬、止まった。

 怒ったわけではない。ただ、「まだ抵抗するだけの不快な生命力が残っている」という事実を、淡々と処理すべきタスクとして認識しただけだ。

 兜の隙間から覗く澄んだ青い瞳が、虫ケラを見るような冷たさでアノを見下ろす。

 彼は抜いた短剣を逆手に持ち替え、アノの顔面に向けて、容赦なく振り下ろした。


「――っ!」


 アノは反射的に顔を背けた。

 ドスッ、という鈍い音と共に、短剣はアノの右目を掠め、彼女の「右頬」から「顎」にかけてを深く切り裂いた。

 肉が裂け、歯茎が露出するほどの深い傷。口の中に、大量の血が溢れ出す。


「う、あ、が……っ!!」


 声にならない悲鳴。右目の視界が、溢れ出た己の血によって一瞬で真っ赤に染まり、機能しなくなる。

 痛みが多すぎて、脳がどこの痛みを優先して処理すればいいのか分からなくなっていた。全身が熱い。全身が激しく燃えるように痛い。


 兵士は短剣を引き抜くと、今度こそアノの細い喉元を完全に切断すべく、刃を水平に構えた。

 逃げられない。左肩は地面に縫い付けられ、右足は動かず、顔は切り裂かれている。

 確実な、三度目の死が、目の前に迫っていた。


(神様……お願い……誰か……誰でもいいから……助けて……っ!)


 心の中で、届くはずのない祈りを捧げる。

 だが、世界はどこまでも残酷で、孤独だった。


 白銀の兵士の短剣が、電光のような速度でアノの首へと振り下ろされる。


 ――ザクッ。


 悍ましい手応えと共に、アノの視界が、今度は真横に激しく傾いた。

 二度目と同じ。首を撥ねられたのだ。

 切り離された頭部が泥の上をゴロゴロと転がり、その開いたままの右目で、自分の首から上がなくなったボロ布の肉体が、ピクピクと痙攣しながら大量の血を噴き上げている光景を、最期に目撃した。


(ああ……また……また、死んだ……)


 圧倒的な絶望と苦痛の中、伊藤アノの意識は、三度目となる完全な暗黒へと突き落とされた。


********************


「――早く逃げろ! 何をしている、足手まといが!」


「――ひ、あ、っ!?!?!?」


 四度目の、産声。

 凄まじい爆音。大地の震え。

 頭上から降り注ぐ、赤黒い土塊。


「ごほっ、ごふっ……! あ、あ、は、あははははははははははははははッ!!」


 アノは泥の中に四つん這いになったまま、狂ったように高笑いを上げ、同時に大粒の涙をボロボロと流した。


 壊れた。完全に、彼女の精神の何かが、修復不可能なレベルで粉々に噛み砕かれていた。

 胸を貫かれた痛み。首を切られた痛み。肩を縫い付けられた痛み。顔を切り裂かれた痛み。

 三つの凄絶な死の記憶が、一瞬にして彼女の脳内にフラッシュバックし、神経を激しくマヒさせる。


 傷はない。血も流れていない。衣服も無事だ。

 なのに、全身が痛い。存在しないはずの傷口が、じくじくと焼けるように熱い。


「死ねない……死ねない死ねない死ねない!! なんで死なせてくれないのぉっ!? 痛いよ! もう嫌だよ! おうちに帰らせてよぉ!!」


 泥水を顔中に塗りたくりながら、アノは発狂した獣のように叫び続けた。


 しかし、戦場は彼女の狂気を待ってはくれない。

 煤煙の向こうから、あの冷徹な「逆さ天秤」の軍旗が、四度目となる進軍を開始していた。


「アイガストロン!」


 指揮官の男の咆哮。

 アノの全身の細胞が、恐怖によって強烈な拒絶反応を起こした。

 あのままだと、またあの兵士が来る。また肩を刺され、顔を裂かれ、首を切られる。


「いやあああああああああああッ!!」


 アノは立ち上がることすら忘れ、四つん這いのままで、犬や虫のように無様に地面を這いずり回りながら、全力で逃げ出した。

 右膝の鋭利な鉄片? そんなもの、もうどうでもよかった。ガリ、と肉が裂ける感触がしたが、そんな小さな痛み、すでに脳内に蓄積された「死の激痛」に比べれば、蚊に刺されたようなものだった。


 とにかく、あの白銀の軍勢から離れる。それだけが、彼女の残された唯一の生存本能だった。

 誰も助けてくれない。誰も味方はいない。

 孤独な、無力な雑魚兵アノは、ただひたすらに、血と泥にまみれた地獄の戦場を、狂気と共に逃げ惑うしかなかった。


「はっ、……あ、が、……はぁ、はぁ、はぁっ……!」


 どれほど泥の中を這い、走っただろうか。

 周囲の景色は、もはや地獄のそれですらなかった。ただの、黒と赤の混沌。

 上空を覆う黒煙はさらに密度を増し、太陽の光を完全に遮断している。視界は十メートル先すら定かではなく、ただ遠くの方で何かが爆発する轟音と、肉の焦げる悍ましい臭いだけが、ここが戦場であることを告げていた。

 地面には、原型を留めていない魔族の死体が山のように積み重なっている。あるものは下半身を失い、あるものは頭部を完全に叩き潰され、赤黒い血の池を作っていた。アノはその死体の山を、文字通り乗り越え、滑り落ちながら、必死に足を動かした。


 日元ひのもとでの生活では、体育の授業で数百メートル走っただけで息を切らしていた。

 だが、今のこのガリガリに痩せ細った、奴隷のような肉体は、恐怖という名の劇物によって限界を超えて駆動していた。心臓が胸の下で破裂しそうなほどに暴れ狂い、喉の奥が乾燥して血の味がする。


(ここなら……ここなら、あの男は来ない……!)


 アノは、巨大な四足歩行の魔獣の、内臓が飛び出た死体の陰に身を潜めた。死体の生暖かい肉の壁に背中を預け、ガタガタと震える膝を抱え込む。

 勝った、とは思わなかった。ただ、あの『決まった死』のルートから外れることができたという事実に、ほんの少しだけの安堵を覚えた。


 だが、その安堵は、一瞬にして打ち砕かれる。


「――ディラン」


 すぐ耳元で、冷徹な、けれど低い男の声が響いた。

 アノの心臓が、大音量で跳ね上がった。


 カシャ、という不吉な金属音。

 黒煙を割って現れたのは、あの青い瞳の男ではなかった。だが、纏っているのは全く同じ、あの忌まわしい『逆さ天秤』の紋章が刻まれた、白銀の甲冑。

 別の兵士だ。

 彼は、死体の陰に隠れて震えているアノを、まるで見慣れた害虫でも見つけたかのような、極めて平坦な視線で見下ろしていた。


「あ……、あ……」


 アノの喉から、カサカサとした乾いた悲鳴が漏れる。

 逃げても、方向を変えても、結局のところ、この戦場全体が白銀の悪魔たちによって完全に包囲され、駆除の真っ最中なのだという残酷な現実が、彼女の前に突きつけられた。

 兵士は、何も言わずに槍を水平に構えた。

 その動作には、一切の躊躇も、あるいは魔族に対する怒りや憎しみすらもない。ただ、上司から命じられた作業を淡々とこなす、冷酷な機械のそれだった。


「いや――」


 アノが叫ぶよりも先に、兵士の足が泥を爆発させた。

 速い。人間の動体視力では、到底捉えきれない突き。


――ドスッ!!!


「が、はぁっ!?!?!?」


 凄まじい衝撃と共に、アノの身体が死体の壁へと激しく叩きつけられた。

 痛い。熱い。焼ける。

 見れば、鋼鉄の槍の穂先が、彼女の『右肩』の付け根を深く貫通し、背後の魔獣の死体にまで深く突き刺さっていた。

 骨が砕ける「メキメキ」という鈍い音が、自身の体内で響き渡る。肉が引きちぎられ、太い血管が破られたことで、赤黒い鮮血が間欠泉のように傷口から噴き出した。


「ああああああああああああああああッッ!!!!! 痛い! 痛い痛い痛い痛い痛い痛いッ!!」


 アノは狂ったように絶叫した。

 まただ。またこの痛みだ。三度目の死の時に味わった、あの左肩を貫かれた激痛と、全く同じ、いや、それ以上の苦痛が、今度は右肩を襲っていた。

 神経が、怒涛の勢いで脳へ「破壊」の信号を送り続ける。全身がガタガタと痙攣し、あまりの激痛に視界がチカチカと明滅する。


 兵士は、槍を突き刺したまま、さらに深く踏み込もうとした。アノの息の根を確実に止めるために、槍を抉り回そうとしているのだ。


(死ぬ。また死ぬ。またあの真っ暗な闇の中に落ちて、またあの最初の爆発の場所に戻される)

(もう嫌だ)

(あんな痛いのは、あんな苦しいのは、もう一回だって耐えられるわけがない!!)


「死にたくない……死にたくない死にたくない死にたくない死にたくないッ!!!」


 アノの脳内で、生存への執着が、完全に正気モラルのタガを吹き飛ばした。

 彼女は、貫かれた右肩の激痛で意識が飛びそうになりながらも、残された『左手』と、そして自由な『右手』――骨が砕け、肉が繋がっているだけの右腕を、執念だけで無理やり動かした。


 彼女は両手で、自分の肩に突き刺さっている鋼鉄の槍の柄を、ガチリと掴んだ。

 傷口が抉られ、さらに血が噴き出す。だが、そんなものはどうでもよかった。死ねば、どうせまた元の場所に戻されるのだ。だったら、今この瞬間の痛みのすべてを、この男を殺すための力に変えてやる。


「あ、あああああああああッ!!」


 アノは叫びながら、槍の柄を掴んだまま、自らの身体をさらに『前』へと押し出した。

自ら槍の奥深くへと肉体を滑り込ませる、完全な狂気の行動。

 当然、右肩の傷口はさらに大きく裂け、鎖骨の破片が肉を突き破って外へと飛び出した。だが、その狂気的な踏み込みによって、アノと白銀の兵士との距離は、一瞬にしてゼロになった。


「――ッ!?」


 兜の奥の兵士の目が、驚愕に引きつった。

 害獣が、自ら槍を深く突き刺しながら、自分に向かって突っ込んできたのだ。マニュアルに基づいた彼の洗練された動きが、その想定外すぎるイレギュラーによって、ほんの一瞬だけ停止する。


 その隙を、アノは絶対に見逃さなかった。

 彼女は狂気に染まった目で兵士を睨みつけ、掴んでいた左手を離すと、男の白銀の兜へと伸ばした。

 狙うのは、兜の、目を保護するための細いスリット。


「お前が、死ねよぉぉぉぉぉぉぉぉぉッッ!!!」


 アノは、自分の爪が剥がれ、指の肉が鎧の角で削れて白骨が露出するのも構わず、男の兜の隙間にその細い指を全力で突っ込んだ。

 確かな手応え。

 指先が、男の『眼球』へと到達する。


「グ、ア、ガァァァァァァァァァァァッッ!?!?!?」


 兵士の口から、凄まじい絶叫が上がった。

 アノは、男の悲鳴を子守唄のように聞きながら、さらに指を深く突き入れ、男の眼窩の奥を力任せに抉り回した。ぬるりとした脳漿と、熱い人間の血が、アノの左手をドロドロに染め上げていく。

 男は激痛に狂い、槍を放してアノの身体を無理やり引き剥がそうとした。だが、アノは右肩に槍が突き刺さったまま、自らの肉体を楔にして男に組み付き、絶対に離さなかった。


「はは、あはは! 痛い? 痛いでしょ!? わたしの方が、もっと痛かったんだよ!!」


 男が悶え苦しみ、地面へと無様に転倒する。アノもその上に重なるようにして倒れ込んだ。

 男の右目は完全に潰れ、そこから大量の鮮血が溢れ出していた。だが、彼はまだ死んでいない。左目でアノを呪うように睨みつけながら、腰の短剣ダガーへと手を伸ばそうとしていた。


(まだだ。まだ生きてる。殺さなきゃ。完全に殺さなきゃ、わたしが殺される!)


 アノは、自分の右肩を貫いている槍の柄を、震える左手で掴んだ。

 そして、歯を食いしばり、凄まじい絶叫と共に、自分の肉体からその槍を『引き抜いた』。


「ぎ、い、ぃぃぃぃぃぃぃぃぃっっッ!!!」


 肉と内臓が擦れ合う、最悪の感触。槍の返しが肉を内側からズタズタに引き裂き、アノの口から大量の血が溢れ出た。

 だが、彼女は止まらなかった。

 引き抜いた鋼鉄の槍を、両手で、残されたすべての力を振り絞って持ち上げる。


 狙うのは、男の首元。鎧と兜の、ほんのわずかな『隙間』。


「死ねえええええええええええええええええええッッ!!!!!」


 アノは、全体重をかけるようにして、槍の穂先を男の首の隙間へと突き立てた。


――グサリッ!!!


 確かな、肉と骨を貫通する手応え。

 槍の刃は、男の喉笛を正確に捉え、そのまま地面へと突き抜けた。


「が、はっ、……あ、……」


 男の左目から、急速に光が失われていく。

 口から大量の泡立った血を吹き出し、白銀の甲冑を纏った肉体が、ビクビクと二、三度大きく痙攣した。

 そして――完全に、動かなくなった。


 しんと、静寂が訪れた。

 いや、周囲ではまだ爆音も、魔族たちの悲鳴も響いていたはずだった。だが、アノの耳には、何も聞こえなくなっていた。


「はぁ、……はぁ、……はぁ、……」


 アノは、男の死体の上に馬乗りになったまま、呆然と自分の両手を見つめた。

 左手は、男の眼球と脳漿でドロドロに汚れている。

 右手は、自分の右肩から溢れ出た血で真っ赤に染まっている。

そして、目の前には、自分が今、この手で命を奪った『人間』の死体。


 初めてだった。

 日元の世界では、虫一匹殺すのすら躊躇っていた、普通の女子高生。

 それが今、生きるため、死にたくないというただそれだけの理由で、一人の人間の目を潰し、喉を貫いて、確実に『殺した』のだ。


 その事実が、彼女の脳内に、激痛とは全く異なるベクトルの『悍ましさ』として押し寄せてきた。


「う……、あ……」


 心臓が、嫌な音を立てて脈打つ。

 男の死体から漂う、生々しい血の臭い。自分が奪った命の重みが、手のひらを通じて、彼女の魂を汚染していくような感覚。

 恐怖。絶望。自己嫌悪。そして、耐え難い拒絶反応。


「う、うぇっ……! お、ごほっ……、げほっ!!」


 アノは男の死体から転げ落ちるようにして泥の上に四つん這いになり、激しく嘔吐した。

 口から出たのは、自分の血と、胃の中の酸っぱい液体だけだった。身体が、自分が犯した罪を外へと吐き出そうとするかのように、何度も何度も激しく、胃が反転するほどに収縮する。


「あ、が、……いや、嫌だ、わたしは、わたしはただ……っ!」


 涙が溢れて、視界がぐしゃぐしゃになる。

 人を殺してしまった。私はもう、元の世界には戻れないかもしれない。こんな、バケモノみたいな手をして、人を殺して、笑って、私は一体何になってしまったんだ。


 泥の中に顔を伏せ、声を上げて泣きじゃくるアノ。

 右肩の傷口からは、未だにドクドクと血が流れ落ち、彼女の体力を確実に奪っていた。失血死による『次のループ』が、すぐそこまで近づいている。


 だが、その時だった。


 ――ザザッ、と。

 男の死体の向こう側の黒煙から、新たな影が現れた。


(あ……、また、きた……。今度は、どっち……?)


 アノは、朦朧とする意識の中で、絶望を通り越した虚無感と共にその影を見上げた。

 もう、戦う力は残っていない。右肩は動かず、左手も震えている。次の一撃が来れば、今度こそ無抵抗で死ぬだけだ。


 しかし、黒煙から姿を現したのは、あの忌まわしい白銀の甲冑ではなかった。


 そこに立っていたのは、一人の『魔族』だった。

 筋骨隆々とした逞しい肉体に、数々の戦傷が刻まれた、無骨な黒い革鎧レザージャケットのようなものを纏った女戦士。

 頭部からは、アノと同じように立派な角が1本、天に向かって鋭く伸びている。その手には、白銀の兵士たちの返り血でべっとりと濡れた、巨大な戦斧ハルバードが握られていた。


 女戦士は、足元に転がる白銀の兵士の死体と、その傍らで泥にまみれて嘔吐しているアノの姿を、交互に見つめた。

 その燃えるような赤い瞳に、微かな、けれど確かな『驚愕』の色が浮かぶ。


「――お前が、仕留めたのか?」


 女戦士の口から出た言葉。

 それは、日元ひのもとのどの言語とも違っていた。

 だが――どうしてだろうか。


 アノの耳には、その言葉の意味が、なぜか痛烈なほどに『理解』できていた。

書き溜めていたのでどんどん投稿していきます

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