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第一章1 「終わらない死の秒針」

 ――五限目の、古典の授業だった。

 天井で頼りなく回る古い扇風機が、ぬるい空気をかき混ぜている。黒板を擦るチョークの乾いた音と、初夏の湿気を含んだ気だるい空気が、教室全体を支配していた。

 窓際の席に座る伊藤アノ(いとうあの)は、頬杖をついたまま、開いた教科書の隅にシャープペンシルで無意味な落書きを続けていた。


『……げに利なきこわがりをせしものかな。あはれ、かの人の行く末はいかがなりけむ……』


 教壇に立つ年老いた教師の、抑揚のない朗読が鼓膜を素通りしていく。


 アノはごく普通の、どこにでもいる十七歳の女子高生だった。

 特別に成績が良いわけでもなければ、クラスの中心で目立つような華やかさがあるわけでもない。毎朝、母親に「早く起きなさい!」と怒鳴られて渋々ベッドから這い出し、スマートフォンの画面で電車の遅延情報を確認しながら、満員電車に揺られて都内の都立高校へ通う。それが彼女の日常だった。


(……進路、どうしようかな)


 机の引き出しに突っ込んだままの、真っ白な進路希望調査票のことを思い出し、アノは小さくため息をついた。

 やりたいことなんて、特になかった。大学に行く意味もわからないし、かといって働きたいわけでもない。ただ、明日も明後日も、この退屈で、けれど絶対的に安全な日常が続いていくことだけは、疑いもしなかった。


 放課後は、親友のユカと駅前に新しくできたカフェに行く約束をしている。期間限定の、イチゴが乗ったふわふわのパンケーキを食べるのだ。スマートフォンの画面には、ユカから「マジ五限長すぎ。早くパンケーキ食べたい笑」というメッセージが届いたままになっている。


(あと十分……早く終わらないかな……)


 時計の針を見つめ、秒針が刻む微かな音に耳を澄ませていた、その時だった。


 ――ぐにゃり、と。

 世界が、奇妙にねじれた。


「え……?」


 視界が、水槽の底から水面を見上げたときのように激しく歪む。

 チョークの音が一瞬で遠ざかり、教師の朗読が引き延ばされたテープのような不気味な低音へと変わる。

 心臓がドクン、と大音量で跳ね上がった。めまいとは違う。地面そのものが存在をなくし、底なしの奈落へと落下していくような恐怖がアノを襲う。

 叫ぼうとしたが、声が出ない。

 ユカの顔を見ようと首を巡らせたが、隣の席にあったはずの机も、友人の姿も、コンクリートの壁も、すべてが油絵の具をかき混ぜたように混ざり合い、急速に暗転していった。


 光が消える。音が消える。

 冷たい虚無の中を、ただただ落ちていく感覚だけがあった。


 どれほどの時間が経ったのだろうか。数秒のようでもあり、数年のようでもあった。真っ暗な暗闇の中で、アノの意識は急速に混濁し、自分が誰であるのかさえ失われそうになっていた。ただ、全身を襲う凄まじい悪寒と、強烈な吐き気だけが、彼女がまだ存在していることを証明していた。


********************


「――早く逃げろ! 何をしている、足手まといが!」


 突如として、鼓膜を破らんばかりの、凄まじい怒号が耳を突き刺した。

 直後、爆音と共に大地が激しく揺れ動いた。


「ひあぅっ!?」


 アノの身体は、強烈な衝撃波によって地面へと叩きつけられていた。

 頭上から降り注ぐのは、赤黒い土塊と、正体不明のどろりとした生暖かい液体。

 反射的に口を開けて悲鳴を上げようとしたため、その液体がいくつか、彼女の唇を濡らし、舌の上に滑り込んできた。


「ごほっ、げほっ……! う、うぇ……!?」


 強烈な、鉄の錆びたような生臭さが口いっぱいに広がる。本能的な嫌悪感に突き動かされ、アノは泥の中に四つん這いになりながら、激しく嘔吐した。


 視界がまともに開かない。涙と、飛び散った泥と、面妖な色の血が混ざり合い、世界を冒涜的な赤と黒に染め上げている。


「なに……これ……なんなの……!?」


 パニックを起こした脳が、必死に現状を理解しようと拒絶反応を起こす。

 古典の授業は? 教室は? 学校はどこへ行った?

 なぜ自分は、じっとりとした冷たい泥の上に倒れているのか。

 上空を見上げようとしたが、立ち込める重苦しい黒煙が視界を遮り、太陽の光すら遮断している。ただ、遠くの方で赤い炎がメラメラと燃え盛り、何かが爆発するような音が断続的に響いていた。


「お母さん……? ユカ……? 誰か、助けて……!」


 声を張り上げようとして、アノは自分の喉から出た声の異質さに戦慄した。

 それは、彼女の聞き慣れた「伊藤アノ」の、少し高めの声ではなかった。カサカサに乾き、まるで長い間まともな水分を補給していない老人のように掠れた、酷くひ弱な、見知らぬ声だった。

 その声の響きそのものに、彼女は底知れない恐怖を覚えた。自分の身体の底から発せられたはずの音が、全くの他人のもののように感じられるのだ。


 恐怖に震えながら、アノは泥に突き立てた自分の両手を見つめた。

 息が止まった。

 そこに現れたのは、日元の学校に通っていた頃の、白く細い、昨晩丁寧にマニキュアを塗ったばかりの自分の手ではなかった。

 爪はどれも根元から割れて剥がれかけ、皮膚は青白く土気色に汚れ、何より骨格そのものが酷く歪んでいる。節くれ立ち、極度の栄養失調と過酷な肉体労働を何年も強いられてきたかのような、まるで家畜か奴隷のそれだった。


 自分の腕に目を向けると、信じられないほど細く、ガリガリに痩せ細っている。皮膚には無数の古い傷痕や火傷の跡が刻まれており、不衛生な垢がこびりついていた。衣服に目を落とせば、それは服と呼ぶのもおぞましい、垢と血にまみれたボロ布の切れ端だった。それは紐のようなもので辛うじて身体に巻き付けられているだけで、下着さえ身につけていないようだった。


「これ……誰の手……? わたし……どうなっちゃったの……!?」


 狂いそうなほどの混乱が頭を殴りつける。衣服の隙間から覗く胸元や腹部も、やはり自分のものではなかった。まるで別人の肉体に、自分の意識だけが無理やり押し込まれたかのような感覚。

 だが、周囲の状況は、彼女に一瞬の思考の猶予すら与えなかった。


 地響きが、近づいてくる。

 ズシン、ズシン、という重苦しい足音。そして、カシャ、カシャ、と規則正しく擦れ合う、冷徹な金属の音。

 アノが這いつくばったまま、恐る恐る視線を上げると、煤煙の向こうから「それ」が現れた。


 白銀の鎧。

 寸分の狂いもなく整然と隊列を組み、地面を踏み鳴らしながら進軍してくる「人間」の兵士たちだった。彼らが手にする巨大な盾や、高く掲げられた軍旗には、おぞましく逆さになった天秤の紋章が、鮮血のような赤で描かれている。その紋章は、左右の皿が不均等に傾いており、まるであらゆる平等を否定するかのような不気味さを放っていた。


 日元の世界であれば、それは映画やアニメに出てくる「正義の騎士」のように見えたかもしれない。だが、今の彼らが放つ空気には、一滴の慈悲も、人間性も感じられなかった。

 白銀の騎士たちは、地面に倒れてピクピクと動いている生き物たちを、まるで行く手を阻むゴミでも片付けるかのように、淡々と槍で突き刺していた。躊躇いも、怒りも、快楽すらもない。ただ淡々と、作業のように命を奪っていく。


 その槍に突き刺されているのは――人間ではなかった。

 頭部から不格好な角を生やした者たちだ。彼らは一様に、衣服とも呼べないボロ布を纏い、粗末な鉄の鍬や刃こぼれしたナイフを握りしめたまま、無残に切り裂かれ、内臓をぶちまけて死んでいた。

 それは、アノがこれまでの人生で一度も見たことのない、本物の「怪物」や「亜人」と呼ばれる類の姿だった。しかし、彼らが流す血は真っ赤で、死に際に上げる悲鳴は、あまりにも生々しく苦痛に満ちていた。


「アイガストロン!」


 前方から、耳を裂くような男の怒号が響いた。

 白銀の軍勢を率いる、一際巨大な鎧を纏った指揮官らしき男だ。彼が掲げた大剣から、目も眩むような黄金の光が放たれ、近くにいた魔族の身体を一瞬で一刀両断にした。切断された肉体から、生暖かい内臓と血が泥の上にぶちまけられる。

 男の使った言葉は、日元ひのもとのどの言語とも違っていた。英語でも、日本語でも、古典で習った古い言葉でもない。アノにはその言葉の意味が、全く理解できなかった。


 ただ、その咆哮の直後、白銀の兵士たちが一斉に武器を掲げ、残忍なまでの速度で周囲のバケモノたちを駆除し始めたのを見て、彼女は理解した。

 ここは、言葉の通じない場所だ。

 そして、圧倒的な暴力だけがすべてを支配する、地獄の戦場なのだと。自分がなぜここにいるのか、この身体が何なのかは分からない。しかし、今すぐにここから離れなければ、あの白銀の男たちに虫ケラのように殺されることだけは確実だった。


「ひっ……あ、ああ……っ!」


 生存本能が、アノの凍りついた肉体を無理やり突き動かした。

 ここから離れなければ殺される。理由なんてどうでもいい。とにかく逃げなければ。

 彼女は立ち上がろうとしたが、歪んだ足は思うように動かず、ぬかるんだ泥に足を取られて無様に転倒した。

 ズサリ、と激しい痛みが右膝に走る。見れば、地面に転がっていた鋭利な鉄片で深く切り裂いてしまったらしく、泥の中に赤黒い血がどくどくと流れ出していた。


「痛い……痛いよ……っ!」


 あまりの激痛に、アノは涙を流した。日元の世界では、紙で指を切っただけでも大騒ぎしていたのだ。肉が裂け、骨が見えそうなほどの怪我など、耐えられるはずがなかった。

 周りは、息絶えた者たちの死臭と、肉の焦げる悍ましい臭いで満ちていた。すぐ横には、上半身を完全に吹き飛ばされたバケモノが転がっている。そのちぎれた断面からは、まだピクピクと動く筋肉が見えていた。

 少し先には角を持つ、まだ幼い子供のような姿の生き物が、頭を叩き潰されてピクリとも動かなくなっていた。その開いたままの瞳は、泥水に浸かりながら、虚空を睨みつけていた。


 夢だ。これは絶対に悪い夢だ。古典の授業中に居眠りをして、ひどい悪夢を見ているだけだ。目が覚めれば、いつもの教室で、ユカが私の肩を叩いて「また寝てたでしょ」って笑ってくれるはずなんだ。

 そう自分に言い聞かせようとするが、右膝から伝わってくる、じくじくとした焼けるような激痛が、これが容赦のない「現実」であることを突きつけてくる。


「いや……嫌だ、死にたくない! 誰か、助けてよ……! おうちに帰らせて……!」


 泥水をすすりながら、アノが必死に這い進もうとしたが、誰も彼女の手を掴んではくれない。周りにいるのは、すでに物言わぬ肉塊に変えられた同胞たちか、あるいは蜘蛛の巣に引っかかった虫のように無様に逃げ惑う最底辺の魔族たちだけだった。彼らもまた、己の命を守ることで精一杯であり、泥にまみれて泣き叫ぶアノのことなど、一瞥をくれることすらしない。


 冷酷な金属の足音が、すぐ後ろまで迫っていた。

 アノの頭上に、巨大な影が落ちる。


 ハッと息を呑んで振り返ると、そこには一人の白銀の兵士が立ち塞がっていた。

 血を吸って赤黒く汚れた鎧。兜の隙間から覗くその目は、青く澄んでいたが、アノを見る視線には一切の感情が籠もっていなかった。

 彼にとって、怯えて泣き叫ぶアノは、対話をする相手でもなければ、憐れみをかける対象でもない。ただの「駆除すべき害獣の残党」でしかないのだ。


「あ、あ……あ……」


 アノは腰を抜かしたまま、両手両足で狂ったように泥を掻きむしり、後ろへ下がろうとした。

だが、背中がすぐに生暖かい塊にぶつかる。振り返ると、そこには先ほど死んだ別の魔族の、内臓が飛び出た死体があった。死体の冷たさと、ぬるりとした感触が背中に伝わり、彼女はさらに悲鳴を上げた。


 逃げ場はない。

 助けに来てくれるヒーローもいない。

 言葉の通じない絶対的な強者の前で、彼女はただの孤独な獲物だった。

 白銀の兵士が、無造作に槍を構え直す。その穂先が、アノの胸元へと正確に照準を合わせた。


(なんで……なんでわたしが、こんな目に遭わなきゃいけないの……!?)


 日元での退屈な毎日が、どれほど幸福な温室だったかを、アノは今更のように思い知らされていた。あの白くて綺麗な進路希望調査票。友達との他愛のないおしゃべり。母の作る不格好な卵焼き。テストの点数に一喜一憂していたこと。そんな、くだらなくて、けれど最高に愛おしかったすべてが、もう二度と手の届かない遥か彼方へと消え去ろうとしている。


「ディラン」


 兵士が冷淡に呟き、一切の躊躇なく槍を突き出した。


――ドスッ。


 肉を貫く鈍い音が、アノの身体の内側から響いた。

 一瞬、何が起きたのか分からなかった。ただ、胸の中央に、冷たい鉄の感覚が凄まじい質量とともに押し入ってきた。

 遅れて、激しい痛みが、爆発するように胸の真ん中から全身へと広がっていく。


「あ、――か、はっ……!」


 息を吸おうとしたが、空気が入ってこない。代わりに、ゴボゴボと泡立つ熱い液体が喉をせり上がってきて、口から溢れ出した。自分の血だった。

 肺が、自分の血で満たされていくのがわかる。溺れるような苦しさと、身体の芯から急速に体温が奪われていく恐怖が、アノを支配した。心臓が無理やり活動を止められ、全身の筋肉が強張っていく。


 視界が、急速に色を失っていく。

 白銀の兵士の姿も、逆さになった天秤の旗も、すべてが灰色に染まり、やがて真っ黒な闇へと沈んでいく。

 身体の感覚が消え、自分が地面に倒れ込む衝撃すら、もう感じられなかった。ただ、耳の奥で、自分の心臓が最後にドクン、と弱々しく脈打つ音だけが聞こえた。


(ああ……痛い、苦しい……わたし、死ぬんだ……こんな、知らない場所で……ひとりで……)


世界のすべてが音を立てて崩壊するように、伊藤アノの意識は、完全に途絶えた。


*********************


「――早く逃げろ! 何をしている、足手まといが!」


「――ッ!?」


 凄まじい爆音。大地の震え。

 頭上から降り注ぐ、赤黒い土塊。

 臨場感を持った強烈な風圧が、アノの身体を再び地面へと吹き飛ばした。

 地を這うような悲鳴が遠くで響き渡り、火の粉が視界をよぎる。

 そして口の中に広がる、あの、鉄の錆びたような、強烈な生臭い味。


「ごほっ、げほっ……! は、あ、え……っ!?」


 アノは激しく咳き込みながら、泥の中に四つん這いになっていた。


 パニックを遥かに通り越した、未知の狂乱が彼女の脳内を直撃した。

 今、自分は胸を槍で貫かれて死んだ。間違いなく死んだ。

 あの、心臓を抉られた絶対的な死の感触、肺が血で満たされる息苦しさ、全身の感覚が冷たくなっていくあの恐怖は、決して夢や幻なんかではなかった。現に、彼女の精神には、死の瞬間の激痛が生々しく刻み込まれており、今も胸の真ん中がジクジクと痛むような錯覚に襲われていた。


 しかし、震える両手で自分の胸元を何度も何度も叩いて確認しても、そこからは一滴の血も流れていなかった。

 ボロ布の衣服には穴一つ開いておらず、肌にも傷はない。骨格の歪んだ土気色の手も、剥がれかけた爪も、そのままだ。


「なに、これ……どういうこと? わたし、確かに殺されたはずじゃ……」


 呆然と立ち尽くす彼女の視界の先。

 立ち込める煤煙が激しい風に流され、再び「それ」が姿を現した。


 白銀の鎧を纏った、人間たちの軍勢。

 高く掲げられた軍旗には、あのおぞましく逆さになった天秤の紋章が、不気味に揺れている。


「アイガストロン!」


 指揮官の男の、あの地響きのような咆哮。

 全く同じ声。全く同じ、理解不能な響き。全く同じタイミング。


 何が起きているのか、アノにはさっぱり分からなかった。

 ここはどこなのか、あの兵士たちは何なのか、なぜ自分がこんな目に遭わなければならないのか。彼女には、世界の仕組みも、自分の置かれた状況も、何一つ理解できない。神様が自分にどんな力を与えたのか、あるいは呪いを与えたのか、そんなシステムのことなど知る由もない。

 けれど、ただ一つだけ、自分の肉体と精神に刻まれた記憶が、確実な事実を告げていた。


 世界が、巻き戻っている。時間が戻ったのだ。


「嘘……嘘でしょ……そんなの、ありえない……!」


 アノは恐怖に歯をガタガタと鳴らした。誰も助けてくれないこの地獄のスタートラインへと、強制的に引き戻される。その事実に、胸の奥から冷たい戦慄がせり上がってくる。


「ディラン」


 少し離れた場所で、先ほどアノを殺したあの白銀の兵士が、別の逃げ惑う魔族を無慈悲に槍で突き刺すのが見えた。

 アノの全身の毛が逆立った。

 これが何なのかは分からない。けれど、このままここにいれば、あの男がこちらに気づき、自分はあと数十秒後に、再びあの槍で胸を貫かれて死ぬ。それだけは、嫌というほど理解できた。あの痛みを、あの恐怖を、もう一度味わうなんて、絶対に御免だ。


「嫌だあぁぁぁぁぁぁっ!!」


 アノは狂ったように叫び、今度は後ろを振り返ることもなく、がむしゃらに横へと這いつくばりながら逃げ出した。

 ボロ布の裾を引きずりながら、泥の中を必死に走った。転びそうになりながらも、なりふり構わず、ただあの白銀の兵士から遠ざかることだけを考えて足を動かした。誰も私のことなんか見ていない。けれど、誰も私を助けにも来ないのだ。生き延びるためには、この頼りない、歪んだ足で走るしかなかった。


 だが、右も左も分からない見知らぬ戦地だ。どこに何があるのかも、どこが安全なのかもわからない普通の女子高生が、闇雲に走ったところで、逃げ道などあるはずがなかった。地面には無数の死体が転がり、壊れた武器や燃え盛る木切れが散乱している。それらを避けるだけで精一杯だった。


「ディラン!」


 すぐ側から、別の冷酷な声が響いた。

 ハッとしてそちらを向いたアノの視界を、斜め上から振り下ろされる鉄の剣の残像が覆った。


――ザシュ。


「あ、――」


 今度は、首を真横から深く切り裂かれた。

 ごぼり、と喉から泡立った熱い血が溢れ出し、一瞬で声が出なくなる。

 視界が急速に回転し、迫り来る泥水の地面が目の前に迫る。

 二度目の死。その苦痛と絶望は、一度目よりもはるかに鮮明だった。なぜ自分がこんな目に遭わなければならないのか、答えのない不条理への呪詛だけが、消えゆく意識の底を駆け巡る。やはり誰も助けてはくれない。自分はただ、不条理に殺されるだけの塵芥なのだ。


(ああ、また……また、死ぬんだ――)


 視界が完全にブラックアウトする直前、彼女の耳に届いたのは、白銀の兵士たちの冷酷な足音と、遠くで響く魔族たちの断末魔の叫びだけだった。


********************


「――早く逃げろ! 何をしている、足手まといが!」


 三度目の産声。

 爆音と共に、赤黒い土塊が、アノの頭上に容赦なく降り注いだ。

 差し伸べられる手など存在しない。救いのない戦場で、彼女の本当の地獄は、まだ始まったばかりだった。

作者のわからせおじさんです。魔王軍の成り上がり物を書きたかったので書くことにしました。末永くお付き合いいただけると幸いです。よろしくお願い申し上げます。

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