第2章 ④
5月の生温い風が通り過ぎていく。鼻をくすぐる匂いは、植えられたばかりの稲というよりは、土の匂いのほうが強い。
外灯はまばらで、田んぼの間のあぜ道を注意しながら歩く必要があった。
悠人の隣には、四足歩行で歩くシンがいる。猫の体を借りているシンには、この路はそれほど不都合ではないようにみえる。
それにしても、まさか家に神様を連れ帰ることになるとは思わなかった。
悠人は眉間に皺寄せ、空を仰ぐ。
彼女の自殺を止めるためには悠人とシンが一緒にいるべきだ、と康太が提案したせいだ。
はじめのうちはシンが渋った。神様である自分が人間風情に付いていくとは沽券に関わるという主張だった。悠人も神様を連れ帰るのには抵抗があった。
しかし彼女のためだと押させる形で、シンが承諾した。
「この時間は彼女のもとに居なくていいのか?」
悠人は前を向いたまま、シンに尋ねる。
「家では祖父母がいるからな。何かあっても対応できる。寝ている間も命令が聞こえないから安全だ」
「そうか」
『死ね』という母親からの命令は、いつ何処で行われるか分からない。直前に感知できるのはシンだけだ。今はそれに頼るしかない。
「それよりもワシを迎える準備はできるのか?」
「準備? キャットフードが売ってる店なんて、この辺にはないぞ」
「ふざけるな。牛肉を用意せい」
「そんなの僕も食べたことないよ」
「では部屋を一つ差し出せ」
「ウチが狭いから無理」
「……まったく。神社にいた方がマシだったかな」
文句を垂れながらもシンは悠人に付いてくる。
「……あっ」
突然、悠人が足を止める。
「なんじゃ?」
シンが顔を覗かせると、目の前には掘立て小屋のような粗末な家があった。台風でもきたら吹き飛んでしまいそうな外観だ。家の中の明かりは灯っている。
シンは怪訝そうに眉をひそませる。
「まさかこの家か?」
「あぁ、隠れとけよ」
表情を曇らせた悠人は小さく息を吐いて、扉を開ける。薄暗い玄関には乱雑にヒールが転がっていた。シンも隙間からするりと入る。
悠人はシンに目配せしながら廊下を進む。
リビングには母親がいた。足を組み、スマホをいじったまま下を向いている。すぐに足を組み替えたり、机を小刻みに叩いたりと落ち着きがない。見るからにいらだっているのが判る。
これは面倒そうだ、と顔を半分覗かせたシンが顔をしかめた。
「ただいま。今日は早かったんだね」
悠人は気丈に振る舞って、動揺を覆い隠す。
「なに? 私が早く帰ってきたらいけないの?」
母はため息を吐くと、責めるように捲し立てる。
「私がいると都合が悪いの?ご飯も作らずに随分と遅いご帰宅ですけど。いつからそんなに偉くなったの?私が餓死してもいいの?」
「……」
「それとも何。私に作れっていうの?養ってもらってる分際で何様のつもり?あなたはいつも私に迷惑をかけてばかりね。役立たずの息子がいるなんて大変だわ」
「ごめん、すぐに夕飯作るから」
悠人はシンを隠すようにして廊下を進み、自分の部屋に入る。そして扉を閉めると、扉に寄りかかりながら、膝から崩れ落ちる。
「なんというか、凄まじいな」
「うん。まぁいつもあんな感じ。とりあえずバレてないから成功かな」