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「珍しいね!」
その夜、義父の部屋を訪ねると、とても温かく迎えられた。
「その」
つい、口ごもってしまう。
「どうかした?」
「ちゃんとお礼、言ってなかったと思って」
「お礼?」
「不自由なく生活させてくれて、あの学校と予備校まで通わせてくれて。なんの心配もしないで、安心して勉強できるし、今日、本当の友達がようやくできて」
呼吸を整えるために息を吐く。義父は次の言葉を待つように私をじっと見つめている。
「すごく、感謝してるの。お父さん」
義父は、しばらく言葉を発しなかった。
ずっとそっけなく対応しておいて、今更、虫がよすぎた。
「ごめんなさい、それだけ言いたくて。おじゃま」
しました、と言いかけた瞬間、義父が口を開いた。
「僕は、若い頃大病をして、子供を望めない身体になってしまったんだけど」
今までなんの苦労もしたことない、そんな顔しか見たことなかったから、動揺した。
「そんな長男は必要なかったみたいで、今、実家は弟が継いでる。おかげで自由を手に入れられたからよかった、かな」
私の顔を見て、義父はくすりと笑う。
「そんなにつらくはなかったよ。温かい家庭とはとことん縁がないんだなと思い知らされただけで。ユキちゃん、ほんとに気持ち、隠せないね」
「……それ、友達にも言われました」
「それはいい友達だ。ユキちゃんのこと、ちゃんと見てる」
義父はいつもの笑顔になる。それを見て、ポーカーフェイスは単なる無表情ではないということを改めて実感した。
「お母さんのお店、とても居心地がよくて。あんな美人さんじゃ相手にされないだろうなあと思ったけど、諦めきれなくてね。もちろん断られたんだけど、何度も何度も通って、情にほだされたお母さんがようやく僕を受け入れてくれて、嬉しかったよね」
「……結構、根気強いんですね」
「僕には、しつこさくらいしか、武器がないしね」
そう言って義父はにやりと笑う。
「その笑顔、ちょっと悪い感じ」
「そう! 本当の悪人は善人面してるんだよ。ユキちゃんも気をつけなきゃ!」
義父のおおげさな口調に、思わず笑ってしまう。
「プロポーズも何度も断られたけど、あまりのしつこさに、お母さん、最後には根負けしてくれたよ。おかげで、結婚できて、君みたいな可愛い娘ができて。僕は、毎日、嬉しくて、たまらないんだ」
裏を勘ぐる癖ばかりついてしまって、素直に捉えることがまるでできなくなっていた。
義父は最初から「母の連れ子」としてじゃなく、「自分の娘」として私に接してくれていたんだ。そう気づいた瞬間、単なる呼び名の問題ではなく、私の認識そのものが「義父」から「父」へと変わった。
「僕の方こそ、父親になる夢をかなえてもらって感謝してる。でも、そんなの関係なく、優秀で意欲のある人間に、チャンスをあげたかったんだ。君はそれを活かした。それだけだ」
そう言って、父は私の頭をなでる。
ふと、再婚前の食事が思い出され、思わず口を開いていた。
「お願いが、あるんだけど」
「なに?」
「家族みんなでスキーに行きたい」
「うん! 行こう! 冬まで待てないから、夏スキーできるとこ見繕っとく! そこで練習して、冬に本格的に挑戦しよう!」
たったこれだけで、父の喜びようといったらなかった。今度の休みにウェアや板や必要なものを買いに行こう! と私に約束させ、これが母を落とした根気か、と見せつけられた気がした。
「スキーに行くって言ったら、お母さん、絶対喜ぶよ!」
別にスキーとか、興味なさそうだけどな? そう思いながら、父の部屋を後にする。
「お母さん」
「なに?」
台所で皿洗いをしている母に後ろから声をかける。
「スキーに行きたいって、お父さんにお願いしてきた」
母の動きが止まって、水の流れる音だけが響いた。
ざあ、ざあ、ざあ、ざあ。まるでどしゃぶりの雨音みたいだ。
「水、もったいないよ」
そう言って、蛇口を下げる。
「ええ、そうね。一緒に、行きましょう」
「お母さん、そんなにスキー好きだっけ? お父さん、絶対喜ぶって言ってたけど」
「修学旅行なんかめんどくさいし行きたくない、っていうの、真に受けてたの」
急に修学旅行の話になって、どきっとした。
「いいえ、違うわね。ユキがそう言ってくれて、正直ほっとした。先のこと考えたら、あの時お金が出ていくのは痛かったから。でも」
母はここで言葉を止め、表情を暗くした。
「同級生が修学旅行に行ってる日、ユキが泣きながら寝てるのを見て、本当に胸が苦しかった」
「え? 泣いて……?」
全然記憶にない。悔しくて、負けたくなくて、絶対泣かないと決めていたから、私の涙の記憶は、戸籍上の父が出ていった日が最後だ。
「店を閉じたのは、今度こそちゃんと家族と向き合って過ごしたかったから。特に、ユキ、あんたに母親らしいことをしてあげたかったからなの」
「今までだって、ちゃんと母親だったよ」
「そう思ってくれる? でも、もっと、細やかに世話を焼きたかったし、なにより、普通の子供らしく過ごさせてやりたかった。お金の心配とか遠慮とか、そんなこと何も考えないですむような。あんたが贅沢だって言ってることは、贅沢でもなんでもないんだって、思わせてやりたかった」
母は、私の気持ちをわかっていなかったのではなく、仕方ないと割り切っていた訳でもなかった。そんな風に葛藤していたなんて、全然気づいてなかった。
「一生懸命働いて私を育ててくれたお母さんも、今の笑顔のお母さんも、私にとってはどっちも自慢のお母さんだよ」
そう言うと、母は私をぎゅっと抱きしめ、涙を流した。二人で毎日あんなに大変だった頃は一度も見たことなかった涙を。
「苦しいよ、お母さん」
絞り出すように言葉にしたけど、それを皮切りに、変な声と涙が止められなくなった。ずっと泣いていなかったから、一度決壊するとどうしていいかわからなくなって、父がやって来るまでそのまま二人でわんわん泣いた。父の焦る姿を初めて見て、母と二人、泣き笑いになった。
「じゃあ、行ってきます」
「今日はごちそう用意しとくね!お父さんも早く帰ってくるって」
「うん、楽しみにしとく」
あれから一年半、私は結局ギチギチの受験勉強はしなかった。家族で旅行したり、のんびり過ごす日も結構あった。受験生が滑るなんて、縁起でもないよ、と父は笑ったけれど、高三の十二月にも一日、スキーに連れて行ってもらった。なんとなく、逆に縁起担ぎになるかと思って。そんなお気楽な発想、昔だったら絶対出なかったはずだ。
せっかく手に入った切符なんだから、何も考えずに使ってしまおう。
そんな感じで精神的に余裕があったからだろう、無事志望校に合格し、今日は入学式だ。
「気を付けてね」
「おおげさだなあ」
笑顔で家を出る。母は私が角を曲がるまで、ずっと手を振り続けてくれていた。
「ここでいいのかな……」
大学構内を歩いてみるものの、入試の時しか来ていないので今ひとつ土地勘がない。きょろきょろしていると、くすくすと懐かしい笑い声が聞こえてきた。
「相変わらず、方向音痴ね、ユキ」
「うるさいな」
「桜の花びら、なんだか雪みたい。初めて会った日を思い出すわ」
「うん。私にとって、雪は幸運の象徴だから、幸先いいなあ」
「雪って名前だけに」
「そう」
ハルがにっこりと笑う。久しぶりの笑顔は、初めて出会った時とはなんだか少し違う、逞しさを感じた。
「再会できてよかったよ。万一会えなかったらどうしようかと思ってた」
「約束は守る方だし、私が受からない訳ないでしょ? ここに至るまでの紆余曲折を語ったら、愛あり涙あり笑いありで、単行本二冊分くらい書けるわよ!」
「聞くの面倒だから、話さなくていい」
「つれないなあ! 明晰な頭脳を最大限活用して、奨学金たくさんもらったの! 働きはじめたら一気に返済してやるんだから!」
「学園の女王のイメージ、ガタガタだよ。ハル」
「そんなものは喜んで返上しますわ! そろそろ時間よ。行こう!」
桜吹雪を抜ければ、入学式の会場だ。手に入れた切符で、一体どこまで行くことができるんだろう。はてしなく広がる未来に思いを馳せつつ、足を踏み出した。