#9 目盛り
宿の木製の扉を閉め、重い沈黙が部屋を支配した。外の喧騒、賭博場の熱狂、喝采の残響が、まるで遠い幻聴のように耳の奥で鳴り響いている。俺は、その熱狂の余韻に浸りながら、シエラが持ってきたものを前にした。
それは、彼女が徹夜で組み上げた、簡易的な残量計だった。
「見て」シエラが言った。彼女の指先は、微かな油の匂いを漂わせている。彼女の顔には、疲労の色が濃く滲んでいたが、その目は、まるで精密機械の設計図を眺めるかのように、真剣だった。
俺は、その計器を手に取った。それは、小さな真鍮のケースに収められた、針と目盛りの装置だ。霊晶の残量を、視覚的に把握するための、彼女なりの「計測器」だった。
目盛りは、百まで刻んであった。
針は、62を指していた。
「昨日の朝、計った」とシエラは言った。「あのときは、97だった」
「どうだ」シエラは、俺の反応を待つように、静かに尋ねた。
俺は、その針を凝視した。数値を読み取るというよりも、その針が示す「位置」そのものが、俺の胸に重くのしかかってくるのを感じた。
「予想より、ずっと減っている」俺は、掠れた声で呟いた。
「ああ。数十人の前で、一刻近く演じた。あの熱狂は、単なる拍手じゃない。あれは、霊晶にとって、極めて高密度の『情報伝達』だ」
シエラは、まるで物理法則を説明するかのように続けた。
「霊晶の消費量は、その真実を何人が受け取ったかに比例する。一人に耳打ちするなら、それはほとんどゼロに近い。だが、広場という空間で、数十人に、視覚と聴覚の両方で、その『仕掛け』の全貌を提示した。それは、単なる『情報伝達』ではなく、一種の『現象の強制発生』に近い。だから、消費は大きい」
俺は、その言葉の重みを噛み締めた。俺が求めた「喝采」は、この人形の体にとって、文字通り「命を削る行為」だったのだ。
「俺は、まだ、この程度の消費量で済むと思っていた」俺は、自嘲気味に笑った。
「君は、君の『才能』を過信した。見破ることは、ただの観察だ。だが、それを公衆の面前で、その『現象』として提示し、受け入れさせること。それは、この世界の物理法則に、最も高い対価を要求する行為だ」
シエラは、俺の肩にそっと手を置いた。その手は、工具を扱う者の、硬質な感触があった。
「君が求めたのは、舞台の音だ。だが、その音は、君の『器』の寿命を、容赦なく削り取っている」
俺は、その残量計をそっと懐にしまった。この数字が、俺の「残り時間」そのものなのだ。
その夜、俺たちは宿を抜け出し、街の喧騒から離れた、少し郊外の場所で身を潜めた。俺は、この「命の残量」について、シエラに問いかけたが、彼女はただ、技術書のページをめくるだけだった。
「帰る方法はあるのか」俺は、もう一度、あの問いを投げかけた。
シエラは、技術書の索引を指でなぞった。その動きは、まるで複雑な歯車が噛み合う様子を再現しているかのようだった。そして、彼女は、以前と同じように、静かに首を振った。
「帰る方法は、どこにも書いてない。この人形は、この世界の『からくり』の遺物だ。君の意識が、この器に転送された。それ以上の情報は、この組合の技術書には存在しない」
絶望的な事実だった。俺は、この人形の体で、この世界を漂い続けることになる。
だが、俺は諦めなかった。俺は、この「命の残量」が、単なるカウントダウンではないことを、本能的に感じていた。この残量が、何かの「鍵」になるはずだ。
翌日。俺たちは、街の市場を抜け、少し離れた場所で、二つの異なる「噂」に遭遇した。
一つは、貴族の領地から漏れ伝わってきた、陰鬱な噂だった。
「エドガル・ソーン卿の領地で、また一件の『呪いの人形』の被害が出たそうだ。今度は、領民の有力者が、夜中に自室で奇妙な形で発見されたらしい」
その話を聞いたシエラは、眉をひそめた。彼女は、貴族の動向には無関心なようだったが、その口調には、微かな警戒の色が混じっていた。
「呪いの人形、か。それは、単なる迷信の範疇を超えているようだな」
俺は、その噂をただ聞き流した。だが、その「呪い」という言葉が、俺の脳裏に、あの「仕掛け」の解体作業の残像を呼び起こした。
そして、もう一つ。それは、街の教会から漏れ伝わる、より公的な情報だった。
「奇跡管理院の巡回が、この地域でも強化されている。聖起の丘の管理官、ゾラン・ヴァイス殿が、各地の『奇跡』の適正化を巡回されているそうだ」
「奇跡管理院」という言葉が、俺の記憶の奥底にある、あの「秩序」という名の重圧を呼び覚ました。
俺は、二つの異なる情報――貴族の「呪い」と、教会の「秩序」――を、同じ日に、同じ場所で受け取った。
俺は、立ち止まった。
「呪いと、秩序」
俺は、この二つの概念が、この世界でどのように絡み合っているのか、まだ何も知らない。俺は、ただ、目の前の「目盛り」を気にしながら、この二つの情報が、俺の次の「案件」にどう影響してくるのかを、静かに観察し始めた。
俺の「見破る」という才能は、今、単なるトリックの解体から、この世界の「構造」そのものを解体する、途方もない作業へと変貌しつつあった。そして、その作業の代償は、俺の存在そのものに、目に見える形で刻み込まれていた。




