#25 壊さないで
その宿は、部屋が一つしか空いていなかった。
シエラは、俺を寝台の縁に座らせ、自分は床に工具を広げた。肩の継ぎ目に、街道の砂が入っていた。彼女は、細い刷毛でそれを掻き出しながら、三十分ほど何も言わなかった。
俺は、その沈黙の質が、いつもと違うことに気づいていた。
彼女が黙るときは、たいてい、手が動いている。今夜は、手が二度、止まった。
「レン」
「ああ」
「あなた、あの村で、五十人の前でやったよね」
「やった」
「賭博場では、五十人足らず。偽聖人のときは、三百人くらい。神明裁判は八十人」彼女は、刷毛を置いた。「丘は、数万人だって」
「聞いてる」
「やるつもりでしょう」
俺は、答えなかった。
答えなかったのが、答えだった。
*
彼女は、立ち上がった。
そして、俺の正面に、床に膝をついて座った。目の高さを合わせた。人形と話すとき、彼女はいつもそうする。俺を見上げも見下ろしもしない位置に来る。半年、彼女は一度もそれを崩さなかった。
「言っていい?」
「ああ」
「あなたは、正しい」
彼女は、そこから始めた。
「聖水の粉も、賽の重りも、掌の血糊も、明礬の桶も、全部あなたが正しかった。誰も、あなたが間違ってたなんて言ってない。あの村の長老だって言ってない」
「……」
「正しいだけじゃ、人は救えない」
彼女の声は、荒れていなかった。淡々としていた。それが、いちばんこたえる形だった。
「お師匠さんのときも、そう。あの村のときも、そう。二回とも、あなたは正しくて、二回とも、人が死んだ」
俺は、何も言わなかった。
言い返す材料が、一つもなかった。
「私、ずっと考えてた」と彼女は言った。「なんであなたが、そうなるのか。それで、たぶん分かった」
「……なんだ」
「あなた、暴いたあとの人を、見てないんだよ」
彼女は、そこで、少しだけ言葉を探した。
「見てないんじゃない。見てる。見てるけど、それはもう、あなたの舞台じゃないんだよね。幕が下りたあとだから。あなたにとって、幕が下りたあとは、他人の時間なんだ」
俺は、動けなかった。
ベネットが渡し場で言ったことと、まったく同じ場所を、彼女は違う言葉で突いていた。俺が三十年、当たり前だと思ってきた作法。客が家に帰って何を思うかは、客のものだ。
「私、それが、怖い」
「……」
「怖いっていうか」彼女は、膝の上で指を組んだ。「あなたの隣にいるのが、怖い」
*
彼女は、しばらく黙ってから、荷袋の底を探った。
出してきたのは、掌に載る大きさの、木の箱だった。
蓋を開けると、中は空だった。前は霊晶の欠片が入っていた箱だ。中身は、半年前に俺の胸に納められて、いまはもう、ほとんど残っていない。
彼女は、その蓋を裏返して、俺に見せた。
裏に、印が彫ってあった。
歯車が二つ、噛み合っている。その下に、小さく、三本の線。
「組合の印」と彼女は言った。「これ、うちに残ってる唯一のもの。これと、技術書が虫食いで三冊」
彼女は、蓋を撫でた。ゾランが手記の角を撫でたのと、同じ指の使い方だった。
「私、村では、変わり者の修理屋だった。父さんも、祖父ちゃんも。うちの家系は昔、悪いことをして焼かれたんだって、みんな知ってる。何をしたかは誰も知らない。異端だった、っていうことだけ、残ってる」
彼女は、蓋を閉じた。
「異端だったって記録だけが残って、何を作ったかは、何も残ってない」
*
「聖起の丘の機構は」と彼女は言った。「うちの人たちが作った、最後の一つなんだよ」
俺は、そこで、彼女が何を言おうとしているのかを理解した。
理解して、動けなくなった。
「210年、動いてる。糸が切れず、鏡が曇らず、床が抜けずに、210年、毎年、同じ日に同じ光を出してる」彼女の声が、少しだけ震えた。「あれ、すごいんだよ。あなた、分かる? 210年よ。ゾランのとこが保守してるのだって、うちの人たちの設計がまともだからできることでしょ」
「……」
「あれが、この世に残ってる、唯一の証拠なの」
彼女は、顔を上げた。
「うちの人たちが、異端じゃなくて、天才だったっていう」
*
「レン」
「ああ」
「聖起の丘のからくりだけは、壊さないで」
俺は、口を開いた。
開いて、何も出せなかった。
蛇腹が空気を押し、葦笛が半分だけ鳴って、途中で止まった。この体は、こういうときにいちばん不便だ。言葉が出ないことと、言葉を選んでいることの区別が、相手につかない。
だが、今夜は、区別する必要もなかった。
俺は、答えを持っていなかった。
あの丘の霊晶は、この世に残る最後のまとまった霊晶だ。俺の胸の中の残りは、17しかない。丘の機構を解体すれば、そこに嵌まっている八つが露わになる。露わになったものを、俺が使えるかどうかは分からない。だが、丘に触れずに、俺が生き延びる道は、どこにもない。
彼女が「壊さないで」と言っているものは、俺の命綱だ。
彼女は、それを知っている。
知ったうえで、言っている。
「答えなくていい」と彼女は言った。「答えられないの、分かってる」
彼女は立ち上がり、工具を袋にしまった。
「ずるいこと言ってる。分かってる」
「……ああ」
「でも、私が言わなかったら、誰も言わない」彼女は、袋の口を絞った。「うちの人たち、七十三人いたんだって。名前も残ってない。私が言わなかったら、あの丘は、ただの『民を騙してた仕掛け』として壊されて、それで終わる」
彼女は、窓のほうを向いた。
「私、あなたに丘を壊してほしくない。でも、あなたに死んでほしくもない。両方は無理だって、たぶん分かってる」
灯を消す前に、彼女は一度だけ振り返った。
「ごめん」
謝られた。
俺は、それが、この夜でいちばん、こたえた。




