#23 熱い鉄
エドガルの神殿の一件から、十一日が経っていた。
その十一日で、俺たちは五つの町に入り、五つの町から出た。
出方は、だんだん洗練されていった。最初の町では石を投げられた。二つ目では、シエラが芸を始める前に自警の男が三人立った。三つ目からは、俺たちのほうが先に察するようになった。門をくぐって、井戸端の空気を一呼吸吸えば、この町に通達が届いているかどうかは分かる。
シエラは、痩せた。
彼女は食っているふりをしたが、俺は食わない体だ。二人分の食い扶持を稼げなかった日に、彼女が誰の分を削っているかは、計算するまでもなかった。
「腹話術は、まだ需要がある」と彼女は言った。「ただ、喋る人形は要らないみたい」
十二日目、俺たちは、街道から半日外れた宿場町に入った。
そこに、通達はまだ届いていなかった。
*
町の広場に、人が集まっていた。
中央に、炭床が組んであった。石を積んだ簡単な炉に、炭が真っ赤に熾きている。その上に、鉄の棒が一本、渡してあった。長さは腕ほど。両端が、炉の縁の石に載っている。
「神明裁判だ」とシエラが言った。「本で読んだことがある。実際にやってるのは初めて見た」
炉の脇に、桶が二つ並んでいた。清めの水だという。
被告は、二十代の若い男だった。名をトビアスといった。町の粉挽きの手伝いで、親方の金庫から銀を抜いたと訴えられていた。訴えたのは、親方の甥だった。
事情は、集まった人間の噂を拾えば、半刻で組み上がった。親方は先月倒れて、口が利けない。跡目は甥に決まりかけている。トビアスは、親方が生前——いや、まだ生きているが——手元に置いて、帳面のつけ方まで教えていた。跡目争いですらない。邪魔者を一人、片づける話だった。
証拠はない。だから神明裁判になった。
鉄を握って、三日後に掌が膿まなければ無実。膿めば有罪。
*
俺は、炉の周りを、二度回った。
一度目で炭床を見た。二度目で桶を見た。
炭床の炭は、均していなかった。
炉の中央に、炭が高く盛ってある。左右の縁は、灰が多く、火の色が沈んでいる。鉄の棒は、その上に渡してある。つまり、棒の真ん中がいちばん熱く、両端がいちばんぬるい。
そこまでは、当たり前だ。誰でもそうなる。
問題は、鉄の棒の色だった。
一方の端から、棒の三分の一ほどのところまで、表面の色が違っていた。青みがかった、薄い膜のような色。鉄を焼いて冷ますと出る色だ。焼いた温度で、色が変わる。俺の商売でも、鉄の細工物では時々使う。
つまり、その棒は、以前に一度、片側だけを深く炭に埋めて焼かれていた。
——誰かが、握る位置の稽古をしている。
桶は、二つあった。左が原告用、右が被告用。中の水は、どちらも澄んでいた。
シエラに、左の桶の水を指ですくわせた。
「渋い」と彼女は言った。指をこすり合わせて、顔をしかめる。「ぬめる。……これ、明礬だ。染物屋が使う。媒染に」
明礬を濃く溶いた水に手を浸すと、水が引くまでのわずかな間、掌に薄い膜が残る。膜が乾ききる前に熱い物に触れれば、皮膚が焼けるまでの時間が、少しだけ稼げる。ほんの数える程度の時間だ。だが、鉄を握って三歩歩くのに要る時間は、まさにその程度だった。
右の桶は、ただの水だった。
*
「レン」とシエラが言った。「目盛り」
「23だ」
「これ、広場だよ。八十人はいる。17まで落ちる」
「ああ」
「あと、これやったら、この町も出禁になる。神様の裁きに口を出すことになるんだから、たぶん今までで一番まずい」
「ああ」
彼女は、俺の顔を見た。木の顔だ。
「……やるんだよね」
俺は、答える前に、人垣を割って、トビアスのところへ行った。
彼は、炉の前に座らされていた。手を縛られてはいない。逃げないと約束したのだろう。膝の上で、両手を握ったり開いたりしていた。二十代の男の手だった。粉挽きの手だ。
俺は、彼の前に立った。
喋る人形が目の前に立ったことに、彼はほとんど驚かなかった。人は、極まると驚かなくなる。
「一つ、聞かせてほしい」
俺は、そう言った。
いま思えば、俺がこの旅で、初めて先に聞いた瞬間だった。
「俺には、この裁きの仕掛けが見えている。今から、それを、この広場で全部剥がすことができる。剥がせば、あんたは鉄を握らずに済む」
「……」
「だが、剥がすと、この町の神明裁判そのものが、二度と使えなくなる。あんたは無実になるが、この町で『あの人形に助けられた男』になる。俺の評判は、あんたが思っているより悪い。それを背負って、あんたはこの町で暮らすことになる」
俺は、そこで一度、言葉を切った。
「あんたは、どうしたい」
トビアスは、俺を見上げた。
そして、握ったり開いたりしていた手を、止めた。
「握っても、駄目なんですかね。俺の手じゃ」
「駄目だ」と俺は言った。「あんたが握らされる側の端は、青く焼けている。稽古してある」
彼は、深く息を吸った。
「じゃあ、お願いします」
「いいのか」
「俺、親方が起きたとき、帳面を見せなきゃいけないんで」と彼は言った。「膿んだ手じゃ、字が書けない」
*
俺は、炉の前に立った。
叫べない。だから、まず立った。あの村で覚えた手だ。
木の人形が炉の前に一人で立つと、前列が黙る。前列が黙ると、後ろが黙る。ただ、あの村の静けさとは質が違った。あれは差し出された静寂だった。これは、何が起きるのかを見極めようとする静寂だ。値踏みされている。
それで、十分だった。
「審判の前に、道具を検めます」
囁きが、届いた。
俺は、桶を二つとも、炉の前へ引き出させた。
「清めの水が、二つあります。左が訴えた方、右が訴えられた方。同じ水と伺いました」
俺は、麻の布を一枚、シエラに切らせた。細長い一本を、真ん中で分けて、片側を左の桶に、もう片側を右の桶に浸す。
引き上げて、両端を持ち、炉の上の鉄に、同時に押し当てた。
右——ただの水に浸したほうは、押し当てた瞬間に黒く焦げ、煙を上げた。
左——明礬水に浸したほうは、白いまま、数を三つ数えるあいだ、焦げなかった。
四つ目で、ようやく色が変わった。
広場が、鳴った。
怒号ではない。八十人が一斉に息を吸う音だ。あの音は、舞台では最高の音の一つだ。
「左の桶には、明礬が溶いてあります」と俺は言った。「染物にお使いの方はご存じでしょう。手を浸すと、水が引くまでのわずかな間、掌に膜が残ります。数を三つ数えるほどの間です」
俺は、炉の上の鉄を指した。
「そして、こちらの端」
俺は、青みがかった膜の色の部分を示した。
「鉄は、焼いた温度で色が変わります。この端は、以前に一度、炭の中心に深く埋めて焼かれています。もう一方の端には、その色がない。今日、この炉に載せられる前に、どちらの端を誰が握るかは、もう決まっていました」
俺は、審判官のほうを見た。
でっぷりとした、赤ら顔の男だった。彼は、口を開こうとして、開かなかった。
「三歩です」と俺は言った。「鉄を握って三歩歩けばよい、という決まりだと伺いました。三つ数えるほどの膜と、三歩。よく出来ています。私は仕掛けを見て三十年になりますが、これは、そこらの見世物より、よほど丁寧な仕事です」
俺は、そこで、褒めた。
褒めたのは、皮肉ではない。皮肉は、その場では効くが、後に残らない。俺が残したかったのは、この裁きが「神が判じたもの」ではなく「誰かが作ったもの」だという一点だった。作ったものには、作った人間がいる。
人垣の後ろで、若い男が一人、下がった。
親方の甥だった。
八十人の目が、動いた。逃げる者を見た瞬間に、群れは判断を終える。これも、あの偽聖人のときと同じだ。人間は、どこでも同じ動き方をする。
*
トビアスは、鉄を握らずに済んだ。
甥は、その日のうちに町を出た。審判官は、翌朝、職を返上した。
喝采は、なかった。
一つも、なかった。
人は、散った。散り際に、俺のほうを見る者はほとんどいなかった。何人かは、炉の前を通るとき、足を止めて炭を見ていた。自分たちが何十年、何を見せられていたのかを、たぶん考えていた。
俺は、その背中を見ていた。
あの村では、俺は五十人の静寂を受け取って、それを喜んだ。ここでは、八十人が黙ったまま帰っていく。同じ「黙って帰る」でも、こちらのほうが、はるかに気分が悪かった。
そして、はるかにましだった。
俺は、先に聞いた。トビアスは選んだ。字が書けなくなるのは困ると言って、選んだ。
それだけの違いだ。それだけの違いで、俺の中の何かが、はっきりと違っていた。
*
宿は、貸してもらえなかった。
俺たちは、町の外の、崩れかけた石橋の下で夜を明かした。シエラが、残量計を焚き火にかざした。
針は、17を指していた。
「六つ、減った」
「ああ」
「レン」と彼女は言った。「これ、あと二回か、三回だよ。大きいのは」
「知ってる」
彼女は、しばらく黙っていた。
「今日の、いつもと違った」
「そうか」
「うん。先に聞いてた」彼女は、膝を抱えた。「なんで、今日だけ聞いたの」
俺は、少し考えた。
「あの子に、聞かれたからだ」と俺は言った。「明日から何を運べばいいの、と」
シエラは、それきり何も言わなかった。
朝方、橋の上を荷馬車が通った。轍の音で目が覚める体でもないが、俺はずっと起きていた。
俺は、その音を聞きながら、一つのことを考えていた。
俺は今日、初めて「あんたはどうしたい」と聞いた。
聞ける相手が、目の前に一人しかいなかったからだ。
——あの村には、五十人いた。
五十人に、どうやって聞けばいい。八十人には。数万人には。
一人に囁くのはただ同然で、大勢に告げれば命が削れる。この世界は、そういう値段の付け方をする。だが値段の問題ではなかった。相手が多くなればなるほど、俺は「聞く」ことをやめて「告げる」ことしかしなくなる。
聞くための技術を、俺は持っていない。
その形をした技術が、この世に存在するのかどうかも、まだ知らなかった。




