第45話 契約と封印
崩れた金属片のひとかけらが、足元に転がっていた。
先ほどの剣の欠片、それを手に取って確かめようとしゃがみ込んだ瞬間だった。
「……!」
指先が触れるほんの一歩手前で、それはふわりと風に舞い、儚くも空気に溶けて消えていった。まるで、そこにあったことすら幻だったかのように。
臨界を迎えた──という言葉が脳裏をよぎる。
ギリギリまで形を保ち、粘って、耐えて、それでも限界を超えた瞬間に、ふっと塵へと還った。そんな風にしか見えなかった。
俺はしばしその場にしゃがんだまま、ただ地面を見つめるしかなかった。
「……情報はなし、か」
溜息まじりに呟きながら顔を上げると、少し離れた場所でメイリンが弓を点検していた。
あの一射。確かに、見事だった。だがその代償は小さくないはずだ。
彼女の様子を見ながら、ゆっくりと立ち上がって声をかけた。
「大丈夫ですか? 魔力の方は……」
メイリンは弓の弦を軽く引いてから、こちらを振り返った。
肩で息をしながらも、その瞳はまだ光を失っていない。
「うん、最後のは結構、魔力持ってかれたけど……まだ大丈夫。たぶんね」
強がっているような言い方だったが、声色に無理はなかった。彼女のことはまだよく知らないけれど、ひとまずはその言葉を信じておく。
「それなら良かった。俺の方は、さっきの破片……何か手がかりになればと思ったんですけど、結局何も残りませんでした。消えちゃいましたよ」
俺は自嘲気味に笑って、先ほどまで金属片があった空間を見つめた。
ただの地面。そこには何の痕跡も残っていなかった。まるで最初から存在しなかったみたいに。
「そっか、残念……」
メイリンが軽く肩を竦めながら言い、視線を建物の入り口へと向けた。
そこはまるで獣の口のように口を開けた石造りのアーチで、さきほど剣が飛び出してきたのも、その暗がりの奥だった。
「……続き、見てみましょ。どうせここまで来たんだし」
彼女の言葉に頷いて、俺もそっと足を踏み出す。
ただ、今度は慎重に、細心の注意を払って。
入り口の前に立ち、足音を殺すようにして耳を澄ます。
風の音が、崩れかけた壁の隙間を抜けていく。けれど、あの異様な風切り音は聞こえない。今のところは、静かだ。
「行きましょう」
俺がそう言うと、メイリンも無言で頷いた。
* * *
慎重に、一歩ずつ足を進める。
遺跡の中は、ひやりとした空気が漂っていた。湿気に満ちた空間ではないのに、まるで風の通い道を絶たれたかのような、息苦しい静寂が張り詰めている。
「……ここ、本当に迷宮の一部なんだよな」
心の中で呟きながら、俺は周囲の壁に手を添えて進んだ。壁は古びてざらついている。金属とも石ともつかぬ感触で、幾筋もの亀裂が走り、あちこちに黒ずんだ焦げ跡のようなものがある。崩れそうなほど傷んでいるわけじゃないが、どうにも時代がかっていた。
迷宮が出現して、まだ一年と経っていない──はずだ。けれどこの遺跡の劣化具合は、数年どころか、もっと遥か昔から存在していたかのように思えて仕方なかった。
俺の足音と、少し遅れて聞こえるメイリンの足音が、やけに大きく響く。
入口からすぐの場所は、広めの空間になっていた。まるで受付でもありそうなロビーのような構造で、天井が高く、壁面にかつて何かが取り付けられていたような痕跡が残っていた。
だが、めぼしいものは何もない。
壊れた木箱ひとつ、なにもない。ここでの探索に意味はなさそうだと判断して、俺たちはロビーの奥、正面へと伸びる通路を進む。
通路は、無言を強いられるような静けさだった。
不意にメイリンが小声で呟いた。
「……あんまり、気持ちのいい場所じゃないね」
俺はうなずき返すだけで、言葉にはしなかった。
やがて、通路が終わり、視界がぱっと開けた。
そこは、まるで神殿の奥にでも迷い込んだような厳かな空間だった。高い天井には大理石のような質感の石材が積まれ、太い柱がいくつも、空間を支えるように立ち並んでいる。
だがその荘厳さとは裏腹に、鼻を刺すような錆びた鉄の匂いが、空間全体に充満していた。
「……うっ」
俺は思わず顔をしかめた。金属が朽ちた匂い、油が劣化したような酸味を帯びた臭気が、喉の奥にまとわりつく。空気は淀みきっていて、何かが発酵したような重さがある。
そして、目に映る光景に、言葉を失った。
「なんだ……ここは……」
呟いた声が、自分のものだと気づくのに、少し時間がかかった。
床一面に、壊れた武具の山が広がっていた。
剣。槍。盾。鎧。斧。弓──。
使い古され、破壊され、あるいは錆びついて、役目を終えたそれらが、無造作に打ち捨てられている。鋼鉄の山。墓標にも似た静けさが、そのすべてに重くのしかかっていた。
床だけではない。壁面や天井にまで、折れた槍が突き刺さり、曲がった剣がぶら下がっている。ここが一体どんな戦場だったのか、それとも──誰かが意図的に、ここに廃棄していったのか。
「……ここ、なんか……武具の墓場、みたい」
後ろからメイリンの声が届いた。ささやくような声色には、いつになく不安の気配が滲んでいた。
俺は、何も言えずに、ただ目の前の景色を見つめていた。
武具の山の中心に、──剣や槍、盾や鎧、無数の鉄と革の残骸が、うず高く積まれていた。
俺は足元を確かめながら、一歩一歩、その山に近づいていく。
無造作に放り込まれたようにも見えるし、何かを護るように築かれたようにも見える。破損の仕方も、古びた年季の入り方も、一つとして揃っていない。まるでそれぞれが、別々の戦いで朽ち果て、ここに集められたかのようだった。
視線を落とすと、すぐ目の前に折れた剣があった。
柄の部分には古びた装飾が残っていて、かつては相応の価値を持つ武器だったのだろう。刃は鈍く錆び、先端は失われているが、なお鋭さを残しているように見える。
俺は思わず、手を伸ばしかけた。
──もし、これを回収したら、どうなる?
こんなに大量の武具、全部が全部ポイント対象だったら……。
そんな下心にも似た好奇心が、つい指先を動かしたそのとき──
「あ! あれ……!」
メイリンの声が響き、俺の手がピタリと止まった。
ドクン、と心臓が鳴る。
しまった、と一瞬焦る。回収の瞬間を見られるのは避けたい。彼女に説明できることなど限られている。だが──
メイリンの指差す方向に目を向けて、俺はその考えを中断した。
武具の山のてっぺん。そこに、半ば埋もれるような形で──金属製の棺のような箱が鎮座していた。
四方から突き刺さった朽ちた槍や剣が、その箱を貫き封じているように見える。まるで誰かが、あるいは何かが、箱をこの場所に閉じ込めようとしたのではないかと、そんな気配がした。
俺とメイリンは視線を交わし、うなずき合うと、慎重に武具の山を登り始めた。
崩れかけた斧の柄に足を掛け、慎重に錆びた盾を踏み越える。甲冑の胸部が滑りそうになるのを避け、ようやく箱の近くへとたどり着いた。
間近で見る箱は、思ったよりも重厚だった。
厚い鋼でできているが、長い年月を経て、表面のあちこちには赤錆が浮いている。だが、不思議なことに──箱の中央部、ちょうど蓋の境界線に沿うように、赤黒い光が脈打つように走っていた。
まるで……生きているような。
「これ……まだ動いてるのかな、他の武具と違って」
メイリンが息を飲みながら、静かに呟く。
彼女が箱に手を伸ばしかけた、その瞬間だった。
──パァン、と何かが空間を弾いた。
目の前に、淡く光る半透明の壁が浮かび上がる。その中心に、赤い光で描かれた一文字が、くっきりと浮かび上がった。
<契>
漢字だ。しかも、俺の目にも、はっきりと見える。
「うわっ……!」
突然の反発に、メイリンがバランスを崩しかけた。
俺は慌てて腰に手を回し、彼女の体を支える。
「……ありがと。……ねぇ、そっちからも、見える? 文字」
彼女は俺に体を預けたまま、やや気恥ずかしそうに聞いてきた。
「ああ。契約の『契』、だな。そっちも?」
視線を箱から外さずに、俺は答える。
メイリンは少し身を起こし、神妙な顔つきでうなずいた。
「うん、同じ。中国語でもこの字は使うから、他の言語圏の人にはどう見えるかわからないけど……少なくとも、これは“契約”に関する封印ってことなんでしょうね」
その言葉に、俺は再び箱を見つめる。
「契約と……封印、か」
思わずその言葉を口の中で転がすように呟いた。けれど、今のところ、それ以上の考えには繋がらなかった。ただ、頭の片隅に何かが引っかかった気はする。
隣に目をやると、メイリンも腕を組んで考え込んでいた。けれど、ふいに思い切ったように顔を上げると、虚空に片手をかざし、何かを取り出す仕草をした。
ぺらりとした札のようなものが、指の間に挟まれている。
「それは……?」
無言で視線を向けると、メイリンは俺の意図を察したのか、小さく笑って札をこちらにかざして見せた。
「ああ、これ? 見たことないかしら?」
彼女は札を指先でひらひらと弄びながら説明を始めた。
「三層以降からドロップし始めるのよ。ま、ウチも四層までしか行けてないから、確かなことは言えないんだけど」
そう前置きしたうえで、札について続けた。
「<識別札>って言ってね。一度きりだけど、対象の情報を引き出してくれるアイテム。ドロップ率が低いから普段は使わないんだけど、なんか貴重そうなものが出てきたとき用に、持てる人は常備してるのよ」
なるほど、使い切りの<識別の石板>か。それをカード形式にしたようなものかもしれない。
メイリンは札を軽く翻しながら、目の前の箱に向けてスッと掲げた。
札が淡く発光し、その光が箱を包み込む。けれど、俺の目にはそれ以上の変化は見えない。どうやら、識別結果は使用者本人にしか見えないようだ。
彼女はしばし目を細めて虚空を見つめ、情報を読み取っているようだった。やがて、眉をひそめながら口を開いた。
「この箱の名前は……<墓匣の契約書>。効果は……『対象の意思を契約により束縛する』、だって。発動条件は──」
そこまで言ったところで、突如として足元に違和感が走った。
「ッ!?」
床が……揺れている。
いや、それだけじゃない。部屋全体が軋みを上げるようにして震え始めた。
「メイリン、離れろ!」
思わず声を張り上げ、近くにあった崩れかけの武具の山から彼女の腕を引いて跳び退く。直後、その山が大きく傾き、中から何かが蠢いた。
金属音とともに、崩れた鎧や剣がガラガラと床を転がる。その隙間から、ずるり、と黒い何かが姿を現した。
いや、それは「何か」ではない。
漆黒の巨体──全身を甲冑に包まれ、ところどころには壊れた剣や槍が突き刺さったままになっている。まるで墓標のような、痛々しい装飾だ。
頭部にはフルフェイスの兜。だが、その隙間からは何も見えない。ただただ、がらんどうの闇が口を開けている。
まるで、死そのものが立ち上がったかのような、静謐で禍々しい存在感。
「……っ」
息を呑む。メイリンも、隣で動きを止めていた。
さっきまで手にしていた<墓匣の契約書>は、その巨大な存在の出現と共に、ズルリと床を滑っていき、黒き鎧の向こうへと消えていった。
部屋の揺れが、ようやく収まる。
しんと静まり返る空間に、俺たちは言葉を失ったまま、その影を見上げた。
そして、数巡の沈黙ののち。
低く、地鳴りのような声がその巨体から響いた。
「……我が名は、忌廃の守主……トレムナ」
その名を口にした瞬間、空気がまた一段と重くなる。まるで、名前そのものに呪いでも込められているかのような圧力だ。
「また……誰かが来たか。我が契約を、再び求めに来た者……ならば」
鎧の中の闇が、こちらをじっと見据えているような錯覚を覚える。
「……ならば、試せ」
唇が渇く。足が震えそうになるのを、なんとか堪えた。
これは、尋常な存在じゃない。さあ、どうしようか。
ぺろりと乾いた唇を嘗めた。
 




