二度目の冬(その3)
デビュー・ライヴを明日に控え、DXホールではゲネプロ(本番通りに行うリハーサル)が進行していた。
ガランとしたホールにアイヴィーの声や楽器の音が大きく反響する。
明日にはこのホールが大勢の観客で溢れかえるのだ。
チケットはほぼ完売していた。あとはわずかな当日券が出るだけだ。
アイヴィーの確保したチケットも5枚がやっとだった。
「ズギューン!」の3人に松下のおばちゃん(源造は職場の新年会がキャンセルできず、泣く泣くの不参加となった)、シンのことでお世話になったミッチ。
タダシやケンジ、フリちゃんなどギヤのスタッフ、他のバンド連中は自腹でチケットを購入してくれたらしい。
みんな来てくれる。明日には、みんなに会える。
アイヴィーには、それがこの上ない喜びだった。
「あれ、なに?」
つかの間の休憩時間、ステージに座り込んでいたアイヴィーが指をさしたのは、フロア中央ほどに据え付けられた大きな脚立のようなものだった。いちばん上には椅子が備えつけてある。
ビデオカメラの設備とも違うようだ。
「ああ、あれ、安瀬先生の撮影ポイントです。」
マネージャーが教えてくれた。
「あんな場所から、撮るんだ。」
「はい、他にも何か所か設けてあります。」
見ると確かにフロアの左右、そして後方にも同じような設備があった。
「安瀬先生は、各撮影ポイントとステージ上から撮影を行います。当日はオール・スタンディング(全席立ち見)ですし、かなりの混雑が予想されますので、集中して安全に撮影をするための配慮です。」
「そう…。」
安瀬の写真を観た時に感じた違和感は、これだったのだ。
“あの人は、アタシやファンたちと同じ空気を共有しない”
「おばちゃんなら、なあ。」
「アイヴィーさん、何か言いました?」
“おばちゃんなら、このフロアのど真ん中から最前列までもみくちゃになりながら突っ込んで、汗にまみれて写真を撮ってくれるに違いない。”
「そろそろ再開しましょうか。」
“そんな写真が、アタシには一番似合ってるんだ。どうして強引にでも、松下のおばちゃんにって言えなかったんだろう。”
「アイヴィーさん、いいですか。みんな待ってます。」
「ああ、すいません。始めましょう。」
ゲネプロは淡々と進んでいった。
朝になった。
ゴンちゃんは、そっとベッドから起き上がった。
隣には彼女が寝ている。起こさないようにコンビニまでタバコを買いに行くのだ。
彼女が自分の家に帰らなくなってずいぶん経った。もう少し広いアパートを借りようかと考え始めた。
今日はアイヴィーのライヴの後、深夜から「ズギューン!」のライヴも入っている。
盗撮からの演奏。なかなかタフな一日になりそうだった。
ジャッキーはほとんど眠れなかった。
布団の上で転々としながら、朝を迎えた。
失敗したらシンに顔向けできない。
今夜はオールナイトのライヴだっていうのに、こんなことでは途中で潰れてしまう。
焦れば焦るほど、目は冴えわたっていくのだった。
ショージは幸せそうにいびきをかいていた。
もう正午になるというのに、一向に起きる気配がない。
夢の中で、アイヴィーに紹介して貰った有名女優がショージに向かってほほ笑んでいた。
それからアレを。
ミッチは夜勤明けだった。
勤めているバーからの帰り道は、明け方の空気が鋭く沁みる。身を震わせながら家路を急いだ。
今夜は大事な計画がある。今のうちに少しでも寝ておかないといけない。
シンにはどうしてもバンドに戻ってきてほしかった。他のメンバーは、既にシンはクビになったと思っている。
それならそれで構わない。シンが戻ってきたときバンドが彼を受け入れないなら、自分も出ていくつもりだった。
アイツくらい絵になるギタリストはいないのだ。アイツとバンドがやりたい。
そのためなら、何でもやってやる。
アイヴィーが目を覚ましてまず一番最初にしたことは、窓を開けて天気を確認することだった。
1月の冷たい空気とともに、気持ちの良い快晴が飛びこんできた。
まだ明け方だというのに、高層マンションの下には振り袖姿の女の子たちが何人も歩いている。
みんな朝早くから着付けをして、この日を楽しむのだろう。
一年前は自分も借り物の晴れ着を着て、高円寺の駅前に立っていた。
そして松下のおばちゃんと出会い、様々なことが起きて、数時間後には自分を観に来てくれた大観衆の前で歌を歌うのだ。
この一年が、何かの冗談のようだ。。
迎えが来るまでには数時間あったが、もう眠れそうになかった。
ヘッドホンで自分のアルバムを聴きながら、松下のおばちゃんに撮って貰った写真の束を引っ張り出し、一枚一枚じっくり見始めた。
どれも観ただけでその時の情景が頭に浮かぶ写真ばかりだった。
思いがけず涙が出そうになって我ながら驚いたが、激しくまばたきして乾かした。
今日は、泣いてもいい日じゃあない。
松下のおばちゃんは、いつもの時間に目を覚ました。
仕事から直接新年会に向かう源造は朝から不満たらたらだ。
そんな夫を適当にあしらいながら、食事をとらせ着替えさせて見送る。
お昼前くらいにアイヴィーの携帯に電話を入れた。
留守番電話にになってしまった。当然、忙しいだろう。
「ちゃんと、観てるからね」とだけメッセージを残した。
テレビからは、アイヴィーのデビュー・アルバムのコマーシャルが流れてきた。
あの子はホントによく頑張って、ここまで来た。
一年前に高円寺の駅前で写真を撮ってから、カメラの前でアイヴィーはどんどん成長を遂げてきた。
それを逐一写真に残すことができたのは、何にも替えがたい喜びだ。
あとは、今日のデビュー・ライヴの写真。たった5枚、いや3枚、1枚だっていい。残すことが、できれば。
「シンちゃん。待っててね。おばちゃん、がんばるから。」
それぞれの朝は過ぎ、昼を迎え、そして夕方になった。




