5.春の野にて
うららかな春の日差しに照らされて今が盛りと野の花が咲く草原に、馬車が止まった。
「本当に大丈夫なのか? ちょっとでも変だとか辛かったりしたら、すぐに言って?」
「本当に大丈夫だから」
外でしきりに心配する夫に笑って返事をし、黒髪の女が馬車から下りてくる。
「わぁ……。すごく綺麗」
山地の遅い春に一斉に咲いた花々が、暖かい風に揺れている。ほんのり甘い香りを胸いっぱい吸い込んで、彼女は嬉しそうに笑う。
二人はこの冬、国王からの依頼で北の山地に赴いていた。
その話を持って来た筆頭魔法使いは、彼女の事を『冬の娘』と称した。
『君の体の中には、雪の奇跡の力が残っている。君は雪やそれを降らせる雲や風、冬の天候の事ならおおよそ願いが叶うはずだ』
残念ながら記憶のない彼女には思い当たる節はないが、
『そう言えば……』
と彼女の傍らで彼が言った。彼女の誕生から知っている幼馴染である。
『冬に出かけた際、急に天候が悪くなり吹雪になりかけた事はよくあったが、不思議とすぐに治まり難儀をした事はない』
『今回も、君の好きなダイヤモンドダストの見られる日が、普通より多かった』と。
それを聞いた魔法使いが得たりと頷き、隣国との国境にある砦への救援を依頼してきたのだ。
この砦は北の山地にあり、隣国との街道を擁している為かなりの規模がある。常時雪は多いのだが、今季は予想を遥かに超えて酷いのだという。
いつもギリギリの状態で冬籠りをしている為、それ以上の雪は人命に係わってくる。さらに、春には隣国からの重要な使節が来る予定があるため、冬の前に人を減らす訳にもいかなかったらしい。
『どうかこの冬、砦に滞在してはくれないだろうか?』
その依頼でどうして当初魔法使いたちが彼女を襲ったのか、彼には全く理解できなかった。
その点をついて断ると、筆頭魔法使いが苦々しくまた申し訳なさそうに説明するに、最初は彼女の中から『雪の奇跡』の力だけを取り出そうと考えたらしい。北部の砦の救援要求もまだなく、純粋な力を欲していたのだと言う。
その方法を検討していた時に、彼女を人として捉えていなかった功名心に逸るグループが暴走したという訳だった。
今回彼に来た任務は『冬の娘を護る事』。
冬の旅は本来かなり危険なのだが、それは彼女の特質や彼の結界で何とかなるし、砦には緊急移動用の魔方陣もあり、今回使用できることになっていた。
男所帯の砦に彼女を長期滞在させる方が、彼としては忌避感が強かったのだが。
筆頭魔法使いの話に、自分が役に立つのならと、彼女があっさり了承してしまったのだ。
『人の命に係わるんでしょう? 私に出来るのなら、助けたいじゃない』
反対する彼を、その一言と上目遣いだけで黙らせた彼女は強者である。隊長の生暖かい視線が痛かった。
『まぁ、お前は国王直近の守護騎士だし、新婚だってちゃんと知らせておくから』
余計なお世話だっ、とは思ったが口には出せなかった。確かに必要な処置だと、彼にも思えてしまったのだ。
『冬の娘』という名称は冗談のように告げたが、砦の連中で本当にその意味を知っていたのは、砦の司令官と副官だけである。妻帯で厳冬期にやって来た守護騎士の任務は、あれこれ憶測を呼んだが、これは黙殺した。
色々あったが、とりあえず彼女のお陰でか、滞在中の天候はかなり安定して無事春を迎えた。
そして、彼女の体は徐々に寒さに弱くなり、暖かい物を好みだした。
筆頭魔法使いによれば、奇跡の力が減りさらに人に近づいたからだろうと言う。
「今まで春はあまり好きじゃなかったの。これからどんどん暑くなるんだって、ちょっと憂鬱だった」
「知っている」
「うん。でももう平気なの。夏になるのが楽しみなくらい」
彼女の幸せそうな笑みに、彼もつられて笑顔になる。
夏の彼女は、いつも辛そうだった。昼間はもちろん、夜になっても暑い日など最悪だった。彼が近くにいる時は温度を遮る結界を張ってやっていたのだが、もうそれも必要ない。
彼は出来るようなってからいつも、彼女との間に結界を張っていたのだ。自分の体温は彼女には毒に思えて。
「こうやって、リサに触れられるようになって、すごく嬉しい」
抱きしめほんのり温まった黒髪に頬擦りすると、腕の中の彼女が固まった。
「……えーっとね」
「『国王の』、じゃなく『冬の娘の』守護騎士になったから。またあちこち行かされるかもしれないけれど、ずっと一緒だから」
だから僕の傍で笑っていて、と眩しい笑顔で言われて、冬の娘は真っ赤な顔で頷いたのだった。
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