婚約破棄の午後
行きよりもスピードを落として、ソフィアは愛馬を走らせる。頭の中は、人々の暮らしのことでいっぱいになっていた。事業が行き詰まることで、失う金銭は膨大だ。しかしそれよりも、失業で路頭に迷う人々の人生に対する責任が、ソフィアの心にずんとのしかかる。
鉱石研磨ギルドを保有するミッドフォード家と縁談を結び、将来的には人材を行き来させようという運びではあるが、肝心のロバートは炭鉱事業への興味がないどころか、嫌悪しているようにさえ感じる。
解決策の見えない問題に対して気が重く、ため息が止まらない。気持ちとは裏腹に愛馬は快調に帰り路を進み、あっという間に我が家であるバートリー家の門が遠めに見えた。同時に、見えるはずのないミッドフォードの家紋入りの馬車が停車していることに、ソフィアの思考は停止してしまった。
(私に関わる事じゃなければいいけど……)との願いも空しく、慌てた様子の執事にメインの客間に行くようにせっつかれる。着替える間もなく、メイド長から手渡された濡れタオルで汗と埃だけ拭って、仕方なく客間のドアを開ける。
中にはバートリー家当主である父ダニエルが上座に、我が婚約者であるロバートと義妹アリスがやけに密着して下座に座って談笑していたようだった。ソフィアの姿を見たロバートがニヤリと笑った。
「お義父様!ご覧ください、ソフィアの煤けた姿を!彼女が、宝石商で一二を争うミッドフォードの夫人として日々を過ごすのは、あまりに窮屈そうではありませんか?適材適所という言葉がありますように、麗しい見た目のこのアリスこそ、ミッドフォードの夫人としてふさわしいと考えています!」
その後も、いかにアリスが可愛らしいか演説するロバートに、アリスを溺愛している父は気分よさそうに頷くばかり。
「我が家の合意は取り付けてあります、婚約者の変更にご同意いただきたく!アリスはこの私が、幸せにします!!」
演説がまとまったことに満足したのか、鼻孔を広げ顎をあげ、ロバートは満面の笑みだ。その横でアリスは、うっとりとロバートを見つめている。
そんな状況にげんなりとして、ソフィアは口を開いた。
「一つだけ確認させてください。婚約者以外の契約事項は、変更されないと理解してよろしいですか?」
「ふん、当たり前だろう。家同士の契約がそう易々と変更されると思うか?これだから炭鉱の人間は……」
「それでしたら結構です」
冷静に聞いていれば突っ込みどころの多い一言だが、あきれて何も言う気にならなかった。事業に関する契約事項に変わりはないらしいことが確認できて、少し安心して息をついた。
愛するアリスを評価されたからか、ミッドフォード家に頭が上がらないのか、ダニエルはあっさりと婚約者変更に応じた。
「そんな様子だから、社交界で『石ころ令嬢』などと揶揄されるんだ。少しはダイヤモンドのように煌めくアリスを見習ったほうがいい。」
「ロバート様…そんな、お義姉様が可哀想ですわ…」
その場では、新たに結ばれた二人が、世界に自分たちしかいないかのように手を取り見つめあっていた。
* * *
地獄の客間から抜け出して自室に戻ると、メイドのリサが着替えと軽食を用意して待っていた。やっと一息つけると思いきや、リサは珍しく感情を露わにしてまくしたてた。
「あの方……先ぶれもなく、急に押し掛けてきたんですよ!?それに婚約者変更だなんて……信じられません!」
「ここまで聞こえてたの?いいのよ、バートリー家から誰が嫁ぐか変わっただけだもの」
「お嬢様を待っている間に、あの女豹とベタベタイチャイチャしながら、今日の展望を話し合っていたと、パーラーメイドの同期から聞きました!」
怒りながらも、テキパキと着替えを手伝ってくれるリサの姿に、少し心が癒されていく。四十代後半のリサは、メイドとして採用された当時、今は亡き実母キャサリンと同年代だったこともあり、とても良くしてもらったと、献身的に尽くしてくれる一人だ。リサ曰く、キャサリン派の代表として、実母亡き後すぐにやってきた義母と義妹、ひいては彼女たちを連れてきた父ダニエルのことは許せないとのこと。
「……リサ、私は案外平気よ。ロバートと結婚したところで、炭鉱の問題はひとつも解決しなかったと思うもの」
「それはそうかもしれませんが……」
「それより、夕飯の前にもう少し帳簿を見たいから、ランプの油を足しておいてくれる?」
リサは呆れたように息を吐いたが、「はい、お嬢様」と短く答えて部屋を出ていった。
ソフィアは椅子に腰を下ろし、窓の外を眺める。夕暮れの空が橙と紫に染まっていた。胸の中に何かが引っかかっている気がしたが、それが何なのかを考える前に、帳簿を引き寄せた。炭鉱夫たちの顔が、まぶたの裏にちらついていた。




