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第八話

ボーナストラック的な蛇足のお話。

これにて完結です。

 披露宴という名の盛大な飲み会は夜中まで続いたが、新郎新婦は冷やかされながらも早々に退出している。

 その上、領主家の計らいで、街から僅かに離れた別宅を一晩だけ、使わせてもらうことになっていた。


 「すごい、すごい!」

 エッダが目を輝かせながら、室内を見て回っている。

 正直、王宮に勤めていたこともあるエイヒムにとっては、鄙びた田舎屋敷でしかなかったが、余暇のためだけの空間など見たこともないエッダだ。様々な模様が彫り込まれた柱。瀟洒な陶器。フカフカのクッションに、肌触りの良いソファ。見るものすべてが、宝石のように煌めいて見えた。

 子供のように手をたたいて頬を上気させる様に、エイヒムの厳めしい顔もさすがにほころんでいるのだった。

 「奥の部屋って、何?」

 こぢんまりとした扉を部屋の隅に見つけ、エッダは恐る恐るそれを開く。

 開けた先にあったのは、猫足のバスタブだ。床はタイル地になっている。

 エッダの後ろからのぞき込んだエイヒムは、口笛を吹いた。それほど華美なものではないが、居心地の良さそうな浴室は、人の良い領主家を表しているように見えたのだ。

 「ここ、何?」

 一方、エッダは小首を傾げた。

 通常の民家に風呂場はない。人々は盥にお湯や水を入れ、身体を拭う程度だ。

 夏にでもなれば、庭先で頭から水を浴びることもあるが、それだって宿屋を営んでいるエッダにとっては、常時人の目が多すぎて無理な話だった。いつもは、親父と共用の部屋に盥を持ち込み、親父を追い出して忙しなく汗を流す程度だ。

 今日この日、パレードの前に身繕いを、と言われて、エッダは初めてたっぷりの温水とたっぷりの時間を使って、満足行くまで身体を洗うことが出来たのであった。

 その感動を滔々とエイヒムに語っていると、居合わせた子息が、プレゼントだといって一晩ここを貸してくれたのだ。

 「風呂だ」

 「へぇぇ! これが風呂? こんなぴかぴかの器に、お湯をためるの? なんて贅沢!」

 陶器のお皿だって貴重品な田舎では、バスタブなど超一級の贅沢品であった。

 滑らかな表面をうっとりと撫でる。

 自分はなんて幸せなんだろう、と、エッダは満足げにため息をついた。

 「もういいだろう。どうせ後ではいるんだ」

 エイヒムはエッダの頭を軽く撫で、部屋に戻るように促す。


 もう間もなく、軽食が運ばれてくることになっている。

 エイヒムは、備え付けのいすにどっかりと座り、こんな田舎に似合わない気取ったシャツを脱いだ。

 鍛錬で培った上半身のたくましさに、エッダはまじまじと凝視した挙げ句、顔を赤らめる。

 エイヒムはにっと笑った。

 「男の身体が珍しいのか?」

 エッダは頬を膨らませ、目を背ける。だが、背けた先が豪華なベッドだったものだから、よけい赤くなって床を見下ろした。

 「あ、当たり前でしょ! ついこの間、成人したばっかりなんだから!」

 今度はエイヒムが赤くなる番であった。

 彼はてっきり、エッダには男性経験があるのだと思いこんでいたのだ。

 エッダの身体が年齢にそぐわず発育が良かったのも理由だが、何と言っても、過日の夜這いが、彼女のイメージの一部になっていた。

 「な……なによ! ……がっかりした?」

 エイヒムの返答がないことに不安になり、エッダは男の顔をのぞき込む。

 「いや……そうか……そうなんだな」

 エイヒムは、新妻の視線から逃げるように、今にもゆるみそうな口元を手で隠し、顔全体も背けた。

 身体の奥から沸々と変な笑いが漏れそうになり、と同時に、身体の一部もとても元気になる。

 「変な人!」

 エッダもエイヒムとは別方向を向いて、顔の火照りが去るのを待つ。


 暫くして、二人が沈黙にも飽きた頃、今度はベッドが無言の主張をしてくる。

 エッダは、ベッドも見ないようにしつつ、この沈黙を壊すための話題を探した。

 「あ、そうだ!」

 「どうした?」

 すっかりくつろいでいたエイヒムは、彼女の素っ頓狂な声に首を傾げる。

 それにかまわず、エッダはエイヒムの前まで来ると、やたら真剣な顔でこう言い出した。

 「あんたさ、あたしに隠してること、ない?」

 「隠してること?」

 言ってないことは山ほどある。だが、隠し事、とは?

 エイヒムが首を傾げ続けていると、エッダは辺りを見回し、誰もいないことを確認して、声を潜めた。

 「あの大金のこと。あれ、……殴り倒した上官や同僚から巻き上げてきたんでしょう?」

 「はぁ?」

 「ねぇ、大罪人ってことだけど、王都からのお尋ね者って、領主家は知ってるの? 名前とか、変えた方がいいのかな?」

 「ちょ、ちょっと待て。あれは俺の金だ。巻き上げてきたって、冗談じゃねぇぞ! それじゃ、本当に大罪人じゃねぇか!」

 エイヒムは仰天して、思わずエッダの両肩をつかんだ。エッダはきょとんとしてエイヒムを見上げる。

 「だって、大罪人だって自分で言ったじゃない!」

 「あれは……なんて言うか、言葉のあやだ!」

 「また、難しい言い方して! 今度はどういう意味さ」

 「世を儚んで、っていうか。つまりだな、世の中にいいことは何もないような気がして、……自分を悪く言いたかったんだよ」

 「ばっかじゃないの」

 再度、いすに腰をすとんと落として悄げる街の英雄を、エッダは腰に両手を当て、仁王立ちになってこき下ろした。

 「じゃぁ、あの大金は?」

 「王都では王宮に出入りするくらいの高給取りだったからな。屋敷や家財、持ち歩けないもの全部売っぱらったら、あれくらいになった」

 傭兵仲間の間では、エイヒムは出世頭であり、有名人でもあった。

 ことの顛末も含め、領主子息は傭兵筋から情報を仕入れ、エイヒムの人となりを把握していたはずだ。

 「呆れた。追っ手がいるってのも嘘なのね? 何でそれをさっさと言わないのよ。変な心配して、損したじゃない」

 エッダはエッダで、王都から追っ手が来た場合も想像し、今後の生活に一抹の不安を抱いていたので、エイヒムの吐露には呆れと同時に深い安堵が合わさって、ついつい憎まれ口をきいてしまう。

 「いざとなったら、このでかい図体をどこに隠せばいいか、とか。子供が出来たらあんたのことをなんて説明しようか、とか。ちょっと、何、笑ってるのさ?」

 エイヒムは肩を震わせて、笑っていた。

 それは最初に見た嗤いとは全く違う、心の底からの笑いに見えて、エッダまで楽しくなる。

 エッダはエイヒムの頭をそっと抱きしめた。

 「……王都には、家族はいなかったの?」

 エイヒムはとっさに顔を上げようとしたが、エッダは彼の頭を抱く腕に力を入れて、それを阻む。その腕が僅かに震えていた。

 エイヒムは目の前にある細い腰を抱きしめ、彼女のふくよかな胸に顔を埋める。

 「王都には誰もいない。……父親代わりの方はいたが……それだけだ。俺の家族は、おまえと親父さんだけだよ」

 「もっともっと増えるさ。増やしていこうよ。あたし達の家族」

 彼女の腕がゆるみ、エイヒムは金髪に彩られた顔を見上げた。

 弥栄いやさかを言祝ぐ口づけが、エイヒムの額に落とされる。

 それをこの上ない幸せに、同時に物足りなく感じて、エイヒムはエッダを高く抱き上げた。

 悲鳴を上げた妻が、彼の首に抱きついてくる。

 エイヒムは高らかに笑って妻からの抗議をいなし、ベッドに移動した。

 柔らかくそっと、ベッドにエッダを横たえる。頬はバラ色に、紺色の瞳は笑み細められ、ぽってりとした唇がエイヒムを誘うように弧を描いた。

 「ちょっと……軽食、届くんじゃないの?」

 からかうように笑うエッダの唇を軽くむ。

 「先にこっちを食べたい……」

 エイヒムは熱い吐息をエッダのそれに絡めつつ、かすれた声で答える。

 二人はしばし、夢中で互いの口をむさぼった。

 エイヒムの手が、エッダのスカートをまくり上げ、中に入り込む。

 エッダは、ビクン、と背中を反らし、「あぁ……」と声をこぼした。


 ガチャン!

 バリン!

 ドカッ!


 唐突に不穏な音が屋敷のどこかから聞こえてくる。

 エッダは半分脱げかかっていた服を慌てて胸まで引っ張り上げる。

 エイヒムは口に人差し指を当て、静かにするようエッダに指示すると、そっとベッドから降り、廊下に面した扉に耳を当てた。

 誰かの悲鳴と、怒鳴りつける声。

 何事か良からぬことが起こっているのは、明らかだった。

 エイヒムは素早くベッドに戻ると、エッダの耳に口を近づけ囁く。

 「俺がここを出たら、いすとソファでドアを塞げ。俺が呼びかけるまで、絶対にここを開くな」

 「ヤダ! 一緒に……」

 「いい子にしてるんだ」

 エイヒムはニヤッと笑って、エッダの頬にキスする。まだ慣れないエッダが、固まっている間に、元傭兵はさっさと廊下に出て、音もなく扉を閉めた。


 少しの間、自分の頬を撫でながらニヤついていたエッダは、また激しい争いの音を聞くに至って、言われた通りソファといすとテーブルを扉の前に集めた。

 屋敷の広さが、エッダにはよくわからない。

 ただ、先程までは遠く感じていた音が、徐々に近づいてきている気がした。

 服をしっかり着こみ、毛布を頭からかぶる。

 身体全体が耳になったかのように、音に神経が集中する。

 山賊の時は、すべてがあっという間で、感じたことを考えているような暇はなかった。

 だが、今回は……。

 不安ばかりが増大していく。

 暫くうずくまっていたが、扉の向こうでドン、という音が聞こえると、もう座っていられなかった。

 扉の前で逡巡した後、出来るだけ静かにいすやソファを片づけていく。

 そして、そっと耳を扉に押し当てた。

 ひんやりしたそれの向こうからは、もう音が聞こえてこない。

 エイヒムの呼ぶ声もない。

 なおも、十数える間待ってみたが、やはり屋敷はしんと静まり返っている。

 エッダは勇気を出して、扉を押し開いた。


 蝋燭で照らし出された廊下は、ほの暗く揺らいでいる。

 どこからか、風が吹き込んでいるのだろうか。

 エッダは、火かき棒を両手に握りしめ、廊下に踏み出した。

 どちらに行けばいいかわからず、逡巡した後、ずっと音がしていたような気がした屋敷の奥に向かう。

 エッダ達が泊まっているのは二階の客間。そこから奥に行くと、数部屋隔てた後、遊戯室があるはずだった。

 「エイヒ~ム、どこ? ねぇ、誰かいないの?」

 大きな声を出すのは怖くて、でも誰もいないのはもっと怖くて、エッダは小さな声でできたばかりの夫を呼ぶ。

 突き当たりまでくると、遊戯室のドアが僅かに開いていることに気づく。

 「エイヒム、いないの? 出てきてよ」

 震える声で呼びかけるが、応答はない。

 ドアをそっと引き寄せた。


 黒い陰が目の前に躍り出て、思わず火かき棒を落とす。

 「いや、やめて! エイヒム!」

 「エッダ、エッダか!」

 聞き慣れた声が耳元で聞こえ、驚いて自分に抱きついている男を見ると、何とダルワスではないか。

 「ダルワスじゃないの! 何でここに?」

 久しぶりに見るダルワスは、かつての瀟洒な格好が嘘のように汚らしく、まるで浮浪者のようだ。

 頬はこけ、目ばかりギョロギョロと大きく動いている。

 据えた臭いに思わずえずきかけたが、そんなことにはかまわず、ダルワスはエッダを抱きしめた。

 「これは天の配剤だ! エッダ、一緒に逃げよう! こんな田舎、いやだったろう? 俺と一緒に王都にいこう!」

 かつての自分であれば、すぐにでも飛びついていたような台詞に、しかし、エッダは苦笑するしかなかった。

 「バカなこと言わないで。あたし、結婚したのよ。聞いてないの?」

 「聞いたさ! あの粗野な傭兵と! あの腹黒領主家め! 有名な傭兵と知って、つなぎ止めるために、おまえを餌にしたんだぞ! わかってるのか?」

 ダルワスは、エッダの両腕を掴んで、つばを飛ばして主張する。

 「おまえはいいように利用されているだけだ。なぁ、愛人になれといったのは悪かった。どうしてもおまえがほしかっただけなんだ。俺にはおまえだけだ。俺の才とおまえの美貌があれば、王都で絶対に成功する。

 田舎も、店も、何もかも忘れて楽しく生きていこう!」


 エイヒムは一階の厨房で、雑に縛られたメイド達を見つけ、また、館の衛兵が二人、気を失っているのも見つける。

 メイド達には固まって街まで助けを呼びに行くように言いつけ、自分は衛兵のショートソードを手に、一部屋ずつ見て回る。

 一階に怪しいものは見つからず、エイヒムはいやな予感とともに、二階に急いだ。

 真っ先に駆けつけた自分たちの客間は扉が開いて無人だ。

 背中を伝わる冷や汗。

 エイヒムは思わず、大声でエッダを呼びそうになったが、その時、遊戯室の方から声が聞こえてくるのに気づいた。

 エッダと、もう一人……。男の声だ。

 足音を忍ばせて、遊戯室に近づく。

 エッダは顔見知りなのか、その男にかき口説かれている最中であった。

 「おまえはいいように利用されているだけだ。なぁ、愛人になれといったのは悪かった。どうしてもおまえがほしかっただけなんだ。俺にはおまえだけだ。俺の才とおまえの美貌があれば、王都で絶対に成功する。

 田舎も、店も、何もかも忘れて楽しく生きていこう!」

 愛人という台詞に、ピンとくる。あれは取り逃がしたダルワスだろう。

 ずいぶん様が変わっているが、逃亡生活の果てということであれば、理解できた。

 エイヒムは踏み込もうとして、エッダがしゃべり出した言葉に驚いて、歩を止めた。

 「そうね。確かにあたし、ここを出て行きたかった。王都にいって、お姫様みたいな暮らしがしたかったわ」

 「そうだろう!」

 我が意を得たり、とばかりにダルワスが相づちを打つ。

 「きれいなドレスを着て、毎晩夜会に出て、おいしいものばかり食べて、そんな贅沢に憧れていたわ」

 「勿論だとも! それこそ、甲斐性というものだ」

 ダルワスは調子づいて、エッダから離れてドスドスと歩き回る。

 エッダはそれを眺めていたようだったが、静かに、糸を紡ぐように言葉を紡いでいく。

 「でもね。気づいたのよ。そんなの、幸福じゃないわ。ただの贅沢よ。

 ダルワス、私ね、贅沢をしたかったんじゃないの。幸福になりたかったのよ」

 「だから! 幸福は贅沢をすればこそ!」

 「そう思っちゃったから、あんたはいま、そこにいるのよ」

 「……エッダ、どういう……意味だ?」

 エッダの声は、涙を含んだように優しく響く。

 「ねぇ、ダルワス、あんたの大好きなお金は、あんたをどれだけ幸せにしてくれた? どれだけ満たしてくれた? あたしには、あんたはいつも飢えているように見えていた。ちっとも幸せそうには見えなかった。

 何でかな」

 「それは! 金が足りなかったから!」

 「あたしの幸せはね、母さんが笑ってくれること。父さんのおいしい料理を食べること。エイヒムにぎゅっと抱きしめられること。……一つも、お金で買えないことだったわ。

 ダルワスは? あんたの幸せは……何だった?」

 問いかけられ、ダルワスは迷ったようだった。

 数瞬の沈黙の後、先ほどまでとは違う、落ち着いた青年の声が聞こえる。

 「俺は……やっぱりおまえがほしかった。でも、俺のほしいおまえは、いつも笑っているおまえで……俺の前ではそんな顔、ちっとも見せてくれなくて……」

 迷子のように途方に暮れている声。

 エッダの笑い声が部屋に響く。

 「バカね。そんなのやっぱり、お金で買えないじゃない」

 「……そうだな。そうだ……。金でおまえをものにしても、それは笑ってるおまえじゃなかっただろう」

 ダルワスの自嘲のにじむ声。

 「お金は確かに必要だけどさ。でも、それだけじゃないよね。……それだけじゃ、ダメだよね」

 「エッダ……。やっぱりおまえ、俺と来ないか? 心を入れ替えて働く。おまえと一緒なら、俺は……」

 真剣な懇願に、こんな声も出せたのか、とエイヒムは胸を突かれる思いだった。

 そして、エッダがその手を取るのか、卑怯だと思いながらも、扉の陰に潜み続ける。

 衣擦れの音が聞こえ、思わず息をのむ。

 二人が抱き合っている、そんな光景が脳裏に浮かぶ。

 沈黙はどれくらい経っただろうか。

 「元気でね、ダルワス。でも、二度と戻ってこないで」

 エッダの声に、エイヒムは瞬いた。

 もう一人の気配が、窓の外に向かう。枝のこすれる音が聞こえたから、木を伝って降りていったのだろう。

 エイヒムが動けないでいる間に、扉が開き、エッダの驚く声が聞こえた。

 「エイヒム! いつからここに?」

 「あぁ……いや……」

 何と言ってごまかそうか、と考え、諦めた。

 「ダルワスと行かなくて、よかったのか?」

 まっすぐに問うと、エッダの目もまっすぐに見返してくる。

 「何、バカなこと言ってるのよ? あたしが居る場所は、あんたのところよ。

 家族、増やすんでしょう?」

 何の嘘もない瞳。

 この瞳に見つめられるだけで、負けたような気持ちになる。

 エイヒムは小さく頷いて、妻を元の客間に連れて行った。


 「ダルワスの他に仲間がいないか、確認してくる。もう少し、ここで待っていてくれ」

 もう誰もいないと知りつつ、エイヒムはエッダを残して、再度廊下に出た。

 屋敷の外にでると、馬小屋の前でうろちょろしている黒い陰を見つける。

 エイヒムはそっとその背後に近寄り、その背に剣を押し当てた。

 ダルワスが無言で両手をあげる。

 剣先は、僅かに服の中に食い込み、細い筋がそこから伝い落ちた。



 「ここでおまえを殺すのは簡単だ。首の骨でも折って、馬の横に倒しておけばいい。

 エッダも、おまえが馬で逃亡しようとして、間抜けにも首を折ったんだと思うだろう」

 「……なんでそうしない?」

 ダルワスの声が震えている。

 「俺はもう、酒場の親父だからな。そんなことをする意味がねぇ」

 自分で言っていて、自分でおかしくなる。まさか、酒場の親父になる未来が自分にあるなんて、これまで考えたこともなかったのだ。

 「助けて……くれるのか?」

 エイヒムの笑みを含んだ声に、僅かな希望を見たのだろう。ダルワスの声が跳ね上がる。

 途端に、エイヒムは威嚇するように低くうなり、剣をきつく押しつける。


 「勘違いするな。俺はてめぇを許してねぇ。エッダの腕をひねりあげたこと、忘れたことはねぇ」

 切っ先を、ダルワスの腕に沿わせて動かすと、ダルワスは目に見えてがたがた震えだした。

 エイヒムはうっそりと笑った。

 「だから……ダルワス。おまえの魂に刻め。俺を傭兵に戻すな。いいな、二度と戻すんじゃない。俺が血の味を思いだしたら、おまえの最期だ」

 青年の下履きが見る間に濡れていく。

 鼻につく臭いがした。

 エイヒムは、ダルワスの背中を強かに蹴った。

 「わかったら、行け!」

 悲鳴とともに、青年は転がるように去っていく。


 エイヒムが部屋に戻って暫くして、自警団と領主の子息が押っ取り刀で駆けつけてきた。

 エッダが黙っていたので、エイヒムも、入り込んだ盗賊が何者であったのかは話さなかった。

 以来、ダルワスの姿をこのカゼシスで見たものはいない。


 子息からは、警備の不備を謝罪され、旅行までプレゼントされそうになり、二人は慌ててそれを辞退した。

 そして、翌日からはいつも通りの毎日、酒場と宿屋の喧噪に戻ったのであった。


 その後、カゼシスは思わぬ発展を遂げることになるのだが、その発展にエイヒムが大きく貢献したのは、また別のお話。

 ただ、宿屋の名物夫婦は、唯一、「浮気疑惑事件」を除いて、終生変わらぬ仲の良さであった、と伝えられている。


END

ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。

またほかの作品でお目にかかれますことを祈って。

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