第1章① メイドと大金持ちの娘
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【序章】
「私は貴方の名前を継ぐわ!
偉大な貴方の名前を!」
広場で少女が叫ぶ。
例えもう会えなくても、これでお別れでも。
それでも私たちの心はずっと一緒。
そう、叫ぶ。
最も親しく、最も愛した女性に向かって。
姿は見えないけれど、どこかに隠れて聞いているんでしょ?
返事なんていらない。
ただ、これは心を貴方に捧げる決意だから聞いていてほしい。
愛してもいない男ともうすぐ婚姻をする私からの選別の言葉だから。
お願い、受け取って。
「今から私の名前は!」
これは永きに渡り平和な国が生まれた、三百年前の物語。
何人たりとも侵されず、何人たりとも飢えず。
安心して生きて、安心して死ねる。
そんな国が産声を上げた物語。
同時に、ある時代を走り抜けた一人の少女の日記。
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【第1章】
高台に建つ屋敷の窓から港の稜線が見える。
多くの帆船が並んでおりなんとも雄大な眺めではあるが、横目に一人のメイドがため息をつく。
それは遠くの船を動かしそうなほど大きくて長い。
毎日起こる問題が今日も起きてしまったのだ。
いつものことで慣れているとはいえ、頭痛の種であることは変わりない。
「まったくあの方は」
現実逃避に景色を見ていたのは、先日16歳を迎えた少女。
どこからか吹き込んだ風で、漆黒のポニーテイルが本物の馬尾のように左右に振られた。
オイルで濡れたように艶があり、熟れる前の果実の香りがする。
少女の名は、フレーデグラフ・エーウィッヘイト。
咲きほころびはじめた麗しい華だ。
髪を揺らした風を探して周囲を見ると、長い廊下の先にある窓が開け放たれており、静かにレースのカーテンを揺らしていた。
そこから風の精霊様に導かれた春の空気が舞い込んだのだ。
「落ち着きなさいということでしょうか」
せっかくの人生をいらいらすることはない。
そう諭された気がして少女はもう一度ため息をついた。
胸の中のもやもやを吐き出すために。
薄い唇を通って外に出た嫌な感情は、再び吹いた風に乗り遠くへ運ばれていった。
この世界は精霊に祝福されている。
人に干渉することは極めてまれだが、心のどこかで存在を感じる。
街角の一角に、晴れ渡る草原に、澄んだ空に、吹く風に。
そして世界で僅か数人、精霊に気に入られた者が小さな加護を受ける。
夜に少しだけ目がよく見えたり、走るのがわずかに早くなったり。
そんな小さな加護だが、本人も他者も確かに力を感じるのだ。
「さて、お嬢様を迎えに行かねば」
商業国家マルクト。
特権階級である貴族制、王族制を捨て、民主制を敷いている唯一の国である。
大陸の東海岸に接しており、陸海運や工業に強い。
その中で特に裕福で、強い権力を持つ会社がある。
三大商家のひとつハンデル=ブルーム家であり、多数の帆船を保有して輸出入を独占していた。
その一人娘に与えられた巨大な別宅の廊下を、若いメイドが早足にだが静かに歩く。
午後に来客があると伝えていた主が、直前になっても現れない問題をどう解決しようか考えながら。
「時間通り来るとは思ってはいませんでしたが」
長いスカートから除く華麗な足運びは埃を立てず優雅ではあるが、彼女を知る者が見れば少しだけ不機嫌なことがわかる。
髪と同じ黒色の瞳が向かうのは、屋敷の端にある一番狭い部屋。
小さな窓と小さな机。
そして空きスペースを埋める本棚と書籍の山。
彼女のご主人様が書斎として好んで使っている元物置小屋だ。
その部屋の扉には半分つぶれた書きなぐった文字で『入室禁止』と直接書かれていた。
使用人の月給を遥かに超える、ウォルナットの無垢材製で高級品なのだからやめてほしいものだが、この屋敷にある豆一粒まで主のものなのだからあまり強く言えない。
前に立ち、苛立ちを抑えるよう大きく息をついてからノックをした。
「コルネリア様いらっしゃいますでしょうか?
フレーデグラフでございます」
落ち着いた声色。
草原を走る昼光の如く慈愛に満ち、同時に気品が溢れていた。
発せられた一言だけで育ちの良さが分かる。
「入っていいわよ」
ご主人様の声で扉を開ける。
簡素な机にぐらつく椅子。
それに座るは、磨かれた肌に豪奢な刺繡が施されたリネンの部屋着を纏う少女。
「約束の時間が迫っています」
「うっかりしてたわ」
コルネリア・ヘルト・ファン・ハンデル=ブルームという、長い名を持つ館の主が答えた。
フレーデグラフの声に小さく肩をすくめて、まるで約束を忘れていた様な雰囲気を出している。
しかしコルネリアの反応がわざとである事など百も承知だ。
彼女は豪商ハンデル=ブルーム家の一人娘であり、白金の華と呼ばれる稀代の才女である。
そのようなミスをする者ではないことは重々承知なのだ。
「今から準備をしても遅れはしませんが、もう少し余裕を持った行動を」
「ごめんなさいフレーデ。
明日から気を付けるわ」
愛称で呼ばれたメイドが今日何度目かのため息を飲み込み、まじまじと明日からも変わらないであろう主人を見る。
全ての光を反射する銀の髪と白い肌。
透き通る金の瞳。
自分が漆黒ならばコルネリアは純白。
相反する付き合いの長いふたり。
幼いころからの友人で、主従関係になってからも既に5年が過ぎている。
「フレーデに睨まれると寒気がするわ。
からかってごめんなさい、準備をする」
差し出された手をフレーデグラフが取ると、嬉しそうに口元を綻ばせてから立ち上がった。
やけに冷たい主人の手を、メイドは少しだけ包むように握る。
並んだコルネリアの身長は、長身のメイドと比べると幾分か低い。
しかし、細身でありながら鍛えられた肢体は美しく、穢れを知らぬもう一輪の華であった。
それだけに非常にもったいないのだ。
「はしたないです」
廊下を大股で歩く主人を後ろからフレーデグラフが戒めた。
部屋着の裾からはふくらはぎがちらちらと覗き、肌を晒すなど淑女としてあるまじき露出だ。
「あら、のんびり歩いて時間を無駄にすることに比べればこんなこと」
きっといたずらっぽく笑っているのだろうと、フレーデグラフは銀髪の後ろ頭を見ていた。
他愛のない会話をしながら長い廊下を歩き、コルネリアの自室に入る。
どうやって一人で使い切るのだろう広い部屋には、足が埋まりそうに毛の長い絨毯が敷かれており、足音を無音にする。
ありとあらゆる調度品が歴史的一品であり、ちりばめられた装飾が昼過ぎの光を反射していた。
椅子一つ、ベッド一つで家が建つだろう。
「着替えを頼むわ」
主人の言葉に小さく頭を垂れてから、ゆっくりと服を脱がせていく。
ボタンを一つ、結びを一つ。
ほどくたびに現れる雲よりも白い肌。
なるべく見ることがないよう視線を落とし、作業を進める。
「遠慮しなくていいのに。
肌を見ることを許されているのは、あなただけなのだから」
「……お戯れを」
「戯れてなんてないわ」
目の前で世話をする従者の髪をコルネリアが一房手に取る。
朝露を滴らせたかのような艶と、蜜に似た甘い香り。
指先で弾けば押し返すような力強さ。
「いつみても羨ましい髪」
一瞬だけフレーデグラフの手が止まるが、すぐに動き出す。
「私はコルネリア様の髪の方が羨ましく思います。
幼子のころに読んだ神話に出てくる神々のようで」
その言葉に短く笑い、よしよしと頭を撫でられた。
表情の変化が少ないフレーデグラフの頬が少しだけ動く。
照れか、喜びか。
「私たち相思相愛ね」
「お戯れを」
「だから戯れてなんてないわ」
ようやく着替えが終わったコルネリア。
短く礼を言うと踵を返して歩き出す。
たった今まで軽口を言っていた少女が、白金の華となった。
「さあ、行くわよ。
今日の予定をもう一度教えて」
簡易なドレスを着た背は頼もしき主となり、フレーデグラフにとても頼りに見えた。
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