柴田の転勤
日柴田は会社で本部長室にいた。柴田は既に課長になっていた。
人事の本部長だ、この本部長に呼び出されるときはやはり緊張する。この人の一言でその後が決まってしまうのだ。
柴田はドアに背を向けて座っていたが、本部長が大きな音をたててドアを閉めた。そして背後に近づいて来るのが分かった。
本部長が現れ、その細い体をゆする様にして、柴田の座る向かいのソファに腰をかけ、煙草に火をつけた。柴田は社会人になってから煙草はやめている。最初のころは苦労したが、今は人が吸っているのを見ても吸いたいとも思はない。
本部長が言った。
「頑張っているみたいじゃないか」
柴田は黙っていた。柴田は何となく嫌な予感がした。
「でも頑張りすぎてもいかんぞ。君の処の部長からちょっとな・・・・・」
「どういうことです」
柴田は言った。
「私としても君という人材を本部から外すというのも残念なのだが」
柴田はその言葉を聞いても冷静でいた。
「どこへ行けというのです」
「仙台支社へ行ってくれないか。悪いところじゃない。仙台も素敵な街だ。とりあえず2年間だ」
そして本部長が言った。
「1人じゃかわいそうだ高田君も一緒にしてやる」
席へ戻ると早速吉本が近づいてきた。
「課長、何のお話だったのです」
「お前には関係ない」柴田は怒鳴りつけた。
だが柴田はこの会社で骨をうずめる気はなかったし部長職で数年働いて、その後は自分でITの会社を立ち上げる心算でいた。あと数年である。そのための貯金だ。
だがやはり本部で履歴を積み、人脈を太くしたいと思っていた。その人脈、木島を自分の計画に誘い込む気でいた。そしてこの計画は木島だけにはすでに話してあるのだ。彼は乗り気でいた。それだけに仙台支社への転勤は大きなショックだった。また圭子に何と話そうか少し迷った。
その日の夜、静かだった食事の最中、柴田が突然申し訳なさそうに切り出した。
「仙台に転勤になった。」
「えっ・・・。仙台。どういうこと、どうするつもり。私はいけないわよ、仕事をやめるわけにはいかないもの。」
圭子はショックが隠せなかった。彼を責めるように言った。
「わかっているよ。単身赴任、2年の間だ」彼は下を向いて謝罪するように言った。
二人は何を言っていいかわからず食卓にはしばらく沈黙が続いた。
「単身赴任、いつ行くことになるの」
圭子がようやくなおも彼を責めるように尋ねた。
「4月からだ」
彼は相変わらず下を向いている。
「まだ寒い季節ね」
圭子は横を向いてようやく顔を上げた柴田に答えた。
食卓を離れて彼はTVを付けた。彼は困るとすぐにTVを付けて逃げようとする。圭子は離れて暮らすことに少々不安を感じた。彼に対する不安ではなく自分に対しての不安である。
3月の末仙台の住まいも決め、彼は引っ越しの準備を始めたが旅行に行くように楽しそうに見えた。手伝っていた圭子は腹正しさとともに悲しさ、というよりも大きな不安を感じていた。それはやっぱり彼に対する不安ではなく、自分に対するものだった。
彼のいなくなった部屋はただ広いだけのものに感じられひどく寒く思った。もう4月になった。しかしそれ以上に寒く感じられた。この状態は、以前、彼と結婚する前の状態だった。ここにこうやって一人で暮らしていたこともあったのだ。そう思って自分を慰めたがやはり物足りなさが残ってしまった。
柴田は1月に1度は帰ってきた。圭子も何度か彼のところに行き、住まいをチェックした。女のにおいはなさそうだった。休みに携帯に電話を入れても落ち着いた対応だ。怪しいところはない。彼女は、少しでも女のにおいを感じたら、探偵を雇い彼の身辺を調査するつもりでいた。「覚悟しておけ」そう、思っているのだが。今の処、問題はない。
その日、圭子は何か不安を感じていた。彼に対する不安ではなく自分に対する不安である。
今週の休みは仙台に行こう。自分自身を確認しなければならないそう感じ彼女はその夜に彼に電話を入れた。彼は特に驚きもせずに、
「いいよ」
そういつもの調子で答えた。
その電話の調子を聞くと彼には後ろめたいことはなさそうだ、と圭子はその時点で確信した。あとは自分自身を確かめることだけだった。彼女も仙台は嫌いな街ではなかったし、行くたびに松島、日本三景のひとつを見に行けるのだ。ちょっとしたストレス解消でもある。朝、いつもより念入りに化粧をしながら、彼のお気に入りの白のブラウスを着て出かけることにした。彼女は鏡に映る自分の瞳の奥を見つめて自分が何を求めているのか尋ねてみたが答えてはくれなかった。列車に乗り込んだ。荷物はだいたい彼のところに送ってある。あとは体だけだ。そんなことを考え、早くもその夜を想像し、少しときめいた。
札幌から仙台。特急列車で3時間くらいだ。圭子は電車に乗り込むと早速男の視線を感じた、しかし彼女は気にも留めずに平然と席に着いた。圭子は電車の速度がいつもより遅い気がした。時刻表通りに進んでいるのだろうが、ひどくゆっくりと進んでいるような気がしてならなかった、窓の外の景色はまだ寒い。少し眠ったほうがいいかもしれないそう思ったがなかなか眠れなかった。青森を過ぎたあたりで雨が降ってきた。傘を持ってこなかった、そう思ったが彼が持っているだろう。降りてから買うこともできる。500円程度だ。そんなことを考えながら何となく眠りについた。
仙台の駅に着くと相変わらず雨は降っていた。待ち合わせの時間は過ぎていた。雨の中、少し走りながら待ち合わせの場所へ急いだ。
彼はもう来ていた。彼女は雨で濡れた長い髪に手をあてて、雨でぬれて下着のすけた白いブラウスで彼をみつめた。
「ごめんなさい」
と息の切れた声で言うと、その彼女の姿に視線を投げかけた男は少なくなかったが、柴田は気にも留めていなかった
「晩ご飯は外で食べよう」
そう言うと、すぐに圭子に背を向けて歩き出した。彼がよく行くという店で中華を食べ、彼の部屋に戻った。部屋は相変わらずきれいにしている。圭子は、女が掃除に来ているのではないか、思わず勘繰りたくなった。
「仕事のほうはどうなんだい、あれだけ張り切って入った会社だろう」
彼は冷えたビールを開けながら彼女に尋ねた。
「相変わらずよ。仕事自体は面白いわよ」
彼女は言い訳するように言った。
「あなたこそどうなの、その後昇進なんかの話は出てこないの」
彼女は彼に期待している。
「すでに決まっているじゃないか。ここで2年働いて本社にもどっての話だよ」
彼はあまり向上心を持たないように彼女には見える。
「生活に変化が欲しいわ」彼女は妖し気に言った。
「今日こうしてここにいることも変化じゃないか」。
彼はコップの中のビールをみつめ言った。彼女は何も言わなかった。雨の音は次第に激しさを増していくようだった。
「明日松島へ行けるかしら」
彼女は思いついたように訊ねた。
「大丈夫よ。仙台の明日の予報は晴れだ」
彼はなにげなくビールを飲みながら答えた。
「私にもビールを下さる」
彼女がいたずらっぽく微笑む。彼は彼女がお酒を飲むと大胆になることを十分に承知している。
「ああ」
そういって彼はコップを彼女の前に置いた。
しばらくTVをみながらビールを飲んでいた、仙台の夜は長い。
彼はお酒をウイスキーに変えていた。TVはサスペンスドラマだ。久し振りに見たが、彼が今日も犯人を当ててしまった。彼女には解からなかった。そのたびに彼女は自分が頭の悪い人間だと思い知らされる。
だからなのか、こうしていても胸の空白はいまだに収まらない。このぽっかり空いたような空白に何を満たせばよいのか。自分が何を必要としているのか、何を求めているのか彼女にはいまだに解からなかった。




