三人の出会い
死のうと思った事もあった。でも死ねなかった。怖かったのだ。そう、ただ怖かっただけ、だから生きていた。ただ生きていた、ただ溜息を突きながら、目的も、あてもなく・・・。
10月も終わる頃だった。仕事が終わった何時もの帰り道だ。なぜか圭子は嫌な感覚に襲われていた。すごく気が重くなり、何か自分が悪い事でもしてきた様な気がし、心が深い穴の中に落ち込んでしまった様な気がしていた。すれ違う人たちが「お前は悪人だ」そう言いながら自分に黒くて醜い塊を投げつけてくる様な、そんな気がしていた。嫌な気分だった。その穴は溜息を一つつくたびに深まっていく様な、深くて暗い穴だ。そこに落ち込むと、二度と這い上がれない様な気すらした。今、自分は何も見えない森を一人で歩いているようだった。緑のない森。緑はないけれど間違いなく森だった。森だと思っていたのかもしれない。灰色の雲のかかった暗くて寒い森。悲しくて寂しかった。そんな嫌な感覚に襲われ、小さく溜息を突いていた。
少し歩き駅の改札を抜けると、階段を徐々に、一段一段ゆっくりと降りて行った。汗臭い色のコートを着たいかにもサラリーマン風の男たちが足早に彼女を追い越していった。そしてホームの長い人の列、誰も居ない場所に立つと、コートの襟を立て、向かいのホームの色褪せて乾いたような看板を見ていた。その下に立っている男の顔が目についた「まんざらでもない」そんなことを考えていると、自分の胸の内の女という部分が激しく熱くなるのを感じ始めた。そして地下鉄のホームでは、かなり長い時間待った様に思える。そこで一つ、歳を取った様な気すらして来た。すると、ようやくホームにエナメルの光った地下鉄が、勢い良く入ってきた。「誰か飛び込みなさい」そう言いながら、誘い込む様に入って来た。中の乗客は俯いて、何かを祈っている様に見える。地下鉄が止まってドアが開くと、ゆっくりと電車に乗りこみ、いつもの時間を地下鉄の中で過ごす、その時間は15分、立ったままだ。圭子は地下鉄のつり革につかまりながら考えていた「地下鉄を降りるとバス。いつもは座れるが今日は混雑していて座れないに違いない」。やはり バスは座れなかった。「おまえには座らせない」そう言った表情で一人の男が本を読みながら座っている。しかしこの路線の電車は少し揺れる、男は軽く舌打ちをして本を閉じた。そして彼女はバスを降りるとマンションまでの道。道はやや上り坂、紫色の小雨が静かに降り出してきた。今日は何時もの“やや上り坂”が60度の急勾配に感じる。その急勾配に彼女は俯き、また小さく溜息を突いた。
そして結局部屋に着き、ドアを開けて部屋に入ると部屋は冷えきっている。入ったことはないが、棺桶の中も同様な寒さだろう、彼女は思いながら、ベッドの上に大の字に横になった。抱きしめてくれる人もいない。彼女はふと思った。今日は金曜日、そう、明日は休日なのだった。時刻を見るとまだ6時半だ、今日は定時で会社を上がれたのだ。彼女は思った「久しく飲みにも出ていない、少しくらい羽目を外しても許されるに違いない」誰が許すのか分からないが、そう、熱くなった女がまだ収まっていなかった。
圭子は会社の直美を誘うことにした。彼女も男好き。何度も一緒に飲みに出ている。彼女は飲み相手に丁度良い。圭子は携帯を直美の番号に合わせ、ボタンを押した。呼び出し音が5回鳴ったが直美は出ない。後2回、そう思って3回待った。そして直美が出た。彼女の甲高い声が耳に障る。
「どう、今日これから一緒に飲まない」圭子が電話に出た直美に名前も告げずにいきなり言った。しかし直美は直ぐに圭子だと分かった。圭子に誘われるのは久しぶりだった。特別予定もなかった。煩わしさも感じたが彼女は暇だった。
「いいわよ」
気怠そうに直美が言った。
時間を決めて、場所は何時もの場所。そして電話を切った。圭子は早速、何を着て行こうか迷った。パンティーとブラ一丁で彼女は鑑に向かってポーズを取った、くびれた腰に長い足、胸はCカップ、いい女だと思った。そう、間違いなく直美よりはいい女。彼女は自身で思っていた。大胆な赤のワンピースを着て、首にはプラスチックのネックレス。化粧をしながら、今夜のふしだらな夜を想像してみた。激しく熱くなった物が一層激しく高まった。そして出かけた。
待ち合わせの場所。10分ほど経ったところで、厚化粧の直美が何時ものピンクのコートで現れた。圭子は彼女を見て、何故だか飲みに出ようと思ったことを一瞬後悔した。結局二人は何も言わずに何時ものバーへ向かった。店は週末の金曜日、煙草の煙がけむたかったが、客達の会話は、リズミカルな音楽の様に耳に響いた。とりあえず、二人は席に着いた。席に着いた圭子は早速辺りを見渡した。二人はビール、大ジョッキを頼み、軽くジョッキを合わせた。お通しは何時ものポテトだ。
「直美知ってる、安本、総務課長の子をおろしたらしいわよ」圭子が何げなく切り出した。圭子の話題がそこから始まった事で、直美は今日の彼女が何を企んでいるかを感じた。
「エー、そうなの。でも、あの子何も言ってなかったみたい」
彼女もその噂を耳にしていたが、話を合わせて驚いて見せた。そしてつまみのポテトを口に放り込んだ。
「ばかね。そんな事、自分で人に言うわけないじゃない」
圭子が言った。
「あの子、同じ課の遠藤君とも付き合ってるはずよ」
直美は少し面倒くさそうに言った。
「だから二股よ」
圭子がそう言いながら辺りを見渡した。そしてぎこちない手つきで、カバンからタバコを取り出し火をつけた。メンソールだ。
「あら、あなたタバコ吸うの?」
直美は最近禁煙したばかりだった。
「最近ちょっとね、一日5本程度よ」
直美はもう一本ポテトを手にした。
そしてその先を何となく見つめながら言った。
「本数はどんどん増えていくものよ。どこまで我慢できるかしら」
内心「圭子に煙草は似合わない」彼女はそう思っていた。
2時間ほど経った。直美がビール3杯目を注文していた時、圭子が空を見上げる様な目つきで呟いた。
「早く結婚したい」
「今、好きな人でもいるの?」
「もうすぐ40よ、好きだの嫌いだの言っていられないわよ。男なんて見かけが良くて金回りが良くてあっちの方が上手けりゃそれでいいのよ」
「あっちって何よ」
直美が絡むように言った。彼女は結構酔っていた。
「セックスに決まてるでしょ。よくいるのよ、自分だけ行っちゃって、よかったね。なんて言ってサッサと寝ちゃう男。そういう無責任な男は何をやらせてもダメ。だから男なんてまず寝てみなけりゃ良し悪しなんて判らないのよ」
そう怒る様に答えて、圭子は6本目の煙草に火をつけた。
「そんなおとぎ話みたいなこと言ってるから行き遅れたのよ」
「私は別に行き遅れたと思っていないわ」
二人はそれ以上何も言わずにまた飲み始めた
「二人だけで女子会かい?」
その時偶然、直美の心に響く声がしたのだ。稲妻の様に激しい電気が直美の頭の先から足の先まで走り抜けていった。
彼女は体中に、あの時に頂点に達するような、快感と喜びを感じたように、神の声を聴いたのだった。「この男だ」。彼女は我を失い男を見つめていた。
男はさり気なく、2人の向かいの席に腰を掛け、テーブルにウイスキーの入ったグラスを置いた。一方圭子は思っていた、「大した男じゃないな」
しかし直美は、少し赤みがかった大きな目をさらに大きく見開いて、男を見つめていた。彼女は心の中に電気が走ったように、しばらく言葉を失ってしまっていた。彼女の心の時間が止まってしまった。だが彼女は怯えていた、そんな自分の心に、神の声におびえた。何故なら彼女は自分が信じられなかったのだ、自分に自信が持てなかったのだった。
圭子は直美の変わり様を見抜いていた。彼女はメンソールの煙草を一息吸うと、男に向かって冷たく言った
「丁度退屈していたところなの」
圭子が言った。
我に返った直美は、男を自分に向かせようとしてみたが、言葉が見つからない。とりあえず、
「あたしたち、某生保勤務よ・・・」
男は関心も無さそうに返事をしながら、その目は探るように圭子の胸元を見つめていた。圭子はその男の眼つきを見ながら「今夜は、こんなところで手を打とう。取り合えず直美には渡さない」そう思っていた。
直美は、男に自分の話を聞かせようとしたが、男は彼女を見てはいなかった。彼の視線は、美しい圭子の横顔から首筋、そして深く割れた胸元へと投げかけられていた。圭子は黙ったまま何も言わず、静かにその視線を受け止めていた。結局、直美は男に何も言えなかった。
男は柴田と言った。45歳、IT企業勤務のサラリーマンと言うことだった。それから1時間後、圭子がひどく酔っぱらった直美をタクシーに乗せ、地下鉄に向かった。そこには圭子の思った通り、柴田がいた。約束した訳ではなかった。そして彼女は、静かに彼の手を引き何時ものホテルへ向かった。
その夜、二人はホテルのベッドで、激しく絡み合った。男は圭子の匂うような女に酔っていた。そして男の強さに何もかもを忘れかけて、圭子は言った。
「あたしたち今日あったばかりなのに・・・」そして切なげに、透き通るような思いを彼にぶつけ、女を感じていた。そして、そのまま眠りについた。
次の朝
「良かったら電話して、携帯教えるのは初めてよ」
何時ものセリフを残して圭子はホテルを出た。
直美は次の朝目を覚ますと酷く頭が重かった。前日何があったよく覚えてはいなかった。どうやって帰ってきたかすら記憶にない。何時もの通りだった。しかし一つ、いつもと違う点がある。男の顔、名前を憶えていたのだった。そして運命という言葉を思った。
それから一週間後、圭子の携帯が鳴った。圭子は思った。柴田だろう、柴田であって欲しい。電話は柴田だった。誘われるままに、何時ものホテルに出かけた。次の朝、何時ものホテルのベッドの中、柴田は圭子に結婚を申し込んだ。彼女に驚きはなかった。彼女はそうなるような気がしていた、そうなる事を望んでいた、そうなるに違いないと思っていた、そして肯いた。
それが全ての嘘の始まりだったことは、二人とも気づいていなかった。
月曜日会社に出かけても特別なことはなかった。結婚したことを、課長に報告すると課長はあたりまえのように笑って、
「おめでとう」
といっただけだった。同僚たちからも、
「おめでとうございます」
そう言って、特別なことでもなさそうに祝福された。
直美はなにも言わなかった。そして圭子は柴田と彼女の部屋で、結婚生活を開始した。彼は優しかった。いい人だった。




