第一話 花見
「鵜飼くん、私、思ったんだけど」
橘さんが不意に呟くように言った。僕は反射的に身構える。
「桜って、そんなにきれいじゃないよね」
「藪から棒に何を言い出すの?日本人すべてを敵に回すような発言して?」
「別に日本人を敵に回したいわけじゃないわよ。私は事実を口にしただけよ」
僕は周囲に目を配る。まさか、今の発言を聞かれていないよな。
「鵜飼くん、何をビクビクしているのよ。聞かれて困ることなんて言ってないわよ」
橘さんは別に臆することなく言い切った。ここは桜満開の公園。周囲には花見客が大勢いた。すでに飲み過ぎて良い感じに酔っぱらった人が大声で叫んだり歌ったりしている。
「まあ、この中で橘さんの発言をわざわざ聞く人なんかいないか」
「私は別に相手の顔色を伺うつもりはないわよ」
いや、こちらは少しは顔色を伺ってほしい。しかし、それは無理な話だろう。橘さんはそういう人だ。
彼女の名前は橘咲。
背が高く美人だが、その容姿に惹かれて不用意に近づけば、その発言、その行動に、振り回されすぎて、三半規管が壊滅的なダメージを受けることは間違いない。だから、彼女に近づく異性は皆無といってもいいくらいだ。さらに女性からも白い目を向けられ距離を置かれている。同類と思われたくないのかもしれない。
ただし、彼女と付き合える例外とも言える人物はここにいた。それが僕、鵜飼和人だ。
そもそもこの橘さんは僕とは大学時代からの付き合いでかれこれ十年近く離れられない腐れ縁だ。というか人見知りで上がり性で地味な見た目の僕は彼女に絡まれたまま、嫌とも言えず、逃げることもできず、それでいて実はそれほど嫌とも思っているわけでもなく、この関係が社会人になっても惰性のように続いているのだ。
そして今、僕らは春の陽気に誘われて、満開の桜の公園に花見に来ている。
「で、話し戻すけど、桜って実はそんなにきれいじゃないよね」
「きれいじゃないですか、満開で」
「それは満開だからでしょ。一輪だけ見ればそんなにきれいでもないわよ。ピンクというには薄すぎるし、花は小さいし。八重桜やチューリップやツツジの方が鮮やかできれいじゃない。桜は圧倒的な物量とぼんぼりのようなライトアップできれいだと思い込まされているのよ」
強引すぎる意見だと思うが確かに少し納得するところもある。晴天ならまだしも曇り空の桜は背景に同化してぼやけて見えてしまう。
「それでも、素直にきれいだと思うでしょ?現にこうして花見に来ているわけだし」
僕がそう言うと橘さんは興味なさそうにたこ焼きを食べていた。先ほど屋台で買ったやつだ。さらに袋に入れていた缶ビールを取り出して飲み始めた。そして恍惚の表情を浮かべた。
「橘さんは花より団子でしたね」
「失礼な、私だって花を見ているよ。その上で桜はきれいじゃないという結論に達したのよ」
その割には飲食の方に一生懸命のようだ。そして僕に橘さんはたこ焼きの容器を差し出した。8個入りのたこ焼きは残り二つしかなかった。
「割り勘なのに僕のは少ない気がするけど」
「鵜飼くんは少食でしょ」
そういう本人はビールを飲み干し、ビニール袋に入った焼きそばを取り出した。そして周囲を伺うと誰も座っていないベンチを見つけて駆け出した。確かに本気に食べるには座っていた方がいいだろう。ただし、その場合、「橘さんと立ち話」というタイトルにそぐわないことになるが。
「そういえば橘さん、こういう話聞いたことあるかな?」
僕は急に思いついたように話す。橘さんはベンチに腰掛け、焼きそばを食べ始めた。当然、ビールも2本めに突入した。
「河川敷に桜並木が多い理由なんだけれど、江戸時代に堤防を造るとき、花見客が多く訪れて堤防を踏み固めてくれるように桜の木を植えたんだって」
橘さんはビールを飲みながら黙って聞いていた。すでに焼きそばは半分くらいなくなっている。
「それはつまり昔から私たちは政府に踊らされていたってことね」
橘さんは眉間にしわを寄せた。その頃は政府というより幕府なんだけどね。
「そう言いながら、橘さん、結構楽しんでいない?その辺の花見客と同じくらい飲んで食べていると思うけど」
僕がそういうと橘さんは食べかけの焼きそばを差し出した。残り三分の一くらいに減っている。そして自分は焼きトウモロコシを取り出して齧り付いた。
「別に楽しんでいる訳じゃないわよ。せめて食べなきゃやってられないじゃない」
そういうものなのか?ただのヤケ食いなのか?まあ、極論ばかりの橘さんの真意は付き合いの長い僕でも分からない。ただ一般人と同じと思われるのは心外だと思っている節はある。
「別に他の人と同じく楽しんでもいいんじゃ…」
その時、強めの風が吹いた。僕は一瞬、目を閉じた。そして再び目を空けたとき、僕は息を呑んだ。
「……」
強風で桜の花が舞い落ちる。桜吹雪とはよく言ったものだと感心した。そして橘さんを見た。彼女も心奪われたように目がうつろになっていた。
「私、散った桜の花びらで地面がピンク色に染まるのが好きだった」
意外にも突然の告白だ。ただ発言が過去形なのが素直じゃない橘さんらしい。
「でも、その気持ちは分かるよ。ただ満開の時だけでなく色々なシチュエーションで桜は楽しめるんだ。つぼみはこれから咲く満開の桜を期待させ、散る時も桜吹雪で楽しませ、散った後も花びらの絨毯として楽しませる」
「いや、そういうのとは違う」
橘さんは正面から否定した。
「私の言いたいのは散ってまで、人の気を引こうという執念というか、自己顕示欲というか、そういうものに圧倒されただけだから」
結局、橘さんは何も変わっていなかった。そういうどこか人と違う感性の持ち主が橘さんなんだと改めて僕は思い知らされた。ただそう言って桜を否定してきた橘さんの髪の毛には今の強風で舞ってきた桜の花びらがついたいた。
「それでも橘さんは桜に愛されているみたいだね」
僕は橘さんの頭部の花びらを指さす。橘さんはすぐに気づいて顔を歪めた。
「まあ、別に嫌いじゃないけどね」
何に対して嫌いじゃないのかは分からないが、それほど嫌がっている訳ではないのだ。そして、橘さんは桜の木を見上げて微笑んだ。
「別に飲む口実になるから花見は嫌いじゃないのよ」
そう言って、橘さんはくしゃみをした。
「花冷えだね。暗くなるとまだ寒い。橘さん、帰ろうか」
僕は寒そうに体を震わせた橘さんに言った。
「何を言っているの?まだ飲み始めたばかりじゃない?場所を移しましょう。近くの居酒屋に行って熱燗でも飲みたいわね。そして締めのラーメン」
僕は呆れた顔で橘さんを見た。結構、食べたと思うのだか、まだ橘さんは満足していないらしい。そういえば僕はほとんど食べていなかった。
「はいはい、分かりました。場所を移動しましょう。僕もお腹が空きました」
僕らはこうして満開の桜に別れを告げ、居酒屋へと向かったのだった。




