表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
19/35

【第17話】蓮弥編④英雄像の崩壊

挿絵(By みてみん)


日本軍の南京入城後、蓮弥(れんや)の隊が宿営したのは、市内中心部に近い、役所だった。

窓ガラスは割れ、書類は床に散乱し、土足で歩き回る日本兵たちによって泥まみれになった館内。

それでもこの場所は、蓮弥にとって以前の酒蔵より、格段に良い環境だった。


蓮弥の仕事は相変わらず炊事と雑用だった。

ある日のこと。

水を運ぶため、バケツを持って井戸ではなく、最寄りの河へ向かっている時だった。


道中、蓮弥は何か鼻歌でも歌いたくなった。


(何を歌おうかな? そうだ、"君が代"にしよう)


この場に相応しい英雄(にほんぐん)の国歌だ。


「きーみーがーあーよーおーはー♪」


歌いながら、上機嫌に大通りを歩く蓮弥。

そんな彼を中隊長が見つけると、引き止めた。


「おい蓮弥、何を口ずさんでいる?」

「あっ! 中隊長殿! "君が代"を歌ってます。英雄(にほんへい)たちを元気にする国歌です」


「お前、分かって歌っているのか? それは天皇陛下に捧げる歌だぞ?」

「え? そうなんですか? 君が代の"君"って、"天皇陛下"の事だったんですね?」


「何を今更、君が代の"君"は《陛下》を指し、"代"は《陛下の治世》を意味する厳粛な歌だ」


蓮弥は目を丸くしている。


(やはり幼い子どもだな。過酷な環境で、記憶障害や精神錯乱の症状を起こしているのだろう……)

(だが、場違いな"君が代"も、蓮弥なりの不器用で純粋な熱意には違いない……)


中隊長は身を屈めて、蓮弥と目線の高さを合わせる。


「蓮弥、お前は小さな身体で我々に献身的に尽くしてくれた。その異質な存在感……いや、その働きぶりは、他の隊でも話題になっているぞ」

「本当ですか? 英雄(にほんへい)たちのお役に立てて、嬉しいです!」


「お前には、特例として《階級》が与えられる。名誉あることだ。引き続き精進しろよ」

「はいっ! ありがとうございます!」


「ところで……どこへ行く?」

「はいっ! 河へ水を汲みに行ってきます!」


「河? 長江か――ちょっと待て!」

「はい?」


中隊長は周囲を警戒するように見回し、蓮弥に低く、しかし厳しく命じる。


「よく聞け。今後、水汲みは大通りにある井戸でやれ。長江沿いには近づくな」

「え、何でですか?」


「まだ離れた場所には、残敵が潜んでいる。その掃討作戦中で危ないからだ」

「……はい」


「お前の行動範囲は宿営地の役所周辺と、城内の大通りだけだ。裏路地や郊外の方へは、"絶対"に行くな。いいか、わかったな?」

「わかりました!」


中隊長はそう言い捨てて、すぐに他の兵士の群れに紛れていった。

蓮弥は、中隊長の顔に浮かんでいた憐憫(れんびん)とした、それでいて何かを隠そうとするような硬い表情が気になった。


が――

蓮弥は中隊長の命令通り、宿営地一帯と大通りから離れずに過ごすのだった。





中隊長に厳命されてから数日後。

蓮弥は井戸が枯れたという報告を受け、炊事兵が目を離した隙に、バケツを片手に役所の裏門から忍び出た。


(ボクが水を運んでこないと!)


蓮弥は人気のない裏路地に入り、瓦礫や汚泥を避けながら慎重に進んだ。

中隊長の長江へは"行くな"という言葉を思い出す。

英雄たちが、《残敵》を掃討している最中だから危険だと言っていた。


(でも、辺りは静かだ。とても戦闘が行われているとは思えない。大丈夫、大丈夫!)


静まり返った裏路地。

五分ほど進んだところで、それは突然、蓮弥を襲った。


(なんだ? この臭い……)


熱帯雨林のようなねっとりとした、それでいて鉄の錆びたような空気。

そして強烈な吐瀉物と腐敗の臭い。

蓮弥は思わず手で口と鼻を覆う。

臭いはまるで、服の繊維をすり抜けて、肌にまとわりつくようだった。


路地の先で、何かが転がっていた。

臭いの原因だろうか。


(あれは……なに?)


蓮弥は目を凝らす。

それは、まるで捨てられた大きな(わら)人形のようだった。

何体も、何十体も。いやもしかしたらそれ以上……。


藁人形は、ところどころ黒い染みで汚れていた。


(あの黒い染みは……血じゃないか?)

(これは……藁人形じゃない! 死体だ!)


「うわぁぁああ!!」


おぞましい光景に、蓮弥は持っていたバケツを捨てて、逃げるように走り出した。

無我夢中で走り続け――


彼が行き着いた先は、土壁の小さな家屋が並ぶ、行き止まりの広場だった。

蓮弥は視界に入ってきたものを見て、息を飲む。


広場の中央には、黒い塊がいくつも重なり合っていた。

それは、塔のように高くなった、"死体の山"だった。


「あ、ああ……」


男だけじゃない、女も、子どもも、積み重なっている。

蓮弥は目を離すことが出来ない。

土埃と血と、得体の知れない液体の混ざりあった泥の中で。

老若男女の死体が積み重なり、まるで一つに融合するかのように。


「あ、あ、ああ……」


どの顔も、まるで苦悶の瞬間のまま、時が止まったように、歪んでいる。

この世のものとは……思えない……。


胃が激しく収縮した。

蓮弥はその場で膝をつき、込み上げてきた胃液を地面にぶちまけた。


令和で見たアニメやゲーム、映画の残酷描写。

それが、たとえどれだけリアルに作られていたとしても――

今、目の前の、生々しい光景の方が、はるかに本物で、圧倒的に(むご)い。


蓮弥は吐きながら、頭の中で叫んでいた。

言葉にならない"言葉"を、絶叫していた。

吐き出された胃液の酸味と、目の前の現実の冷たさが、少年の精神を容赦なく蝕む。



次の瞬間、横の廃屋の陰から、日本語の怒鳴り声が聞こえてきた。


「てめぇ! 民間人じゃねえな? 便衣兵(べんいへい)だろ!?」


廃屋の陰から現れたのは、蓮弥の隊の日本兵だった。

顔は泥と汗で汚れ、目が血走っている。

その日本兵は、一人の中国人の男を首根っこで掴み、地面に引きずり出していた。

男はしわくちゃの服を着ていて、何も持っておらず、武装もしていない。

怯えきった表情で、何かを必死で叫んでいる。

言葉は分からなくても、命乞いだと蓮弥には分かった。


(だ、だめだ!)


そう、叫びたかった。

でもまるで喉が張り付いたように、声が出ない。

日本兵は、恐怖で腰が抜けた男の腕を掴み、怒号する。


「紛らわしい奴は、生かしておけねぇな!」


罵倒しながら、手に持った銃を、男の頭に向けて――


『ダァン!!』


まるで熟れた果物が潰れるような、嫌な音だった。

土壁に血飛沫が飛び、男は呻き声を上げることすらできず、その場に崩れ落ちた。

日本兵はさらに数回、罵声を浴びせた後、動かなくなったそれを踏みつける。


その背中姿――

蓮弥が日夜、水や食事を運び、《英雄》と信じて献身的に尽くしてきた、あの背中だった。



今度は反対の方から女性の悲鳴が聞こえてきた。

蓮弥が目を向けると、廃屋同然の納屋で、複数の日本兵が、地に伏した女の人たちに向かって暴力を振るっている。


「おとなしくしてりゃあ、すぐ済むんだ! 抵抗すんな!」


一人の日本兵が、壁に寄りかかっていた古い農具を、女の人たちの方へ足で蹴り倒し、笑った。

その笑いは、蓮弥の知っている、日本兵の笑顔ではなかった。

自分の作った飯盒を、美味しいと言ってくれた優しい《英雄》の笑いとは、似ても似つかない。

醜悪な笑いだった。


日本兵たちは、抵抗する女の人たちの服を、お構い無しに乱暴に引き裂き始めた。


女の人たちの恐怖に満ちた悲鳴が――

助けを求める悲鳴が――


遠い遠い、地獄の反響のように、蓮弥の耳に届く。



(あ、あああ、あああああああ!!)



蓮弥の中で、大切な何かが、音を立てて砕け散った。


勝利の歓声。

厳しくも、優しかった日本兵。

英雄の輝き。


すべてが――

目の前の血と暴力によって、消し飛ばされた。


視界が霞む。意識が遠のく。


それは精神のシャットダウンだった。


蓮弥の心が防衛反応をとった。


身体の感覚が、なくなっていく。


腐敗臭も…

血の臭いも…

銃声も…

何かが潰れる鈍い音も…

女性の悲鳴も…

ねっとりとした笑い声も…


まるで水の底から聞こえるように、静かになっていく。


蓮弥の小さな身体が、冷たい泥の中に倒れ込んだ。


少年の意識は、現実のあまりの重さに耐えかねて、暗闇の底へと、静かに、静かに沈んでいった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ