【第17話】蓮弥編④英雄像の崩壊
日本軍の南京入城後、蓮弥の隊が宿営したのは、市内中心部に近い、役所だった。
窓ガラスは割れ、書類は床に散乱し、土足で歩き回る日本兵たちによって泥まみれになった館内。
それでもこの場所は、蓮弥にとって以前の酒蔵より、格段に良い環境だった。
蓮弥の仕事は相変わらず炊事と雑用だった。
ある日のこと。
水を運ぶため、バケツを持って井戸ではなく、最寄りの河へ向かっている時だった。
道中、蓮弥は何か鼻歌でも歌いたくなった。
(何を歌おうかな? そうだ、"君が代"にしよう)
この場に相応しい英雄の国歌だ。
「きーみーがーあーよーおーはー♪」
歌いながら、上機嫌に大通りを歩く蓮弥。
そんな彼を中隊長が見つけると、引き止めた。
「おい蓮弥、何を口ずさんでいる?」
「あっ! 中隊長殿! "君が代"を歌ってます。英雄たちを元気にする国歌です」
「お前、分かって歌っているのか? それは天皇陛下に捧げる歌だぞ?」
「え? そうなんですか? 君が代の"君"って、"天皇陛下"の事だったんですね?」
「何を今更、君が代の"君"は《陛下》を指し、"代"は《陛下の治世》を意味する厳粛な歌だ」
蓮弥は目を丸くしている。
(やはり幼い子どもだな。過酷な環境で、記憶障害や精神錯乱の症状を起こしているのだろう……)
(だが、場違いな"君が代"も、蓮弥なりの不器用で純粋な熱意には違いない……)
中隊長は身を屈めて、蓮弥と目線の高さを合わせる。
「蓮弥、お前は小さな身体で我々に献身的に尽くしてくれた。その異質な存在感……いや、その働きぶりは、他の隊でも話題になっているぞ」
「本当ですか? 英雄たちのお役に立てて、嬉しいです!」
「お前には、特例として《階級》が与えられる。名誉あることだ。引き続き精進しろよ」
「はいっ! ありがとうございます!」
「ところで……どこへ行く?」
「はいっ! 河へ水を汲みに行ってきます!」
「河? 長江か――ちょっと待て!」
「はい?」
中隊長は周囲を警戒するように見回し、蓮弥に低く、しかし厳しく命じる。
「よく聞け。今後、水汲みは大通りにある井戸でやれ。長江沿いには近づくな」
「え、何でですか?」
「まだ離れた場所には、残敵が潜んでいる。その掃討作戦中で危ないからだ」
「……はい」
「お前の行動範囲は宿営地の役所周辺と、城内の大通りだけだ。裏路地や郊外の方へは、"絶対"に行くな。いいか、わかったな?」
「わかりました!」
中隊長はそう言い捨てて、すぐに他の兵士の群れに紛れていった。
蓮弥は、中隊長の顔に浮かんでいた憐憫とした、それでいて何かを隠そうとするような硬い表情が気になった。
が――
蓮弥は中隊長の命令通り、宿営地一帯と大通りから離れずに過ごすのだった。
中隊長に厳命されてから数日後。
蓮弥は井戸が枯れたという報告を受け、炊事兵が目を離した隙に、バケツを片手に役所の裏門から忍び出た。
(ボクが水を運んでこないと!)
蓮弥は人気のない裏路地に入り、瓦礫や汚泥を避けながら慎重に進んだ。
中隊長の長江へは"行くな"という言葉を思い出す。
英雄たちが、《残敵》を掃討している最中だから危険だと言っていた。
(でも、辺りは静かだ。とても戦闘が行われているとは思えない。大丈夫、大丈夫!)
静まり返った裏路地。
五分ほど進んだところで、それは突然、蓮弥を襲った。
(なんだ? この臭い……)
熱帯雨林のようなねっとりとした、それでいて鉄の錆びたような空気。
そして強烈な吐瀉物と腐敗の臭い。
蓮弥は思わず手で口と鼻を覆う。
臭いはまるで、服の繊維をすり抜けて、肌にまとわりつくようだった。
路地の先で、何かが転がっていた。
臭いの原因だろうか。
(あれは……なに?)
蓮弥は目を凝らす。
それは、まるで捨てられた大きな藁人形のようだった。
何体も、何十体も。いやもしかしたらそれ以上……。
藁人形は、ところどころ黒い染みで汚れていた。
(あの黒い染みは……血じゃないか?)
(これは……藁人形じゃない! 死体だ!)
「うわぁぁああ!!」
おぞましい光景に、蓮弥は持っていたバケツを捨てて、逃げるように走り出した。
無我夢中で走り続け――
彼が行き着いた先は、土壁の小さな家屋が並ぶ、行き止まりの広場だった。
蓮弥は視界に入ってきたものを見て、息を飲む。
広場の中央には、黒い塊がいくつも重なり合っていた。
それは、塔のように高くなった、"死体の山"だった。
「あ、ああ……」
男だけじゃない、女も、子どもも、積み重なっている。
蓮弥は目を離すことが出来ない。
土埃と血と、得体の知れない液体の混ざりあった泥の中で。
老若男女の死体が積み重なり、まるで一つに融合するかのように。
「あ、あ、ああ……」
どの顔も、まるで苦悶の瞬間のまま、時が止まったように、歪んでいる。
この世のものとは……思えない……。
胃が激しく収縮した。
蓮弥はその場で膝をつき、込み上げてきた胃液を地面にぶちまけた。
令和で見たアニメやゲーム、映画の残酷描写。
それが、たとえどれだけリアルに作られていたとしても――
今、目の前の、生々しい光景の方が、はるかに本物で、圧倒的に惨い。
蓮弥は吐きながら、頭の中で叫んでいた。
言葉にならない"言葉"を、絶叫していた。
吐き出された胃液の酸味と、目の前の現実の冷たさが、少年の精神を容赦なく蝕む。
次の瞬間、横の廃屋の陰から、日本語の怒鳴り声が聞こえてきた。
「てめぇ! 民間人じゃねえな? 便衣兵だろ!?」
廃屋の陰から現れたのは、蓮弥の隊の日本兵だった。
顔は泥と汗で汚れ、目が血走っている。
その日本兵は、一人の中国人の男を首根っこで掴み、地面に引きずり出していた。
男はしわくちゃの服を着ていて、何も持っておらず、武装もしていない。
怯えきった表情で、何かを必死で叫んでいる。
言葉は分からなくても、命乞いだと蓮弥には分かった。
(だ、だめだ!)
そう、叫びたかった。
でもまるで喉が張り付いたように、声が出ない。
日本兵は、恐怖で腰が抜けた男の腕を掴み、怒号する。
「紛らわしい奴は、生かしておけねぇな!」
罵倒しながら、手に持った銃を、男の頭に向けて――
『ダァン!!』
まるで熟れた果物が潰れるような、嫌な音だった。
土壁に血飛沫が飛び、男は呻き声を上げることすらできず、その場に崩れ落ちた。
日本兵はさらに数回、罵声を浴びせた後、動かなくなったそれを踏みつける。
その背中姿――
蓮弥が日夜、水や食事を運び、《英雄》と信じて献身的に尽くしてきた、あの背中だった。
今度は反対の方から女性の悲鳴が聞こえてきた。
蓮弥が目を向けると、廃屋同然の納屋で、複数の日本兵が、地に伏した女の人たちに向かって暴力を振るっている。
「おとなしくしてりゃあ、すぐ済むんだ! 抵抗すんな!」
一人の日本兵が、壁に寄りかかっていた古い農具を、女の人たちの方へ足で蹴り倒し、笑った。
その笑いは、蓮弥の知っている、日本兵の笑顔ではなかった。
自分の作った飯盒を、美味しいと言ってくれた優しい《英雄》の笑いとは、似ても似つかない。
醜悪な笑いだった。
日本兵たちは、抵抗する女の人たちの服を、お構い無しに乱暴に引き裂き始めた。
女の人たちの恐怖に満ちた悲鳴が――
助けを求める悲鳴が――
遠い遠い、地獄の反響のように、蓮弥の耳に届く。
(あ、あああ、あああああああ!!)
蓮弥の中で、大切な何かが、音を立てて砕け散った。
勝利の歓声。
厳しくも、優しかった日本兵。
英雄の輝き。
すべてが――
目の前の血と暴力によって、消し飛ばされた。
視界が霞む。意識が遠のく。
それは精神のシャットダウンだった。
蓮弥の心が防衛反応をとった。
身体の感覚が、なくなっていく。
腐敗臭も…
血の臭いも…
銃声も…
何かが潰れる鈍い音も…
女性の悲鳴も…
ねっとりとした笑い声も…
まるで水の底から聞こえるように、静かになっていく。
蓮弥の小さな身体が、冷たい泥の中に倒れ込んだ。
少年の意識は、現実のあまりの重さに耐えかねて、暗闇の底へと、静かに、静かに沈んでいった。




