【第16話】蓮弥編③進撃の大日本帝国
上海陥落から数日が過ぎ、歓喜の余韻も冷めない内に、日本軍は西へと進んでいた。
進軍する日本兵の中に、異質な存在ともいえる、幼い子どもがひとり――
「日本軍の次の目的地はどこなんですか?」
はつらつとした表情の蓮弥は、仲良くなった日本兵のひとり、六角に尋ねる。
その顔に、弱音を吐いて泣いてばかりいた頃の面影はない。
蓮弥は短期間で、幼くてもそれ相応の逞しい顔つきになっていた。
「行き先は……南京だ」
六角は低い声で、短く答えた。
「南京?」
蓮弥の脳裏には、社会科の授業で習った《アジア太平洋戦争》という大きな塊しかない。
日中戦争の詳細、舞台となる地名については、理解が及んでいなかった。
だが、その南京という場所が、日本が誇り高き勝利を収める、次の戦場なのだと思った。
「そこは、すごく重要な場所なんですか!?」
蓮弥は目を輝かせる。
「ああ、敵国の首都だからな……」
「しゅ、首都!?」
蓮弥は驚いた。
(首都……日本でいえば、大阪でも名古屋でもない。東京だ!)
南京という中国の首都を日本軍が陥落させれば、日本の完全勝利ではないか?
蓮弥の"日本はいずれ負ける"という未来の知識が、打ち消されていく。
(学校で先生が言ってた日本の敗戦って、本当なのか?)
(もしかして……ボクがタイムスリップしたことで、歴史が変わったとか!?)
(つまりは雑用係として頑張って日本軍を支えている……ボクのおかげ!?)
子どもらしい、都合のいい解釈。
蓮弥は内心で、自分の存在が歴史を好転させたと、万能感を抱く。
この英雄たちを信じて、彼らの勝利のために尽くせば、日本は負けない。
「六角さん! ボク、頑張ります!日本の勝利のために!」
「……蓮弥、お前は引きかえせ」
「え?」
気力をみなぎらせる蓮弥とは打って変わって、六角は浮かない顔をしたまま続ける。
「俺が何か理由をつけて上官に掛け合ってやる。内地送還の機会は次の戦いが始まる前の、今しかない」
「なんでそんなことを言うんですか? 周りの日本兵も、ボクのこと段々と認めてきてるんですよ?」
「……そういう、問題じゃない。
お前はまだ戦争のことを何も知らない。致命的なものも、まだ見ていない。今なら、間に合う」
しかし六角の要求を蓮弥は、拒否した。
英雄たちを見捨てられない。
日本の勝利に貢献したい。
そして自分もまた、誇り高くなりたい。
至高の勝利を身近で味わいたい。
――それが蓮弥の言い分だった。
彼の小さな背中には、もう現代の軟弱さは見えなかった。
※※※※※※※※※※
南京攻略戦が始まった。
蓮弥が配置されたのは、南京城外の村で接収された小さな酒蔵だった。
分厚い土壁に守られて、城から響く砲声は幾分くぐもって聞こえる。
ここが、彼が崇拝する中隊の補給拠点、いわば《命綱》だった。
中隊長や下士官、兵のほとんどは、城内の戦闘に参加するため既に出払っている。
酒蔵に残っているのは、炊事・整備・伝令の任務を負った"裏方"と呼ばれる少数の兵。
蓮弥の役目は、その裏方の補助だ。
「蓮弥! 炊事の準備に取りかかれ、飯が不味かったら兵の士気が下がるからな!」
「はい!」
「蓮弥! この土嚢を運び終えたら、新たな砂や石を集めてこい!空き缶も使えるぞ!」
「はい!」
「蓮弥! ここにある小銃全て、薬莢の残骸を棒と油で拭き上げろ!」
「はい!」
といっても、蓮弥の仕事の大半は、"汚い・臭い・重い"、といった三重苦の雑用だった。
しかし、過酷ながらも地味な作業を通じて、英雄たちに奉仕する《やりがい》を蓮弥は見出していた。
「ふっ、ボクって、隊を裏側から支える勝利の"マスコットキャラクター"って感じですかね?」
「何いってんだお前、またわけの分からない事を……」
重労働に明け暮れる日々で、毎日身体は極限まで疲弊する。
遠くの砲声や機関銃の音、酒蔵を出入りする兵士の足音、夜間勤務の兵士の声。
寝ている間はそれらが、《背景のノイズ》として蓮弥の脳に認識されていく。
蓮弥の身体は、命を繋ぎ止める為、深い睡眠を取れるようになっていた。
砲声は、数日間、遠くで鳴り響いていた。
その音は、まるで地底人が暴れているかのように、蓮弥が寝泊まりする酒蔵の土壁を震わせた。
蓮弥の仕事は尽きない。
今日も汲み上げた水で、日本兵の軍用具を洗い、煤で汚れた飯盒を磨く。
彼の世界は、酒蔵の薄暗い土間と、その周りを囲む泥と臭気だけだった。
「おい、蓮弥! 水が足りん!手入れ用の水じゃなく、飲料水だ! 急げ!」
「はいっ!」
(英雄たちが戦ってるんだ。ボクが水を持ってこないと、喉が渇いて勝てない!)
蓮弥は重いバケツを担ぎ、井戸へ向かう。
彼の身体は、この重労働の日々で、現代の小学6年生のそれを超えたタフさを身につけていた。
筋肉は張って痛むが、自分の身体が一回り大きくなった気がした。
(この逞しくなった身体、大和たちに見せてやりたいな……)
その日の午後、いつもと違う空気が酒蔵を満たす。
まず、砲声が止まった。
数日間鳴り続けた轟音が、まるでスイッチを切られたかのように、完全に消えたのだ。
突然の静寂は、逆に耳鳴りのように日本兵たちの鼓膜を叩く。
酒蔵にいた十数人の裏方兵士たちは、誰もが顔を見合わせ、その意味を計りかねていた。
「どうしたんだろう?」
「まさか、弾切れか?」
不安を口にする日本兵たち。
次の瞬間、酒蔵の戸が乱暴に開けられ、一人の伝令兵が泥まみれの軍靴で飛び込んできた。
伝令兵はヘルメットを脱ぎ、激しく息を切らしていた。
「入電! 入電ーッ!」
伝令兵は、その煤けた顔に、信じられないほどの歓喜を浮かべていた。
「南京城、陥落! 支那軍は総崩れ! 城内は帝国軍が完全に制圧!」
一瞬の沈黙の後、酒蔵にいた日本兵たちの感情が爆発した。
「うおおおおおっ!!」
「勝った! 首都を獲ったぞ!」
「大日本帝国 万歳ーっ! 天皇陛下 万歳ーっ!」
その場にいた全ての者が総立ちし、炊事兵は持っていた飯盒を投げ捨てる。
彼らは抱き合って、高らかに喜びを叫び、"生き残った事"と"勝利"を謳歌した。
(すごいや……日本軍って、本当に強いんだな……)
蓮弥の心も、歓喜で満たされていく。
それは圧倒的な至福だった。
未来の知識が――
敗戦の史実が――
完全に消し飛んだ。
少年の目は、泥と汗と涙でぐちゃぐちゃになった《本物の英雄たち》の姿を捉えていた。
(あはは! 日本軍の戦勝! ボクも、この大勝利の一部なんだ!)
「おい蓮弥! 何突っ立ってる? お前も万歳しろ!」
日本兵のひとりが、蓮弥の肩を掴む。
その手は、その顔は、喜びで震えている。
蓮弥は泥まみれの手を天に突き上げた。
そして生まれて初めて、心の底からの叫びを上げた。
「大日本帝国ばんざーいっ! 天皇陛下ばんざーいっ!」
**********
南京陥落の報が入ってから後日――
蓮弥は、まるで生まれ変わったような気持ちで目を覚ました。
身体中の疲労は限界を超えていたが、心はかつてないほどの高揚感に満ちている。
「蓮弥、お前も来い! 今から入城式だ!」
朝早く、下士官が、珍しく優しい声で蓮弥を呼んだ。
南京城外の野営地に残っていた兵士たちは、皆、祝宴で疲弊しきっていたが、その顔には深い満足と誇りが浮かんでいる。
彼らは、泥まみれだった軍服をはたき、少しでも綺麗に見せようと努めていた。
蓮弥は背筋を伸ばし、隊列の後ろに加わる。
南京城へと続く道を、日本軍が大行進していく。
道はまだ泥濘が多く、時折、爆撃でえぐられた大きな穴が開いていた。
道の両側にも、崩れた家屋の残骸や、ひっくり返った馬車が散乱しており、まるで終末を連想させる。
しかし、誰もがそれらを《勝利の証》として見ていた。
蓮弥は、前を行く日本兵たちの背中を誇らしげに見つめた。
(まるで、この市街地の"救世主"たちみたいだ!)
やがて、隊列は南京城壁の一部が大きく崩れた場所に差し掛かる。
そこは、日本軍が最初に突破口を開いた場所だという。
日本兵たちは、その場所で立ち止まり、後続の部隊が次々と城内へ入っていく様子を見守るよう指示された。
蓮弥は、背伸びをして、周囲の兵士たちの肩越しに城壁の方を覗く。
すると、近くに高く積み上がった瓦礫の山があることに気づいた。
そこは崩れた煉瓦や木材、そしてねじ曲がった鉄骨が複雑に絡み合い、まるで小高い丘のようになっていた。
「よしっ、あそこだ!」
蓮弥は、その山の上からなら、もっとよく見えると思い、日本兵たちの隙間を縫って瓦礫の山へと駆け寄る。
巧みに手足を使い、あっという間にその頂上に登り詰めた。
頂上から見下ろす南京城内は、まだ白煙が立ち上っていたが、整然と行進する日本兵の隊列で埋め尽くされようとしていた。
日の丸の旗が、風にはためき、日本兵たちの持つ銃剣が朝日を反射してキラキラと輝いている。
彼らの行進は力強く、この街の新たな支配者であることを誇示していた。
「……すげぇ……」
蓮弥の口から、感嘆の声が漏れる。
圧倒的な光景。
まるで夢でもみているかのような凱旋。
胸いっぱいに広がる充足感に酔いしれる。
日本兵たちは鉄兜をかぶり、誰もが疲れているはずなのに、背中はしゃんと伸び、目には光があった。
威風堂々としたその姿が、蓮弥には眩しくてたまらなかった。
この光景は、歴史の教科書で見たどのイラストよりも、テレビやYouTubeで見たどの記録映像よりも、
ずっと雄大で、何よりも正しく、そして、完璧なものに見えた。
蓮弥は瓦礫の山のてっぺんで、盛大に笑った。
「ふっ、ふふっ、あーっはははは!!
「やっぱり日本軍は、すごい強い! ボクたちは間違ってなかったんだっ!」
この胸の高鳴りは、抑えきれない。
――日本は、進めば勝つ。
それはもはや"現実"ではなく、"運命"のように思えた。
誰もが英雄のように見えるこの世界で、蓮弥自身も巻き込まれながら、力強く生きていく。
蓮弥はいつまでも満面の笑みを崩さなかった。
日本軍の勝利を、兵士たちと心から分かち合う、純粋な子供の笑顔。
そして、新しい日本の未来が始まると信じて、期待に心を躍らせる笑顔。
しかし――
蓮弥は気づかない。
彼が立っているその瓦礫の山の遥か下に、
激しい戦闘で命を落とした、大勢の中国兵や、巻き込まれた市民の遺体が、埋もれていることを。
南京の裏路地や郊外では、いまだ片付けられぬまま放置された、夥しい数の遺体が横たわっていることを。
少年の無邪気な笑顔と、南京の凄惨な状況は、あまりにも対照的だった。




