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贈り物と小さな幸福

 塔での暮らしに、アリシアは少しずつ慣れ始めていた。

 レオンは相変わらず口数が少なく、表情もほとんど変えない。けれど、必要なことは言葉少なに伝えてくれるし、彼女が困る前に生活の手配を整えてくれる。


 それは、侯爵家では夢にも見られなかった心遣いだった。

 ――ただ与えられるのではない。拒絶も嘲笑もない。

 それが、どれほど胸を温めるものか。アリシアは日に日に実感していた。


 そんなある日のこと。

 食後の時間、レオンが無言で一冊の分厚い本を机の上に置いた。革装丁で、金色の文様が刻まれている。


「……これは?」

「魔導書だ。初歩の理論と練習法が載っている」

「わ、私に……?」

「ああ」


 アリシアは思わず息をのんだ。

 侯爵家にいた頃、本を読みたいと願っても「無駄だ」と突き放され、書庫に入ることすら許されなかった。そんな自分に、わざわざ魔導書を与えてくれるなんて。

 震える指先で表紙をなぞり、恐る恐る開いた。中には見慣れぬ魔法陣の図と、基礎理論が丁寧に記されている。


「……っ、嬉しい……」

 気づけば涙が滲んでいた。

 慌てて袖で拭うが、止まらない。

「ごめんなさい……こんなことで泣くなんて……」


 レオンは無表情のまま首を横に振った。

「泣く理由があるなら泣け。……それと、もう一つある」


 彼が差し出したのは、手のひらほどの銀細工のペンダントだった。中央には小さな蒼い宝石が嵌め込まれていた。


「これは……?」

「簡易魔力安定具。魔力が暴走しかけても抑えてくれる。訓練には必要だ」

 淡々と説明する声。けれど、アリシアにはそれが「お前を守るために用意した」と聞こえた。


 胸がぎゅっと熱くなる。

「本当に……ありがとうございます。大切にします」

 彼女はぎこちなく微笑んだ。


 その瞬間、レオンの瞳がかすかに揺れた。

 冷たい黄金の瞳に映る笑顔は、どこかまぶしく、見慣れない光を帯びていた。

 彼は視線をそらし、短く言った。

「明日、市場へ行く」


「えっ……市場に……ですか?」

「ああ。生活用品が必要だろう」


 アリシアの胸はときめいた。

 侯爵家の娘として、彼女は表向きには何度も街へ出たことがある。だが実際は護衛に囲まれ、好きな店に立ち寄ることも、物を選ぶことも許されなかった。ただ飾り物のように連れ出されるだけだった。


 ――けれど、明日は違うのだ。レオンと一緒に歩く。好きに選んでいい。

 その想像だけで、胸が温かく弾んだ。


◇ ◇ ◇


 翌日。

 王都から少し離れた塔のふもとに広がる小さな町は、朝から活気に満ちていた。


 色とりどりの布がかけられた屋台、焼き立てのパンの香ばしいにおい、果実を並べる店主の声。

 アリシアは目を輝かせ、辺りを見回した。


「すごい……こんなに賑やかなんですね」

「珍しいのか?」

「はい……今までは、ゆっくり見て歩くなんてできませんでしたから」


 アリシアが足を止めるたび、レオンは歩みを合わせた。

 屋台の前で赤いリンゴを見つめれば、黙って店主に金貨を差し出す。香ばしいパイの香りに顔を向ければ、気づいたときには手に包み紙が渡されていた。


 「好きに選べ」とは言ったものの、彼女が言葉にせずとも望むものを察して与えるその姿に、アリシアの胸はじんわりと熱くなった。


「レオン様、これは……甘いですね!」

 かじったパイの中から、果実の蜜が溢れた。頬が自然にほころぶ。

 その笑顔を、レオンは横目でじっと見ていた。

 無意識のことだった。けれど、心の奥が微かに震えた。


 ――笑っている。

 侯爵家にいた頃の凍りついた表情ではない。恐れも諦めもなく、ただ純粋に喜びを浮かべる顔。

 それがこんなにも美しいものだと、彼自身も初めて知った。


 「レオン様?」

 不思議そうに首をかしげるアリシアに、彼は咄嗟に目をそらし、ぶっきらぼうに答えた。


「……食べ歩きは行儀が悪い。歩きながら全部たべるな」

「あ、す、すみません!」


 慌てて口を押さえるアリシアの仕草に、レオンはわずかに唇の端を緩めかけた。だが、すぐに表情を戻す。


 市場を歩くうちに、アリシアは小さな布切れや飾り紐を選び、楽しそうに袋へ入れていった。生活に必要というより、ただ心惹かれたものばかり。それでもレオンは何も言わず、会計を済ませてやる。


 ――彼女が笑うのなら、それでいい。

 心のどこかで、そう思っていた。


◇ ◇ ◇


 夕暮れ時、塔に戻る頃。

 袋を抱えたアリシアは、名残惜しそうに市場を振り返った。

「今日は、本当に楽しかったです……」

「そうか」

「はい。夢みたいで……普通の人のように過ごせて。私にとっては初めての幸せでした」


 その言葉に、レオンの心臓が一瞬強く打った。

 普通の人にとって当たり前の幸福を、彼女は「初めて」と言う。

 どれほど孤独に生きてきたのか。

 その過去を思えば思うほど、胸の奥に静かな怒りと、守りたいという衝動が混ざり合った。


 塔の扉を開ける直前、アリシアがふと笑った。

 夕陽に照らされたアリシアの青い瞳が、キラキラと澄んだ水面の様に光り輝く。

「レオン様と一緒にいられて……私は幸せです」


 レオンは返す言葉を失った。

 胸に広がる熱を抑えきれず、ただ短くうなずく。


 無表情を崩さぬまま。しかし心の奥では――


 冷徹と呼ばれた男の心に、小さな芽が確かに息吹き始めていた。

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