魔法の才能の兆し
塔での暮らしが始まって数日が経った。
アリシアはまだ夢を見ているような気持ちでいた。
冷たい石造りの塔は広く、ところどころに書物や魔導具が積まれている。けれど、それは侯爵家で与えられていた冷たい部屋とはまるで違う。誰からも罵声を浴びることなく、食事も衣服も不自由なく与えられる。
侍女たちの皮肉や妹の嘲笑もない。静かすぎて戸惑うこともあるが、心を蝕む声がないというだけで、どれほど安らげるものか、アリシアは今ようやく知ったのだ。
レオンといえば、相変わらず感情を滅多に見せない。
食事をとるときも、書物に向かっているときも、その黄金の瞳は冷徹で、氷の奥を覗き込むように静かだった。けれど不思議なことに、その無表情の裏にある沈黙は、侯爵家での無関心とは違った。
彼の沈黙は、決してアリシアを拒絶するものではない。必要なものは言葉を交わさずともきちんと整えられ、彼の視線が一瞬でもこちらに向けられるだけで、不思議な安心感が胸に広がる。
そんなある朝、レオンは短く言った。
「魔法を試す」
「……わ、私が……ですか?」
「そうだ」
アリシアは目を瞬かせた。魔法といえば、貴族の中でも資質を持つ者だけが扱える力。幼い頃から一度も魔法が使えたことのない自分には、縁遠いものだと信じていた。
家族も「無能」と切り捨て、誰一人訓練さえ与えてくれなかった。
だが、レオンの言葉は揺るぎない。まるで「お前には必ずできる」と言わんばかり。
塔の中庭に出ると、朝の光が冷たい空気を照らしていた。
レオンは片手を掲げ、小さな青い炎を呼び出す。その炎は空気を焦がすこともなく、ただ清らかな輝きだけを放っていた。
「炎を想像してみろ。形ではなく、本質を」
「本質……」
「燃えるもの、熱、光。お前が思い描いたものを、力として掴め」
アリシアはぎこちなく目を閉じる。心臓がドクドクと音を立て、恐れが喉を塞ぎそうになった。けれど彼の低い声が続く。
「失敗してもいい。だが、試せ」
――失敗してもいい。
その言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなった。侯爵家では一度の失敗も許されなかった。花瓶を割れば罵声が飛び、勉強で間違えれば嘲笑が待っていた。
けれど今は、初めて「許されている」。それだけで、恐怖よりも挑む勇気が勝った。
アリシアは両手を胸の前に差し出し、必死に炎を思い浮かべた。
赤く燃える炎。暖炉の薪が弾ける音。手をかざしたときの温かさ――。
すると、掌の先にふわりと光が集まり、小さな揺らめきが生まれた。
「あ……!」
それは確かに炎だった。けれど赤でも青でもない。
淡い金色の光を帯びた、小さな火の粉。風に散らず、どこか神秘的に揺らめいている。
アリシアが驚いて見上げると、レオンの瞳がわずかに見開かれていた。
その変化があまりに珍しく、胸が跳ねる。
「……稀少属性、か」
「き、きしょうぞくせい……?」
「普通の火ではない。古代の系譜に連なる特異な力だ。少なくとも、王都の誰もが見たことのない炎だろう」
アリシアは呆然と掌を見つめた。
自分が「無能」と言われ続けたことは間違いだったのか。
ずっと信じてきた「何もできない娘」という烙印が、音を立てて崩れていく。
「わ、私でも……魔法を使えるんですね」
「当たり前だ。お前は無能なんかじゃない」
レオンの声音はいつもと変わらぬ冷たさだったが、その言葉は胸に真っ直ぐ突き刺さった。
◇ ◇ ◇
その夜。
レオンは塔の上階、書斎の窓辺に立っていた。
外には満ち欠けの月が浮かび、森を銀色に染めている。机の上には魔法書が開かれていたが、目はそこに落ちず、彼の思考は別の一点に向いていた。
――なぜ、彼女を助けたのか。
あの夜会で、婚約破棄の場に立ち会ったとき。
侯爵家の令嬢が王太子に切り捨てられる光景など、珍しくもない。上位貴族の間では、政略のための婚約破棄は日常茶飯事だ。
だが、アリシアの顔を見た瞬間、胸の奥にわずかな痛みが走った。
氷のように凍りついた瞳。誰からも愛されぬことを受け入れ、声を上げることさえ諦めた少女の表情。
――それが、かつての自分と重なった。
幼い頃、己の才能ゆえに周囲から距離を置かれた。
友も家族も、次第に離れていった。笑うことをやめ、ただ力だけを研ぎ澄ますことでしか、自分の存在を保てなかった。
あの孤独を、彼女も味わってきたのだと直感した。
そして今日。
小さな金の炎を灯したアリシアを見た瞬間、心の奥底で忘れかけていた熱が蘇った。
やはり彼女は「無能」などではない。誰よりも美しく、稀少な才能を秘めている。
あの眼差しを曇らせた者たちが、どれほど愚かだったか。
――だからこそ、彼女を救った。
冷酷な言葉で「俺の女だ」と告げたのは、己の衝動を覆い隠すためでもあった。
窓を吹き抜ける夜風が、書きかけのページを揺らした。
レオンは静かに目を閉じる。




