塔での初めての夜
王宮の喧騒を離れ、夜風を切って進む馬車の中で、アリシアはただ震えていた。
隣に座るレオンは一言も発しない。窓の外を見据えたまま、冷徹な横顔を月明かりに浮かび上がらせている。
(……どうして、私を助けてくれたの……?)
胸に渦巻く疑問は尽きない。
王太子との婚約破棄を覆すなど、常識では考えられないこと。しかも彼は「アリシアは俺の女だ」と、誰もが息を呑む言葉を吐き捨てた。
その真意はまるでわからない。けれど、彼の手に引かれた瞬間、確かに凍りついた心が溶かされた気がした。
やがて馬車は止まり、塔の前に着いた。
空に突き立つような黒い塔――それが彼の居城であり、魔導師としての拠点だった。
不気味に見える外観とは裏腹に、扉を開けて中に入ると、思わず息を呑む。
広々としたホールには大きな暖炉があり、炎がゆらめきながら温かな光を放っている。
磨き上げられた床、魔法で浮かぶ光球が柔らかく天井を照らす。侯爵家で与えられていた薄暗い部屋とは比べものにならない。
何より、冷たく嘲笑する家族もいなければ、意地悪な妹もいない。
ただ静かで、落ち着いていて、息ができる。
「……ここが、あなたの……」
思わず声が漏れた。
レオンは振り返らず、短く告げた。
「今日から、お前の居場所でもある」
その一言に、アリシアの胸が大きく揺れた。
“居場所”――これまで一度も与えられなかった言葉だ。
侯爵家では邪魔者扱いされ、王太子からは無関心を向けられ続けた。誰も、自分の存在を肯定してくれる人などいなかったのに。
足がすくみそうになるほどの衝撃に、胸が熱くなる。
レオンは自ら奥の部屋に案内をしてくれた。
石造りの塔の中とは思えないほど、整えられた寝室。
ふかふかのベッドには清潔なシーツが敷かれ、暖かな毛布が用意されている。机の上には夜食らしいスープとパンが並べられ、湯気を立てていた。
「腹が減っているだろう。食え」
「……っ」
そのあまりに当然のような言葉に、胸が詰まった。
侯爵家では、妹が残した冷めた料理を押し付けられることが当たり前の毎日。温かな食事など、いつ以来だろう。
椅子に座り、震える手でスプーンを取る。スープを口に含んだ瞬間、体の芯まで温かさが広がった。
(……おいしい……こんなに……優しい味が……)
気づけば涙がぽろぽろとこぼれていた。
慌てて袖で拭おうとするが、次から次へと零れ落ちる。
「なぜ泣く」
低い声が頭上から降りる。
アリシアはうつむき、必死に答えを探した。
「わ、私……今まで、こんなふうに扱ってもらったことがなくて……っ」
嗚咽混じりの言葉が漏れる。
レオンはしばらく沈黙していたが、やがて小さく息を吐いた。
「馬鹿らしい。お前はただ、人として当然の扱いを受けていなかっただけだ」
冷たく突き放すような声なのに、不思議と優しさを含んでいた。
アリシアの胸に染み込み、涙が止まらない。
食事を終えると、レオンは部屋を出る前に短く言葉を残した。
「安心して眠れ。ここでは誰もお前を傷つけない」
その背中が扉の向こうに消えると、アリシアは堰を切ったように泣いた。
侯爵家で過ごした長い孤独の日々、冷たい言葉と嘲笑に耐え続けてきた心の痛みが、すべて涙となってあふれ出す。
それでも――今夜は違う。
初めて与えられた温かい食事、初めて告げられた「居場所」。
胸の奥に、確かな安堵が宿っていた。
涙が乾くころ、アリシアは静かに目を閉じる。
心地よい眠気に身を委ねながら、思う。
(……こんな夜が、本当にあるなんて……)
冷徹な魔導師の塔の中で、彼女は生まれて初めて「安らぎ」というものを知ったのだった。