プロローグ
フローレンス侯爵家は華やかさと格式を誇っていた。代々「優れた魔力を持つ子女」を輩出してきており王都でも一、二を争う名門として、その輝きは誰もが羨むほど。
ところが長女アリシアは、幼少期から魔力の発現が弱く、測定でもほとんど数値が出なかった。
それを理由に「無能」と断定され、存在を恥とみなされる。
その為侯爵家でのアリシア・フローレンスは常に影のような存在だった。
反対に妹のカトリーナは幼い頃から光魔法の才を示し、容姿端麗で社交性にも優れていた。
家族は自然と妹ばかりを可愛がり、使用人たちでさえ「無能なお嬢様」とアリシアの陰口を叩いている。
朝、屋敷の食堂でのこと。長いテーブルの端に座る彼女の前には、冷めたスープと黒く焼けすぎたパンだけが置かれている。向かい側で妹カトリーナは、色鮮やかな果実や焼き立てのパイに囲まれ、母と談笑していた。
「お母さま、昨日のドレス、本当に素敵でしたわ。刺繍の薔薇が夜会でとても映えていて」
「まぁ、カトリーナ。よく似合っていたでしょう? やはり貴族の娘は華やかさが大切ですもの」
母の声音は甘く、誇らしげで、それがアリシアに向けられることは決してない。
アリシアはパンを口に運ぶが、喉を通るたびに重く苦い。声をかけることも、視線を求めることもできない。彼女の存在など、そこにないものとされていた。
「お姉さま」
ふいにカトリーナの声が飛ぶ。艶やかな金の巻き髪を揺らし、青い瞳が冷ややかに細められた。
「その髪、またぼさぼさですわ。婚約者が王太子殿下でなければ、とても公に出せる格好ではありませんわね」
母は何も言わず、ただ小さくため息をつくだけ。父はすでに食堂を去り、家の事業や社交に忙しい。アリシアにとって家族との朝食は、常に居心地の悪い苦痛でしかなかった。
「……ごめんなさい」
小さくつぶやくと、カトリーナは満足げに微笑み、ぶどうの粒を口に運んだ。
それがアリシアの日常だった。
廊下を歩けば侍女たちは道を譲らず、わざと肩をぶつけてくる。衣装部屋では古びたドレスしか与えられず、妹のように新しい仕立てを許されることはない。図書室にこもって読書にふけると、「陰気で気味が悪い」と陰口を叩かれる。
アリシアは幼いころから分かっていた。
自分はこの家で愛されない存在なのだ、と。
唯一の救いは、王太子エドワードとの婚約だった。
七歳のときに決められたその縁談は、名門フローレンス家にとっても大きな誇りとされた。アリシア自身も、冷たい家族から抜け出せる日が来るのではと、淡い希望を抱いたことがある。王太子妃としての立場を得れば、自分も愛され、必要とされるのではないか、と。
けれど、十年の歳月はその夢を簡単に砕き散らした。
エドワードは優雅な容姿を持つ青年であった。社交界では「未来の王」と称えられ、多くの令嬢が憧れの眼差しを向ける。その傍らに立てるだけで誇らしい――誰もがそう思うだろう。
だが、アリシアに向けられる彼の瞳は、いつも空虚で冷ややかだった。
「また本を読んでいるのか。……退屈な女だな」
馬車の中で、ぽつりと吐き捨てられた言葉。
彼が微笑むのは、常に他の令嬢たちと会話を交わすときだけ。
婚約者であるはずの自分は、ただ隣に座る飾りに過ぎなかった。
そんな現実を突きつけられるたび、アリシアは胸の奥で小さく願っていた。
――どうか、せめて一度だけでもいい。
私を見て、私を愛して、と。
けれど、その祈りが届くことはなかった。
夜、寝室の窓から月を見上げながら、アリシアは何度も自分に言い聞かせる。
(私は大丈夫。泣く必要なんてない。だって、期待したって裏切られるだけ……)
冷えたベッドの中で、胸の奥に広がるのは深い孤独。
妹の笑い声が遠くから響き、使用人の足音が階下を行き来する。だが、そのどれもアリシアの世界には入ってこない。
侯爵家での彼女の存在は、壁の装飾や飾り棚の花瓶と同じ。
そこにあるけれど、誰も気に留めない。
そうして十七歳を迎えた今もなお、アリシアの心は氷に閉ざされていた。
季節は秋。王宮で催される大舞踏会の招待状が届いた。
王太子の婚約者として出席せねばならない。家族も揃って王都に出向く予定だった。
「アリシア、あなたのドレスはこれで十分でしょう」
母が渡してきたのは、何年も前に仕立てられた薄桃色のドレスだった。
カトリーナが身にまとう新調の真紅のドレスと比べれば、その差は歴然。
「お母さま、本当にこれでよろしいの?」
カトリーナがわざとらしく問いかける。
「殿下の婚約者が、まるで古着を纏ったように見えてしまいますわ」
「仕方ないでしょう。家の予算はあなたのために使われているのだから」
母は笑い、当然のことのように言い放つ。
アリシアは唇を噛みしめ、静かにドレスを受け取った。反論すればさらに嘲笑されるだけだと知っていた。
夜会までに残された日々、アリシアはひたすら本の世界に逃げ込んだ。
ページをめくるたび、物語の中の勇者や魔導師が、彼女の孤独を一時だけ癒してくれる。
けれど閉じた瞬間、現実の冷たさが押し寄せてくる。
(明日の夜会でも、私はきっと笑われる。けれど……それでも構わない。私は慣れているから)
そう自分に言い聞かせながら、アリシアは胸の奥で小さく震えていた。
――まさか、その舞踏会で彼女の運命が大きく変わるなど、このときのアリシアは知る由もなかった。