にわ
「今日はここらで休むで」
そう言ったと同時に、ユウリは扉から飛び出すように出て行った。
空間に霞む。
送り先の書かれていない言葉は、天井、壁、小窓に跳ね返って消える。
私はそれを、黙って見送った。
パキン。
音が聞こえる。
私は出るなとも、ここにいろ、とも言われていない。
なのに、枷のない手足は動かない。
ここはあの部屋と一緒。
壁に染み込む、赤、赤、赤。
私の血。
痛かった。
苦しかった。
嘘だ。
痛かったのも。
苦しかったのも。
私じゃなく。
あれは誰の血だろう。
思考に沈みかけた頭を、無理やり小窓へと動かした。
辺りは薄暗いを通り越し、暗闇と呼べるようになっていた。
夜はすぐ隣。
「おい」
夜はユウリに形を変えた。
不機嫌そうな、と付け加えよう。
………あれ。
でも、機嫌の良いユウリを見たことがないことに思い当たる。
もしかしたら、これがスタンダードな表情なのかしら。
「返事も出来ひんのか、あほ面」
馬車の外と内を挟んでいるため、目線の高さは同じ。
なのに、確実に見下されていると認識出来る。
私は首を傾げる。
同じ瞳なのになあ、不思議が少しだけ心に生まれた。
返事をしようと息を吸う直前。
舌打ちするユウリ。
私の手首を掴み、引きずり出す。
私は馬車と地面を繋ぐ段差を踏み外し、ユウリの胸板に突撃する形となった。
「痛いわ、ぼけ」
手首を軸に振り払われ、しりもちをつく。
額に感じるかすかな熱が、私に痛みを教えてくれた。
ユウリはかまわず、足早に火の方へ。
その火を中心にできた、ぼんやりと明るい小さな太陽の脇に座り込む。
私を睨む。
「はよう」
来い、ということだろう。
私はドレスの裾についた土を払い、急いでユウリに従う。
3歩分の距離をとり、腰を下ろす。
鳥肌の立っていた腕や体を、火の暖かさが優しく包み込んでくれる。
この地方の夜はとても冷えるのだ。
肉付きの悪い私の体は、その寒さをダイレクトに脳に伝えてくれている。
はずなのに、ここに来るまで寒さを感じなかったのは何故だろう。
暖かさを知ったとたんに、寒さを感じるようになったのは何故だろう。
指をこすり合わせる。
そして気づく、もう1人の存在。
ユウリの反対側の位置。
この国には珍しい赤毛。
違う。
炎に照らされているから、そう見えるのだろう。
朝に見た彼の色を、私は思い出すことが出来なかった。
その彼が口を開く。
「…夕食です」
コトリ、置かれた質素なお椀。
その中には、湯気をたてる緑色の液体が入っている。
木製のスプーンでかき混ぜると、抵抗の大きさから、それがとても粘着質であることがわかった。
すんすんと嗅いだ匂いは、意外にも普通のスープのそれだった。
「…美味しい」
思わず口から漏れた。
無表情だった彼は、ちょっと目を見開いて驚いているかのよう。
どういう意味なのだろう。
「…トロルの雑煮ですよ。苦くありませんか」
トロル、というのはどこにでも生えている、食べられる雑草の一種。
平民は干してお茶にするそうだ。
苦いかどうか。
苦い、苦い。
うん。
「苦いかもしれませんね」
いつの間にか、味ではないものが判断基準になってしまっていたようだ。
彼はきょとんとした後、ほんのわずか笑ったかに見えた。
「苦いでしょう」
「はい」
「美味しいですか」
「ええ」
その様子を怪訝な顔で見守る、いや、観察するユウリ。
彼はきっと、珍獣を見てもこんな表情をするに違いない。
ユウリを脇目に、私は尋ねる。
「あなたの名前は」
唐突過ぎたせいか、再び見開かれる瞳。
そして、その瞳はうろうろと右へ左へと動き始めた。
困らせたのだろうか。
「…すみません、その質問にはお答え出来ません」
私には教えたくないのかも知れない。
お前のせいだ。
ユウリの言葉を噛み締める。
大丈夫、わかっている。
それでも。
「私には教えられない?」
知る、ということを諦めたくはない。
まだ彼は生きているのだから。
一方、彼は戸惑いの視線をユウリへと移す。
助けを求めているように見えるのは、気のせいではないと思う。
「…奴隷階級に名前はないんや」
溜め息混じりに告げられる。
口外にそんなことも知らんのか、と聞こえてくるような言い方。
「名前、ないの?」
少し子供っぽい聞き方をしてしまった。
髪を一つに結んだ彼は「はい」と頷く。
その様子は、親とはぐれてしまった子犬のように、私の目に映った。
私は腕を伸ばし、彼のパサついた髪に触れる。
ぎょっとし、避けようとした体を理性が無理やり止め、奴隷は固まった。
こんなちょっとした動作にも、主従関係が反映されてしまうようだ。
それにかまわず、私は。
自分が当たり前に持っていた名前。
それが特別だということを理解する。
名前がなければ、呼んではもらえない。
呼んでもらえなければ。
見えるものはみんな白黒で。
世界と自分との境目を探してた。
「なんて呼んで欲しい?」
世界に色を塗る。
「自分に付けたい名前は?」
自分に色を塗る。
あなたはちゃんと、ここにいるから。
「…お前、話ちゃんと聞いとったか」
ユウリは、宇宙人にでも話しかけている気分なのか、眉根は寄りっぱなし。
そんな顔をさせるつもりはないのだけれど。
「だめなの? 彼の鎖はもうないもの」
奴隷じゃないわ、と当の彼に目を向ける。
彼は揺れる前髪の隙間から、私を見つめてきた。
表情の裏、見え隠れする不信感。
残念に思ったのは、私があなたのように笑えないこと。
きっと、能面みたいな顔をしている私。
気持ちが見えるものなら、もっと信じてもらえただろうか。
「…好きに呼んで下さい」
当たり障りのない受け答え。
それでも、迷ってくれた。
私の言葉、聞いてくれた。
それは名付けてもいいということ?
「好きに」
「はい」
「本当に」
「ええ」
さっきと反対のやりとり。
私の口が僅かに笑みの形を作る。
彼も同じことを考えたのか、顔が優しくなっていた。
二人で微笑み合う。
「考えておくわ」
その夜、地面にガリガリと文字を書く。
拙い、歪んだ、線の羅列。
書いて。消して。
何も持っていない私が、初めて贈るプレゼント。
贈る相手がいる。
当たり前なんかじゃない、奇跡。
すごいでしょう?
あなたはどんな顔するかな。
頭を撫でてくれるかな。
その様子を鏡のように写す瞳。
最後まで、私はそれに気づかなかった。