[20]拉致と監禁
『あの時』に似ていた──。
あの春の日曜日。柔らかな陽差しが暖かくて眩しくて、でもまだ眠りたくて……心地良いベッドの上で寝返りを打った高岡邸、明日葉の部屋のあの朝に──。
そっと優しい感触が頬に触れて、モモはふと目を覚ました。僅かに開かれた視界の中に鮮やかな赤が射し込まれて、何かを思い出したように数秒思考が脳内を巡る。赤──赤い車、赤い爪、赤い唇──杏奈……さん?
「えっ……!?」
咄嗟に目を見開いて、横になったまま固まった。モモのすぐ隣には杏奈の顔があって、ベッドマットに頬杖を突きながら、逆の手はモモの頬を撫で、満面の笑顔を向けていた。
「あらん……起こしちゃった? ごめんなさいね。だって貴女のほっぺ、とっても気持ち良くて」
「ひっ!?」
慌てて身体を起こし、反れるだけ背を反らして杏奈から離れた。──どこ!? ここ!! 何で?
「うふ……あのアイスティに睡眠薬、入れちゃった」
「す、睡眠薬……?」
杏奈は悪戯したことを笑ってごまかす子供のようにおどけてみせたが、モモはそんな彼女のいつになく可愛げのある仕草になど構っている余裕はなかった。──あのサーカスの出口で急に眠くなって……あたし……ま、また攫われた!?
どれだけ自分にはスキがあるのかと、我ながら呆れてしまう。
「あっ」
お次に自分の身体を見回して、モモは安堵の息を吐いた。──昨夜の格好のままだ──もしもそういう趣味があったなら──と一瞬通り過ぎた嫌な予感は直ちに払拭された。
「やだ、なあに? 何か変な想像した? 大丈夫よ、『そっち』の人間じゃないから。貴女とゆっくり話すには来てもらった方が楽だと思って。でももう十二分に警戒されているのは分かっていたから、ちょっと強硬手段に出ただけよ」
「はぁ……」
けれど頬に触れられたのは、気付いているだけでもう三度目だ。自分の肌がそんなに気持ち良いとは思えないモモは、やはり疑惑を消し去ることは出来なかった。
杏奈は光が注ぎ込む窓際の椅子に腰かけて、内線電話らしき通話を始めた。食事の準備を依頼するような言葉を向こう側の相手に伝える。
「ここ、先日の花火大会で話した別荘なの。だから遠くまで連れてきた訳ではないから心配しないで」
電話を終えた杏奈はモモを安心させようとそう告げたが、距離などよりも今の自分の状況の方が問題だ──これって、もしかして……サーカス内では先輩と共に消えたことになってない……!?
「まぁ、まずは顔を洗ってらっしゃい。あ、昨日お風呂にも入れなかったわね。シャワーも浴びる? 朝食を終えたら全て話すわ。だ・か・ら、それまでは大人しくお姉さんに従ってね?」
──それってほぼ『脅迫』と言うのではないでしょうか……?
杏奈のにこやかな笑顔から、明らかに自由の利かない自分の現状に恐れをなし、モモは思わず苦々しい笑いを零した──。
☆ ☆ ☆
杏奈の部屋はシンプルでスタイリッシュながら、置かれた調度や装飾は意外に少女趣味だった。モモが休んでいたベッドの片隅にも、可愛らしく手触りの良いクッションやぬいぐるみが数点並んでいる。
部屋を出てすぐのやけに広いパウダールームで顔だけは洗わせてもらったが、どうにも不安が拭い去れないモモはシャワーを浴びることは遠慮した。着替えればまたミニスカートを履かされかねないし、そのままの格好で帰るなんてことになったら、もうあの凪徒との噂も否定しきれないに違いない。
支度をしている間に杏奈の部屋に用意された朝食は、これまた意外にも純然たる和食だった。
「どうぞ、遠慮なくね」
「は……はい、頂きます……」
はっきりとした顔立ちやお洒落な装いからのみでは、人というものは判断出来ないのだな、としみじみ思う。高級旅館で出されそうな地味目ながら洗練された食事に手を付けると、どれも素材本来の味が引き立てられた素晴らしい料理だった。
「気に入った? 嘘だと思うかもしれないけれど、貴女が寝ている間に私が作っておいたのよ」
「えっ……」
驚きと共に、この女性には敵うものは何もないのだと、敗北感を覚えざるを得なかった。美しさもスタイルの良さも、そしておそらく賢さも……更に料理上手と来たら、桜家の御曹司である凪徒の伴侶には、どう考えてもふさわしいではないか。
自分の不甲斐無さを思い知ったモモは、瞬く間に食欲不振に陥ってしまった。それでも共に食事を進める杏奈の微笑みと美味しい食事の力が、彼女に何とか完食を促した。
「とても美味しかったです。ごちそう様でした」
「いいえ、お粗末様でした」
箸を置いたモモに続けて、杏奈も食事を終わらせた。再びの内線電話で現れた女性が食器を片付け、食後の緑茶を差し出して退出する。
──全てが語られる時間の始まりだ──。
★続けて次話を投稿致します。




