第1話 1−1 殺意の波動を感じる
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殺意よりもつよい感情が、迫っているとも知らずに…。
『猫はしぶとい』。これが欧州の価値観らしい。少なくとも私は、そんなことは一度も思ったことがない。田舎だとむしろ、野良の子猫がカラスに食われていたり、車道の真ん中で轢かれていたりする。
ただ確かに猫はしぶといというのは欧州ではある程度普遍的な価値観のようで、「猫に九生あり」や「好奇心は猫をも殺す」といった言葉がある。この2つは両方ともヨーロッパから発した言葉だそうだ。
さて、そんな話をした私は猫に似ているわけでも大して頑強でもないわけだが、「好奇心は猫をも殺す」という言葉については身をもって経験したことはある。むしろ、身の程を知らず調子に乗り、損を被ったことというのは人一倍あるように思う。
例えば小さい頃、椅子の隙間にどこまで脚が入るのかというくだらない検証をして、ハマって抜けなくなり椅子を壊すことになったことがある。テレビ番組の世界の映像とやらで、必ず流れるおバカな子の正体は私である。
小学生になった頃だろうか、どのくらい強く言えば相手が押し黙るのか試してみたくて、些細な喧嘩で友人をひたすら責め立てたことがある。こちらが謝れば向こうも謝り、それで済むと分かっていたが、そうしなかった。なぜなら気になったから。もちろん先生にも親にもこっぴどく叱られた。友人は許してくれたが、今でも戒めにしているほど苦い思い出である。
中学生の時、私は恋に興味がないタイプだと思われていたらしい。確かに中学生活で恋はしなかったが、恋バナにまで参加しないのは私がいわゆるコミュ弱だからだ。それ以上の理由はない。ただ3年生になって、思いつきから好きな人がいるという情報を流してみることにした。そしたら思った以上に級友たちの反応は強く、それが非常に面白かった。そのためあんな特徴を挙げてみたりこんな特徴を挙げてみたりと、情報をいろんな人に小出しにした。周りの子たちが面白がり楽しそうにしてくれるのは良かったが、流石に良くない行為だった。浅はかであったと反省している。流石に皆知っていると思うが、人間関係は興味本位でいじくり回すものではない。
他にも数えだしたらキリがない。寧ろ好奇心なんてものが過ぎらない時のほうが少ないんじゃないかと思うほどだ。そうであるにも関わらず、私は今、生来の悪癖を発現して、人生最大のピンチと後悔を同時に得ることに成功した。私の目の前には男が一人。その男の右手には刃物が一つ。そしてその男の目には、他でもない私が写っていた。その目の色は確実に、人を傷つける目である。絶体絶命である。愚かな私がこんな状況に陥る事となった理由は、たった十分ほど遡れば説明できる。
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駅前の大通りを一人歩いていると、孤独を感じて、その冷たさが夏の暑さを和らげてくれる気がした。季節は9月のはじめ。日本でも低緯度の方に位置するこの街では、秋なんてまだ遠い話だった。
学校からの帰り道。自称進特有の無駄に厳しい校則のせいで結んでいた髪を解くと、その解放感もまた少し、涼しさを感じさせてくれた。ただ、手提げの学生カバンはいつも通りとても重い。額を汗が伝っていた。
私の名前は朝日心奈。高校1年生だ。親元を離れ、一人この珂璃磨市に、勉を志すためやってきたわけである。こう書くとずいぶん遠くの方にやってきたように聞こえる(実際距離的にはかなり離れている)が、私の地元とここ珂璃磨市は、同じ珂璃磨県にある市町村である。田舎の中の田舎から、田舎県の県庁所在地に移ってきたにすぎない。
そのため憧れの都会暮らしとか、芸能人とすれ違うなんてこともない。最初の方は大変だった一人暮らしも、半年近く経つとすっかり慣れてきて変わり映えのない日々である。今日だって、これまた公立高校特有の、無駄に長いスカートの密閉性に心のなかで愚痴を垂れながら、まだ冷房のついていない部屋を目指してひたすら歩いているだけである。
それでも今日は、何もない、いつも通りの道というわけではなかった。昨日壊れてしまった傘の代わりを買うために、学校から家の反対方向に数百mの駅前まで出張っていた。晴れた日に雨傘を持って歩くその姿は、はたから見ると少し滑稽かもしれない。そのいつもと違う帰り道が、何かを呼んだのかもしれない。前方数m先の道を歩いていた男の人に、ふと、目が止まってしまった。
「おい、お前はニンゲンか?」
男は突然立ち止まると、男の目の前にいる高校生だか中学生だかの少女にそう問いかけた。黒髪ボブの、きれいな娘だった。おかしな質問だった。不審者としかいいようがない。ただ、私の耳と脳は、それを普通の不審者とすることを拒んでいた。
『ニンゲン』。男から発せられたその言葉は、ノイズがかかったような、或いは頭のなかで反響するような…、そうでなくても、特殊な響きが含まれていた。普通の、生物としての人間とは違った不気味な意味合いを感じさせるその響きは、不快感さえ覚えた。
聞き違いとは思えなかった。そういった類のものではないという確信があった。そして私の好奇心は、この不審者を、私の知らない世界を知っている存在を、無視することができなかった。
間もなく、私のような馬鹿ではないらしい女の子は、怯えた顔を隠しながら聞こえないふりをして通り過ぎていった。
それを横目に見ながら男は、「チッ」と軽い舌打ちをするとまた歩き出した。気になる。答えがなくとも聞き直したりしないところを見るに、質問の相手があの娘である必要はないらしい。それとも、あの反応こそが答えとして充分だったのかもしれない。何れにせよ、男は得たいものが得られなかったようだ。これは、調べるしかない。私は、暑さすら忘れ夢中になっていた。夏よ、なぜもっと暑くなかったのか。そう思うのはあとにも先にもこの時ばかりであろう。
ではその男にズカズカと向かっていき、さながら涼宮ハルヒのように傲慢な態度で彼を問い詰める勇気があるかといえば、私なんぞにあるはずもなく。男の数メートル後をひたすらつけるばかりであった。これではどちらが不審者か分かったものではない。あえて言うなら両方だろうか。
先ほどの言葉以外にも不思議なところがあるかもしれない。そう思い男を観察してみたが、それらしき点は一つも見当たらなかった。服装は青いシャツに黒いズボン。歩き方も普通だし、背格好も普通、年齢も20代〜30代といったところだ。横断歩道を待つときはスマホを見るし、人並みに汗もかいていた。
そうして通り沿いに七、八分ほど歩いただろうか。それまでの間、何人かの少女とすれちがったが、男があの質問を繰り返すことはなかった。そして少しため息をつくと右へと曲がり、住宅街へと入っていった。道幅は2メートルほどで広くない。私も後を追う。学生の帰宅のピークからはずれているためか、人っ子一人歩いていなかった。足音を消すように歩く。
そこからはかなり長かったように感じたが、実際はそうでもないのだと思う。半ば失望のような感情を抱え遂行していた尾行に、突然動きがあった。男が立ち止まり後ろを振り向く。そして私を見つけると、少し驚いたような顔をした。私は内心男と比べものにならないほどひどく驚いていたが、それをおくびにも出さないようにしつつ、何事もなかったかのように男の横を通り過ぎようとした所で、声をかけられた。
「おい、お前はニンゲンか?」
先ほどの女の子にかけた問いと、一言一句違わない。まさに私が待ち望んでいたものであり、同時に、自分には来てほしくなかった問いだ。なぜ、今、私に?咄嗟のことに驚いた私は、
「え、わからないです…。」
と、バカ正直に答えてしまった。適当に無視すればよかったのだ。あの子のように。でも、それができなかった。向こうもバカでは無いらしい。何かを感じ取ったようで、
「ほう、お前ニンゲンだな。」
と言われてしまった。そうは言っても本当に分からないのだ。それがなんなのか。詰め寄られ、戸惑い、足がすくんでしまう。
「お前の答えは、『人間か?』って質問の答えにしては変だ。となると聞こえるんだろ?ニンゲンが。この言葉を聞けるのは、同じニンゲンだけだ。」
意味がわからない。未知で不快な、理由のわからない言葉の中に、私という存在も含まれているらしい。そして口ぶりからしてこの男も。私の方は困惑する一方だったが、そんなのお構いなしに男は続ける。
「なら、死んでくれ。ルールはそうだな…。面倒だしKスタンダードで。」
そう言って男は、ポケットから折りたたみ式のナイフを取り出した。
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私は今この状況を理解しようと、ここ10分の出来事を軽く思い返してみた。しかし分かったのはせいぜい私が馬鹿であることと、『ニンゲン』という言葉とこの男が想像以上に危険なものだったらしいことくらいで、何も得るものはなかった。そこで私は、最重要ではないであろうが、それでいてもっともな質問を男に投げかけた。
「Kスタンダードってなんですか?どういうルール?ってかルールって何に対してですか?」
私がここまで戸惑うのは予想外であったらしい。男は少し思案すると、面倒そうに答えた。
「そうか…。お前、何も知らないんだな。じゃあルールに合意して、おとなしく殺されてくれればいい。そうすれば俺は捕まらずに済む。」
「捕まるって、警察にですか?そんな合法殺人みたいなの、私がなんで受け入れなきゃ…。」
「そうだな……。」
「お前がルールに合意しなきゃ、俺はどうせ捕まる。つまり何やってもあんまり関係ねぇな。じゃあ、お前で楽しむことにするよ。わかるだろ?」
最悪だ。本当に最悪だ。殺すならせめて一息に殺してほしい。私は自分を犠牲にしてこいつを牢に入れてやるほどの善人ではない。目の前のこいつが殺人を咎められない代わりに、私がこのまま真っ直ぐ刺殺されるのなら、喜んでルールというやつに合意しただろう。でもそうじゃない。少なくともこいつは、その行為が選択肢に入っている。ルールとやらの内容によっては、それすらも正当化されてしまいかねない。そんなの絶対に嫌だ。
私に与えられた選択肢は3つ。
一つ、ルールを承諾せず、この男と真っ向から対峙すること。私の今持っている武器。具体的には傘とカバンを持ってして、ナイフを持った男と戦おうという案だ。あちらのナイフの刃渡りは精々十数cm、こちらの方が圧倒的にリーチはある。勝機は僅かだがあるかもしれない。
二つ、ルールを承諾し、戦うこと。これははっきり言って無しだ。どうせ戦うなら、相手が有利になりそうなルールは飲まないほうがいいに決まってる。唯一の利点といえば私が決闘に勝った際、徹底的に、感情的に相手をメタメタにしても咎められない可能性が生まれる点だ。正直意味がない。
三つ、シンプルに逃げる。これが一番マシな選択肢だ。大声を出しながら逃げれば、如何にこの人気のない道といえども数分で誰かが来るだろう。そうなれば少なくとも、遊ばれることはない。助かるか殺されるかだ。もし奇跡が起こったとすれば、50メートルを10秒台で駆け抜ける私の鈍足をもってして今すぐ来た道を戻り、その末に大通りまで戻ってこれるかもしれない。そうなれば、私の勝ち。絶対に殺されることはない。警察に通報して男は手配。念のため男が逮捕されるまで数日間家から出なければ、私は何もかもを脅かされることは無いわけである。完璧だ。
一人暮らしの私が外部との接触を絶って数日生き延びることが非常に難しいという点に目をつぶれば。ただ、そんなこと些細な問題である。先生やら警察やらの手を借りれば何とかなるはずである。
(ちなみにこの時、ルールを承諾した上で逃げるという案も理論上は存在するのだが、カタルシスという唯一にして最大のメリットすらなくなってしまうので、それは二つ目以上にありえない。よって当時の私は考えもしなかった。)
結局どの選択肢を選んでも、私が今ここで殺されなかったとしても、この男が牢から出た時に逆恨みで殺されてしまうリスクを孕んでいるのだが…。それもどうでもいいのである。今、このときが最重要なのだ。
幸い、私がここまで思考しても何の問題もない程度には相手は時間を与えてくれていた。私が冷静に、バカげた結論を出せるように待っているのだ。最悪な犯罪的思考を持っていても、やはりブタ箱行きは嫌らしい。だが油断は禁物だ。人を殺そうという人間が何分も待ってくれるとは思えない。
私は10秒程度のとてもありがたい十分な思考時間をもってして最適な結論を導き出した。そのはずなのに、そのはずなのに、どうしてだろう。強いて言うなら、その時そうするべきだと思ったからだ。そこに論理も、感情すらもほとんど無かった。今までの人生で一番本能に近い選択のような気さえする。数十秒前に反省した己の愚かさなんて、今、この時の衝動に比べればどうでも良かったのだ。
「そのルールって奴を承諾すれば、私は貴方を殺せるの?」
突然の発言に相手が動揺しているように見えた。当たり前である。
「まあ、そうだな。」
「じゃあ、そうしましょ。」
「へっ、望み通り殺してやるよ!」
ルールというものがどうやって適用されるのかなんて考えていなかった。そのことに思い至った時には、相手はありきたりなセリフを放ち、ナイフを振りかぶりながら走ってきた。
私はカバンを男に向かって投げる。10キロほどあるであろうそのカバンは、低く緩やかな軌道を描き相手の胸にぶつかり、傍らに落ちる。左腕で僅かにその体を庇ったようだが、しっかりと怯んでいた。
第二ターン。相手がひるんでいる間に傘を両手持ちに切り替えた私は、突きの構えをとる。剣のように振るってはダメだ。殺傷能力もないのにただ長いものを振るうと相手に受け止められ掴まれる危険性が高い。そうなったら終わりだ。一般的に考えて女子高生が成人男性に力で勝るはずがない。唯一の武器を奪われてしまう。突きでそのリスクが0になるわけではない。だが最初のカバンで簡単に怯んだことから、こと殺人において相手は素人だと確信した。牽制だけなら、相手に掴まれるリスクは低い。ゆっくりと後退しながら時間を稼ぐ。その思惑通り、相手は中々近寄れないようだった。
第三ターン。ここまで来ると当初の熱は冷め始めていた。時間稼ぎをした末に得るのは、力による勝利ではない。今私が考えているのは、いかにして生き残るかだけだ。この時間稼ぎも相手が無理やり突進してきて、傘に腹を突かれる痛みを我慢しさえすれば何の意味もない。この武器を、受け止め掴み奪われる。集中と緊張から視野が狭まっているのを感じた。危ない。相手の虚を突く以外に勝ち目はないのだ。相手だけでなく、その周りの空間も見るのだ。
(!?)
あれは何だ!?男の十数m奥の方から、1人の少女が走ってきていた。それだけなら、私のせいで巻き込まれてしまうかもしれないその子を心配しただろう。ただ、そうじゃない。私から見て右にある住宅街のブロック塀の上を走っているのだ。これでもまだ、危ないことをするただの子供に思ったかもしれない。でも、そうじゃない。その子からは音がしなかった。足音がしなかった。それはまるでCGの合成映像のような、それでいて…猫のような異質さがあった。そう、猫だ。それがいい。
そう思って改めて見ると、その子の顔は猫のような可愛さがあった。ベビーフェイスでありながら、鼻筋が通った完成された顔立ち。大きくまん丸な目と、小さくて美しいリップ。髪は明るいブラウンのツインテール。文字通り猫の尾のようにしなやかに揺れていた。服装もそうだ。フリルやレースがついた、それでいて細いシルエットの黒いガーリーファッション。髪をまとめるシュシュも、履いているタイツも、靴も。最初からそこにあるかのように美しく統一されたものだった。生まれて初めて、こんなにガチガチのセットアップが似合う人間を見たかもしれない。
そしてその可愛い女の子は、2,3秒ほどで男のすぐ後ろまで来た。立ち止まったその子を見ると、とても小さい子だというのがわかった。身長は130cmくらいだろうか。小学生?中学生?え?それっておかしくない?
その子の走る速さは、今まで見たことないという程ではない。ただ、この体躯の、年齢の、女の子が、ブロック塀という細い足場の上で出すスピードとしては異常に違いなかった。そしてもう一つ驚いたのは、この短時間の間に私がこんなにも少女を観察し、その魅力を言語化できたことだった。私はもう、緊張していない。まだ、何が起こるかも分からないのに、もう大丈夫な気がした。また、違う感覚だ。論理でも感情でも本能でもない、運命とでも言うべきだろうか。
私の目線に男が気づいた様子はなかった。相手は相手で集中しているらしい。さて、これからどうなる?
「へい、へい、へーい。こっちだぜ、ベイベー!」
突如として意識外から放たれたファンキーな言葉に男は振り向いた。その刹那
「百音ちゃんスーパートリックドロッープ!!!」
そう叫びながら、男の胸に向かってそれはそれは綺麗なドロップキックを放った!それを受けた男は後ろに倒れ、少女が立っていたものとは反対の塀に頭を強く打ち付けた。私がその様子を見ているうちに、少女はいつの間にやら忍者の如き着地を決めている。すぐに立ち上がってニヤリと笑うと、
「僕のようなか弱い女の子に蹴られたくらいで倒れるなんて、まったく最近の男子は。さあ、速く起きなよ。」
と、余裕の挑発を見せる。その言葉に触発されたのかは定かではないが、男はゆっくりと立ち上がると辛うじてまだ右手に携えていたナイフでもって襲いかかる。そう見えるのが早いか
「脳震盪ムーンサルト!!!」
と今度はこれまた驚くほど綺麗なムーンサルトキックで顎を打ち抜いた。そしてこっちに向かって可愛くウインクしながら勝利の横ピース。間もなく男は、地面にまっすぐに倒れ込んだ。
「まぁ、別に脳は揺らしてないけどね。」
じゃあなんで倒れたのかは気になるが、とにかく助けてもらったのは事実である。お礼を言わなければ、
「あ、ありがとう。」
「いいってことよ。」
目の前に起こっていることへの興奮で思ったより大きな声が出てしまった。そのことに気づき自分で頭が冷えていくのが分かる。それと同時に、目の前の少女に対しての疑問とも疑念とも言うべき感情が浮かび上がっていた。彼女はそれを見透かしたかのように話し始める。
「朝日心奈、君は今、再び岐路に立っている。命の危険を経て、君は知ることも知らないこともできる。」
「知るって…、ニン――。」
「おっと、あんまり口に出さないほうがいいと思うよ。またこいつみたいなヤツに目をつけられないとも限らない。」
そう言って、地面で伸びている人間を憐れみとも蔑みともとれる目で見つめた。
「君は、君自身で選んで今この場にいる。だからこそ、知る権利がある。それとは別に、一切を忘れてなかったことにする権利もある。そしてその両方を、僕は全力で保証する。君が忘れることを望むなら、僕はこれ以上一切君に関わらないし、二度と同じようなことを起こさないと誓う。信用はないだろうけれど、これは神よりも尊いものへの誓いだ。」
『信用はないだろう』、そう言われてみて初めて気づいた。そうか、私はこの子に殺される可能性もあるのだ。少なくとも、今の様子を見て彼女に勝てる気はしない。そしてもう一つ。彼女は私の名前を知っている。少なくともこの下校中において、私は正面切って名乗ることなどしていない。つまり彼女は、あらかじめ何らかの理由(恐らくニンゲンとやらのせい)で、私のことについて調べていた。その過程でたまたま私を助けることになったというわけなのだろう。つまり、彼女が私を危険とみなせばどうなっていたか分からないところを、今、見逃してくれるというのだ。
「或いは、君が危険を冒してまででも知りたがっていたそれを、僕は不完全でも説明することができる。けれどそれは、君を更なる危険にいざなう可能性を否定できない。」
「さあ、どうする?」
私のなかで答えは決まっていた。それは論理であり感情であり、本能であった。そして同時に運命でもあったのかもしれない。それともただ、知的好奇心に抗えなかっただけかもしれない。
「私は、知りたい。そのために…、そのために立ち向かった…気がする、から。」
何もわからない今出せる、精一杯の言葉だった。
それを聞いた百音は、一瞬目を見開いて、
「そうか、そうだね。いいだろう。ただし、今日はもう時間だ。」
といい自らの後ろを顎で指す。すると路地の曲がり角から黒いミニバンが現れた。道幅いっぱいのそれは、こちらの方向に曲がらず少し通り過ぎて…、その後バックでゆっくりこちらに来る。
「僕はこれから後始末をしなくちゃいけなくてね。すぐに説明できないことを許してほしい。」
そして私の方を見つめて…「あ、かばん。」と言うと、道端に転がっていた学生鞄の砂埃を払ってから手渡ししてくれた。もはや幼女と言っても差し支えない身体にも関わらず、片手で軽々それを渡す姿は、やはり異質を感じさせる。そうこうしているうちに百音の後ろに着けた車。彼女がトランクを開くと、なかにはブルーシートが敷いてあった。そして慣れた様子で、道端で未だ伸びていた男を中に引っ張り上げ始めた。
どんな…後片付けだろう。私は想像するのを止めた。それは決して暗い想像をしたからではない。きっと彼女に説明してもらえるだろうという確信があったから。そして、そのことに対して暗い妄想をするのは無意味だと悟ったからだ。最後、足の方を引っ張り上げながら、百音は言った。
「あ、そうそう。待ち合わせ決めなきゃ。じゃあ…。」
少し考える仕草を見せながら、男の体を最後までトランクのなかに入れた所で、少女はニカッと笑ってみせた。
「明日、昼休み、いつもの場所で!」
そう言って少女はトランクを閉めた。車は走り出す。
(いつもの場所って、ど…こ……?)
その日私は、ドロップキックへの衝撃で傘を取り落としたことに、家に帰って初めて気がついたのだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
吉田和久が目を覚ました時最初に感じたのは、顎下の強いひりつきだった。酷い不快感を覚えるその場所に触れようとして初めて、男は自分が拘束されていることに気づいた。手は後ろ手に。足は体育座りのような形にされ、両方とも縛られている。それに目を移す過程で、憎い顔が自分を見つめながら座っているのに気がついた。
「おい!なんだよ。これ!」
「なんだよと言われてもねぇ。」
そう言った少女は、スマホを取り出しいじり始める。
「吉田和久、21歳。男性。大学在学中に、酒やギャンブルにハマり借金を繰り返す。首が回らなくなり闇バイトに手を出すも失敗。現在身元不明の少女に拘束されている。」
「おい!なんだよ!てかそれ、俺のスマホだろ!」
「そうだねー。そうそう君さぁ、SNSやりすぎ。どれで闇バイトのやり取りしたのか分かんないからさぁ、教えて?」
「は?なんでだよ!てか、バイトのこと知ってるならわかってんだろ!」
「前例があっただけで確信はなかったよ。君がただの狂人の可能性もあった。」
「くそ!マジで意味わかんねぇ。早く解放しろよ!」
「はぁ…。」とため息をついた少女。傍らに置いてあるナイフを持ち出した。先刻自分が振るっていたものである。今度はそれをいじりながら、話しかける。
「君は今、文句言える立場にないの。下に敷いてあるでしょ、ブルーシート。壁にはゴミ袋のビニール張ってあるの。血が飛び散っても大丈夫なようにね。分かった?教えて。」
「……脅かしても無駄だぜ。ガキにそんなことできるわけねぇ。」
男は目の前の相手を見てそう言う。男には初めて余裕が見られた。
「そう。」
『ザゴッバキシャ』
「うああああぁぁぁっ!」
唐突に激しい痛みが男を襲った。痛む場所を見ると、左足の小指から、多量の血が噴き出していた。指が、取れてる。いや切れてる!
少女はしゃがみ込んだ姿勢で、左頬杖をつきながら、右手には血のついたナイフを持っている。こちらを見下している。最悪な、大嫌いな目だ。
「これでブルーシート切ってないんだよ。すごいでしょ。で、教えて?」
「それだけ…?」
説明された少女は、本気で困惑したようにつぶやく。
「黒髪の女子のニンゲンを殺せば100万。ほかのヤツにゲロったら殺される。そう、言われたんだ。これで全部なんだ。信じてくれ!」
「うーん、メッセの履歴消しただけかもしれないしなぁ。まあ、それは後で調べればいいか。」
「で、この連絡先は使い捨てだから、連絡しても意味ないって?じゃあさ君、どうやって報酬受け取るつもりだったのさ?」
「!? それは…。」
「金回りになると途端に馬鹿になるねぇ。君はそいつに監視されてるか、使い捨てで放置されてるかの二択。僕が監視に気づかないわけないから、放置一択だね。よかったじゃん。ゲロっても殺されないよ。」
そう言って笑いかける少女の靴は、すでに男の血で汚れていた。男も引きつった笑みを浮かべる。足の小指1本で済んだ。ガキにも見下されて最悪な気分だが、死ぬよかマシだ。
「まあ僕はどっちでも殺すけどね。」
「は?おい、待てって!そりゃねぇだろ。俺はどうすりゃいい?もう情報はねぇんだ。なぁ頼むよ。見逃してくれよ。」
そう言われると、少女は眉根を寄せ、これまでで一番不快そうな顔を見せた。
「それあるよね。『もう何も知りません!許してください!』って時々創作で見るんだよ。せっかく面白そうな漫画でも冷めちゃうんだよね。あれってさ、許す側に利益ないよねぇ。君は金で人を殺すし、痛みで口を割る。そういう人間だって僕は知ったんだ。どうせ情報もないだろうし、生かしても無駄。悪いけど、死んでもらうよ。心奈のために。」
不愉快な断末魔が響く時、少女の心も、右手以外の全ての身体も、すでに明日の愛のための奴隷であった。




