07.はじめまして、ではなかった人
四年の演習場は、三年の使う演習場のさらに奥にあった。
「ティニア!!」
その入口に足を踏み入れた途端、兄のオリオンが駆け寄ってくる。
「さすがマリウス先生!昼休憩前は、「馬鹿なことを言うな」なんて、あんなに頑固に僕の言葉をはねつけていたのに……!
僕がどれだけ真剣な思いだったか、ようやく分かってくれたんですね!ありがとうございます!
もう二度と、事故を装ってマリウス先生に攻撃魔法を撃とうだなんて考えませんから!」
「お前、そんなこと考えてやがったのか……」
「オリオン兄さん……」
マリウス先生の信じられないものを見るような目も、ティニアの呆れた視線も、浮かれきった兄には届かないようだ。
黙り込む二人も前で、兄だけがはしゃいでいた。
「オリオン、治癒魔法を使えるお前に、治癒師は必要ないだろ。俺がマリウス先生にペアの話を受けたんだよ」
その時、いつの間にか近くに立った男が、兄のオリオンに声をかけた。
(あ。この声……)
その低い声に、聞き覚えがあった。
ティニアが声の方に視線を向けると、予想していた通りの人がそこに立っていた。
「あ、やっぱり。ヴァルドさん」
「……ティニアちゃん、俺のこと、覚えていてくれたのか?」
ティニアの呼びかけに、彼は少し驚いたように目を見開いた。
彼とは、もう何年も前に一度会ったきりのだったが、ティニアが忘れるはずのない人だった。
背の高いロイクよりさらに背が高く、剣士らしくがっしりした体格。鋭い目つき。
そして、響くような低い声。
その圧倒的な存在感もそうだが、兄オリオンが「唯一、家に招いた友人」として、母と二人で何度も話題にしていた人物だった。
彼と初めて会ったのは、三年前―――兄のオリオンとヴァルドがまだ、学園一年だったころだ。
あの日、オリオンが初めて彼を家に連れてきて、母と二人で、「オリオン兄さんについに友達ができたのね…!」と喜んだのを、今でもはっきりと覚えている。
結局、その一度きりの出会いになっていたが、ティニアにとっては確かな記憶として残っていた。
「もちろんですよ、忘れるわけないじゃないですか。むしろ忘れているのは、ヴァルドさんの方です。
『ティニアちゃん』って呼ばないでって、言いましたよね」
ティニアは昔から、「ティニアちゃん」と呼ばれることが、好きじゃない。
その呼び方は、まるで子供扱いされているように感じるからだ。
「ああ、そうだったな。……それに、あれからもう三年も経つもんな。『ティニアちゃん』はないか。
前みたいに、『ティニア』って呼んでいいか?」
どこか懐かしそうに目を細めたヴァルドに、ティニアは「はい。それでお願いします」と小さく頷いた。
「お前ら知り合いだったのか。――まあ、それなら話は早い。二人の魔力の相性を確かめるから、ティニア、ヴァルドに少し治癒魔法をかけてみてくれ」
マリウス先生の言葉に、「あ、はい」と返事をして、ティニアは改めてヴァルドを見た。
治癒の目で彼を見れば、体のあちこちにほころびが浮かんでいる。
「ちょっとヴァルドさん、相変わらず身体中が傷だらけじゃないですか。『小さな傷でも軽く見ないで、ちゃんと治癒院に行った方がいい』って話したことも、忘れちゃったんですか?
―――わあ、もうその腕なんて、感知する私の方が痛くなりそうなんですけど」
あまりにも自分の体に無頓着なヴァルドに、ティニアはぶつぶつ言いながら、思いっきり治癒魔法を彼の上に降らせた。
地面から吸い上げた水を大地に振りまくように、澄んだ魔力をヴァルドの上に集中して注いでいく。
勢いを帯びた魔法が、キラキラと陽に反射していた。
普通はこんな風に、治癒魔法を雨のように降り注ぐことはない。
だけどヴァルドの怪我は、ずいぶん長く放置されているものが多いので、このくらいやっておかないと一気に治せないのだ。
初めてあった時も、その痛々しさを見ていられず、「別に治療の必要はない」と拒むヴァルドの頭から、ざぶざぶと勝手に治癒魔法をかけていた。
あの日確かに、「治癒魔法も悪くないな。……ありがとう」と言っていたはずなのに、また三年分の傷がたまっている。
おそらく―――だが。
ヴァルドがこんなにも傷だらけなのは、誰ともペアを組んでもらえなかったせいだ。
彼の大きな体と鋭い目が、治癒師の女の子を委縮させるのだろう。
(こんなにも傷ついた体で、ずっと一人でいたなんて……)と思うと、気の毒で治癒魔法の雨が止まらなかった。
ざぶざぶと降らせてゆく。
「ティニア、もういいぞ。ヴァルド、お前も傷が治ったなら、ちゃんと声をかけろ。治癒魔法で寛いでるんじゃないぞ」
マリウス先生の言葉で、ティニアはようやく魔法を降らせる手を止めた。
ヴァルドの体を治癒の目で確かめると、傷はきれいに癒えていて、ホッと息を吐き出す。
「悪い。つい……」と罰が悪そうに謝るヴァルドは、本当に寛いでいたようだ。
ティニアの魔法で癒されてくれたなら何よりだ。
「ふむ…」とヴァルドの様子を確かめたマリウス先生が、彼と兄オリオンに声をかけた。
「じゃあ、ヴァルドにどれだけの変化があるか確認するから。お前らちょっと対戦してみろ」
――途端、兄オリオンが目を見開く。
「はあ?!……不公平だ!!ティニアの治癒魔法を受けていない僕の方が、圧倒的に不利じゃないですか!そんなの僕が負けるに決まってます!」
「……お前、どこも怪我してないだろ。ふざけてないで、さっさと用意しろ」
マリウス先生に軽くあしらわれて、兄は今度はティニアに訴える。
「ティニア!……ティニアなら、今兄さんがどれだけ酷い状態か、分かってくれるだろ?
兄さんには、ヴァルドよりたくさんの治癒魔法をかけてくれないか?」
「オリオン兄さん……」
ティニアの目から見ても、兄オリオンは小さな傷ひとつない体だが、ここでそれを指摘すると、ますますゴネるのは目に見えている。
シャッと軽く治癒魔法を振りかけて、「はい、お終い」と声をかけておく。
「僕の方が適当じゃないか……」とぶつぶつ文句を言う兄オリオンに、「オリオン兄さん。ちゃんとしないと、父さんに言いつけるから」と、ティニアは告げ口宣言して釘を刺す。
マリウス先生がはあっと大きなため息をついていた。
やっぱり適当に治癒魔法をかけたのがいけなかったのかもしれない。
始まった対戦で、兄オリオンがヴァルドに振り下ろす剣が容赦なかった。
ティニアは、実際の対戦を見るのはこれが初めてだが、これまで兄オリオンがロイクの剣の練習に付き合う姿は、ずっと目にしてきた。
今の剣は、今までと全く違うことが分かる。
(どれだけ本気なのよ。ヴァルドさんが危ないじゃない!)
二人の対戦中は、「後ろで控えるだけでいい」と言われていたティニアだが、マリウス先生の隣でハラハラしながら、その戦いを見守っていた。
血しぶきが飛ぶような大きな怪我ではない。
だけど、ヴァルドに小さな怪我が増えているのは、離れていても感じられる。
(せっかく完璧に治癒したのに!)と思うと、黙って見ていられなかった。
「ちょっと!止めてよ、兄さん!」
兄オリオンがヴァルドを傷つけるたびに、ティニアはヴァルドだけに治癒魔法がかかるように、細かく調整して、次々と傷を癒していく。
「ティニア、ひどい!」
兄オリオンの抗議の声に、ティニアはプイと顔を背けた。
「もう!ヴァルドさん、兄さんを懲らしめてやってください!」
ティニアの声援に応えるように、ヴァルドが大きく剣を振り下ろすと―――ガキン!と大きな音を立てて、兄オリオンが派手に後ろに飛んだ。
すぐ起き上がるはずの兄が、倒れたまま動かなかった。
「兄さん!」
さすがに焦って駆け寄り、ティニアは兄の体を治癒の目で念入りに確かめる。
けれど――どこにも傷ひとつ見当たらなかった。
「オリオン兄さん、もう起きてよ……」
「ティニア……兄さんはもうダメだ。治癒を……」
声をかけると、顔を上げて弱々しい声を出す兄は、ワザとやられてみせたのだろう。
(しょうがないなあ)とティニアは、兄オリオンにも地面から水を引くように、魔力の雨をザブザブと降らせてあげた。
陽の光にキラキラと光る魔力が、兄の上に降り注がれていた。




