22.婚約者だった彼女②
(どこから間違えたんだろう)
どんどん小さくなっていく、窓の下のティニアを見つめながら、ロイクは思う。
ロイクは、まさかティニアが今年『飛び入学』するなんて、考えもしなかった。
もちろん、ティニアがその枠を狙っていたのは知っていたが、ロイクは、そんな制度は実際に適用されることはないと思っていた。
なにしろ、オリオンでさえ、18歳での入学だったのだ。
いくらティニアの治癒魔法が規格外でも、届くはずがない願いだと思い込んでいた。
さらに―――入学の翌日。
最初の授業でティニアが、『三年までの飛び級』の許可を、担任から告げられていたなんて、誰が思うだろう。
天才と呼ばれるオリオンだって成し遂げなかったことを、ティニアは当たり前のように越えていった。
ロイクの中では、未来はもう決まっているはずだった。
来年ティニアが入学して、一年間治癒学を学んでいる間に、ロイクはペアのエリシアと共に卒業を目指す。
一年生の間、ティニアは、他の誰かと仮ペアを組むことになるだろう。
しかし、ティニアの年頃で、剣の才に秀でた者がいるという噂は聞かない。
誰がティニアのペアになったとしても、たとえその相手と少しくらい距離が縮まったとしても、一年後に正式にロイクとの婚約を発表すればいい。
そうすれば、そのペアとの絆が『本物』になるまえに、自然と元の形に落ち着くはずだった。
それで十分うまくいくと―――ロイクはそう想っていた。
しかし現実は思ってもみない方向に流れた。
あまりの急展開に、ロイクは判断を誤った。
あの日の帰り道。
学園でロイクがティニアを『妹』として話していることを、彼女が知ってしまったとき。
その横顔に落ちた影には気づいていた。
だけどエリシアがいるあの場で、言い訳はできなかった。
三年からの試験は、治癒師との連携が特に重要になる。
これまでエリシアと、『お互いが唯一のペアだ』と築いてきた信頼を、あの瞬間に壊すことはできなかった。
三年もかけて積み上げたきた信頼なのだ。そんなことができるはずがない。
でも、ティニアとは、子どものころからの絆がある。
オリオンだって、苦い顔をしながらも、ロイクとエリシアの『学園の間だけの関係』を認めているはずだ。
(明日の朝、二人で学園に行くときに話せばいい)
――そんな風に考えていた。
すぐに誤解は解けるはずだったのだ。
だけど、ティニアの落ち込む気持ちは、予想以上にオリオンを怒らせてしまったようだ。
『学園への送り迎えはロイクに任せようかと思ってたけど、やっぱりかわいい妹が心配だし、これからは僕が送り迎えするよ』
そう宣言された時、オリオンの銀色の瞳が、静かに光った。
その瞬間、(しまった)と思ったが――すでに遅かった。
翌朝、説明するつもりでティニアの家に向かったが、なぜか足は家へと続くはずの道を進まなかった。
その後、道を変え、時間を変え、何度も家に向かったが、辿りつくことは叶わなかった。
もちろん、学園に行けば、同じ教室にいる。
声をかけようと思えば、いつだって声をかけることはできるはずだ。
なのに―――ティニアがすぐそこに座っていると分かっているのに、その席に向かうための一歩が、どうしても出ない。
手を伸ばせば届くはずの距離なのに、手を伸ばすことさえできなかった。
(飛び級初日、ティニアと話す機会はいくらでもあったのに。あのとき、エリシアの目を気にせず、せめて「あとで説明したい」と……その一言さえ言えていたら)と、何度も後悔した。
ロイクに事情があることさえ、ティニアに伝われば、妹にだけはとことん甘いオリオンなら――どんな特殊な魔法をかけていようとも、解かざるを得ないはずだ。
(あの日の午前中に、何度もその機会があったのに)と悔やまれてならなかった。
確かにロイクは愚かにも、妹を異常なほどに溺愛する天才を怒らせてしまった。
だけど、そんな天才にも(一筋の情くらいはあるはずだ)と希望を持っていた。
その考えが、どれほど甘いか思い知ったのは―――
ある日の帰り、母から「今日、カインさんとセレナさんが見えたのよ」と言い出した時だった。
『ティニアの両親が揃って来た』と聞いた時点で、胸に嫌な予感が走った。
「それがねぇ……。オリオンくんが、誰も解けないような強力な魔法を、ティニアちゃんのお家にかけてしまっているみたいなの。『親戚の人も来れないんですよ……』って、セレナさんも嘆いていたわ」
オリオンが何か魔法を使ったことは分かっていた。
たが(どんな魔法かさえ分かれば、解けるかもしれない)と、一瞬だけ希望を持った。
焦る思いで、「どんな魔法だって?」と母に尋ねた。
「なんかね、『ティニアへの想いが、僕と同じか、それ以上じゃないと通れない魔法を、家の周りにかけた』って、オリオンくんが話しているみたいなのよ。
あのカインさんでさえ、セレナさんだけに贈り物を買った日なんかは、家に帰るのが遅くなるみたいよ。
……それでね。申し訳ないけど、ロイクとの婚約は一旦なかったことにしてほしいって、お話をされたの」
「………」
言葉を失って立ち尽くすロイクに、母は静かに眉を下げた。
「ロイクがティニアちゃんを大切に思っていることは、母さんちゃんと知ってるわ。
……でも、ロイクの心の中にいるのは、ティニアちゃんだけではないでしょう?
たまに家に寄ってくれるエリシアさんことも、大切に思っているでしょう?
――もちろん、それは悪いことじゃないのよ。
おじいちゃんはあなたたちの結婚を望んでいたけど、そこに囚われることはないの。
ロイクはロイクの大切な人を選びなさい」
母のその言葉に、「違う」とも、「ティニアだけが大切なんだ」とも言えなかった。
――オリオンは、きっと知っていたのだ。
ロイクが、ティニアだけを見ていなかったことを。
そして、その揺らぎを見逃さなかったのだ。
だからオリオンは、ロイクをティニアから離した。
ティニアの隣に立つ者は、想いの深さで決まると考えているからだろう。
(あの男に、オリオンさんの魔法が効かないのは……ティニアのペアだから、見逃してるのだろうか。
それとも――魔法の上をいく想いを、あの男は持っているというのだろうか)
それを知っているのは、きっとオリオンだけだ。
ロイクの元婚約者だったティニアの兄は、世間が噂する通りの、『無礼なな天才』であり、妹を異常に溺愛する、厄介な兄なのだ。
もうティニアの姿は、生垣の向こうに隠れて見えない。
けれど、微かに淡い光が瞬いた。
訓練に入る前に、あの男に保護魔法を重ねがけしているのだろう。
念入りに、丁寧に。
まるで大切な宝物を守るように。
あの試験の日。
オリオンと同じ、銀の髪と銀の瞳を宿したティニアは、これまでロイクが見たことがない姿だった。
(『ロイク兄さん』、か……)
ロイクは、また込み上げた長いため息を飲み込んだ。




