21.婚約者だった彼女
教室の窓から、四年の演習場に向かって歩く三人の姿が見えた。
もはやこの学園にはあの三人に対戦できる相手はいない。これからあの三人は、魔法学園から魔法師たちを招いての対戦授業に入るのだろう。
ロイクは喉元まで込み上げた深いため息を、なんとか飲み込んだ。
どれほど距離があっても、一目で分かる。
二人の男に挟まれて歩く、小柄な茶髪の少女は、ロイクの婚約者だったティニアだった。
ティニアは、子どものころから、「この子がロイクのお嫁さんになる子だよ」と言われてきた少女だ。
どこにいても目を引く兄のオリオンのように、輝く銀色の髪も銀色の目も持っていないけれど、そばにいるだけで不思議と心が静まる、ロイクにとって特別な子だ。
これからもずっと一緒にいるものだと、この春までは疑いもしなかった。
だけど、三歳も年が離れていたせいで、幼いころのティニアは、婚約者というより、妹のような存在だった。
もっと言えば、ロイクの顔を見るたびに、「ロイク!」と嬉しそうに駆け寄ってくるティニアが、ただ愛おしいだけで、それを「一人の女の子」として見ることは、当時のロイクにはどうしてもできなかったのだ。
――四年前のあの時までは。
あれは、オリオンがロイクより、一年早くアストラ学園に入学してからすぐのことだ。
オリオンが、一人の男を友人としてティニアに会わせた時があった。
その翌日に、ティニアから男の話を聞いて――あの時、理由もなく胸が騒ついた。
「ロイク、聞いて。昨日ね、オリオン兄さんが、学園のお友達を家に連れてきたの。兄さんに、とうとうお友達ができたのよ!
それで昨日は、父さんと母さんと、みんなで歓迎の夕食会を開いたの。
そのお友達ね、『ヴァルドさん』っていうの。すごく怪我だらけの人で……見ていられなくて、つい全力で治癒魔法を振りかけちゃった」
嬉しそうに笑いながら話すティニアの話に、その『ヴァルド』という名の男が、カーディン騎士団のヴァルドだと、ロイクはすぐに気がついた。
「ティニア、誰にでも勝手に治癒魔法をかけちゃダメだよ。治癒魔法が苦手な人もいるからね。
すごく怒られたんじゃないのか?」
ロイクは心配になって、問いかけた。
聞いた話では、カーディン家は代々、治癒魔法を忌避すると言われている。
そんな者に、無断で治癒魔法をかけたとしたら―――相手をどれだけ怒らせただろうか。
ヴァルドという男は、無愛想で人嫌いだと聞いている。
「あ、うん。そうね、気をつけるわ。……でも、ヴァルドさんは怒らなかったわ。『ありがとう』ってお礼を言って笑ってくれたし、『治癒魔法も悪くない』って言ってたわ。優しい人だったわよ」
「優しい……?」
ロイクの聞いていたヴァルドの噂とは、あまりにもかけ離れていた。
一瞬(別人か?)とも思ったが、オリオンが家に招き入れるほどの人物であれば、カーディン家のヴァルドで間違いないだろう。
(……ティニアの魔力を気に入ったのか?)
その考えが頭をよぎった瞬間、ロイクの心臓がドクンと跳ねた。
まだ学園に入学する前だったから、他の治癒師の力を体験したわけではない。
それでもロイクは、ティニアの治癒魔法が特別なものだと分かっていた。
「怪我がない?」と心配そうに、ロイクの顔を覗き込む時のティニアの瞳は、銀色の光を帯びる。
幼いころから、何度も、何度も見てきた光だ。
ティニアは自覚していないようだが、その瞬間の輝きはすぐに消えてしまう。
だから、ロイクだけの秘密にしておいた。
―――誰にも教えたくなかったのかもしれない。
(ヴァルドがもし、ティニアとのペアを望んだら……?)
喉の奥がぎゅっと締まった。
ティニアは、ロイクを強い剣士だと思っているが、それはあくまで『同世代の中では』という話に過ぎない。
剣の練習の相手をしてくれるオリオンにとっては、ロイクはただの子どもの相手だ。
ティニアの前で、オリオンがわざと剣を落とすのは、ロイクが強いからではない。
それは単にオリオンが、「ロイクが強いから、兄さん怪我しちゃったよ〜」と言って、ティニアに治癒魔法をかけてもらいたがっているだけだ。
オリオンも、カーディン家のヴァルドも、ロイクとは次元が違う。努力だけでは到底追いつかないところにいる者だった。
(もし、ティニアがアストラ学園に入学した時に、広い世界を見たら……)
ティニアが入学するころには、オリオンもヴァルドも学園を去っている。ヴァルドが、ティニアをペアに望むことはあり得ない。
だけど、(アストラ学園には、他にも強い剣士はたくさんいるだろう)と思うと、息苦しさを感じるほどの焦りが込み上げた。
ティニアが、ロイクではない誰かとペアを組んで、絆を深めていく姿を想像しただけで、息が詰まる。
理由も分からない焦燥が、全身を駆け抜けた。
そしてようやく、ロイクは気づいた。
もし本当に妹だと思っていたのなら、こんな不安を抱くはずがない。
胸が焼けるほどの焦りで、こんなにも(早く……誰よりも強くならなくては…!)なんて、追い立てられるはずがない。
―――これは、恋だ。
想いを自覚してから、ロイクはティニアを『妹』としてではなく、ひとりの女性として扱うようになった。
アストラ学園の忙しさに追われる日々でも、休日だけは、ティニアのための時間として大切にしていた。
彼女と過ごす時間が、心と体を軽くしてくれた。
どれだけ疲れていても、休み明けにはスッキリした顔で登校するロイクに、友人たちには「お前、昨日何したらそんなに元気になるんだよ」とよく聞かれた。
だけどこの学園で、「有能な婚約者が治癒魔法をかけてくれてね」なんて言えるはずがない。
「可愛い妹の相手だよ。治癒魔法の練習に付き合ってるだけ。それが、いい気分転換になるんだよ」と、笑って誤魔化していた。
治癒師の能力は、剣士との絆の深さで変わる。
一年の時からずっとペアを組んでいるエリシアは、ロイクの学年一の実力を持った治癒師だ。
最短での卒業を目指すためには、お互いに離れられない存在だった。
学園で、エリシアを誰よりも大切にするロイクに、時折りすれ違うオリオンの目が、冷ややかに感じることはあった。
それでも―――休日には、迷わずティニアを大切にしていた。
だからオリオンは、ずっとロイクの事情に理解を示してくれたのだろう。何も言わずに、黙って見守ってくれていた。
幼いころからロイクの側にいたのは、ティニアだけではない。
いつも隣にいたのは、オリオンも同じだった。
オリオンだって、ロイクのことを、確かに『ティニアの婚約者』と認めてくれていた。
―――だから油断してしまった。
後で説明すれば分かってくれる。
何かあっても、オリオンがフォローしてくれる。
ロイクは、そんな勘違いをしてしまった。




